プロローグ 五年前
この物語にはミステリー要素が含まれている都合上、誰の視点か分からなくしているシーンが含まれています。
ある街の片隅には、郊外へと続く並木道がある。
桜のような華やかな木々こそ植えられていないが、手入れが行き届いていて、来訪者の心を和ませる。そんな穏やかな並木道を進むと、大きな屋敷が見えてくる。
その屋敷の一番日当たりの良い部屋。ぬいぐるみに囲まれたベッドに、小さな女の子が眠っている。
彼女の名前は咲夜。
来年で中学になる――はずの女の子だ。
咲夜は明るい性格で人当たりも良く、クラスの人気者だった。
……けれど、今の彼女にその面影はない。目は落ちくぼみ、肌は土色と、まるで死んでいるかのような有様。
――彼女は、死に至る病に冒されていた。
そんな彼女を見守るように、五人が取り囲んでいる。
一人は咲夜の母親で、もう一人は父親だ。夫婦はこれから起きることを理解しているのか、悲しみに耐えるかのように互いの手を握り、肩を寄せ合っている。
残りの三人は、咲夜と同い年くらいの子供だった。咲夜の義理の姉である楓。それに幼なじみの男の子である柚希と、その妹の天音だ。
少し年上の楓は、両親と同じように状況を理解しているのだろう。ギュッとスカートの裾を握りしめている。
そしてこの中で一番幼い天音は、まだ状況を理解できないようで、周囲の雰囲気に怯え、不安げに咲夜を見つめている。
……だが、柚希だけは他の誰とも違った。
柚希は不安に耐えるではなく、ある決意を持って咲夜を見つめている。そしてその決意を行動に移すべく枕元にしゃがみ、咲夜の痩せこけた手を握った。
「咲夜ちゃん」
「……ゆずき、くん?」
眠りは浅かったのだろう。咲夜は弱々しく目蓋を開き、柚希の顔を見上げる。
「こんにちは、咲夜ちゃん」
「……こんにちは、柚希くん。もしかして、今日もおみまいに、来て、くれたの?」
「うぅん、今日は違うんだ」
「そう、なの?」
僅かに輝きを取り戻した咲夜の瞳が、柚希の一言に陰る。けれどそれは一瞬。彼女は柚希の手をギュッと握り替えした。
「でも、こうして……顔を見せてくれたから。あたしは、それだけで嬉しいよ」
咲夜は微かに笑みを浮かべると、柚希の背後にいる天音へと視線を向けた。
「天音ちゃんは、柚希くんについてきたの?」
「私は咲夜お姉ちゃんに会いにきたの。柚希と一緒に来るのは嫌だけど、咲夜お姉ちゃんのことは心配だもん」
「もぅ、またそんなことを言って……」
「だって、本当のことだもんっ」
「でも、本当はお兄ちゃんのことが……大好き、なんでしょ?」
「そ、そんなことないもん! 柚希のことは嫌い。咲夜お姉ちゃんが、本当のお姉ちゃんだったら良かったのに」
「もぅ……ダメだよ。お兄ちゃんのこと、そんな風に言ったら……こほっ、ごほっ」
咲夜は深く咳き込み、手元にあったハンカチで口元を拭う。純白のハンカチに、赤いシミが滲んだ。
「さ、咲夜お姉ちゃん……大丈夫?」
「大丈夫、心配しないで……って、言ってあげられたら良かったんだけど。ごめんね。もう……ダメなんだって」
天音の表情が凍り付く。どこか諦めたような咲夜を見て、幼いながらにその意味を悟ったのだろう。
そしてそれと同時、咲夜の父親が信じられないといった面持ちになる。咲夜の余命が幾ばくもない事実を、本人にはひた隠しにしていたからだ。
「さ、咲夜。どうしてそれを……」
「ごめんね、お父さん。昨日、お父さんがお医者様と話してるのを聞いちゃったの」
「あぁ……なんてことだ。…………すまない、咲夜」
絶望に彩られた顔を娘へと向ける。そんな父親を気遣うように、咲夜は微笑んだ。
「……大丈夫だよ、お父さん。だって、自分の体のこと、だもの。なんとなく。そうなのかなって、思って、いたから……」
「そう、か……。だが、心配するな。その為に――」
両親と楓の視線が柚希へと注がれる。
その縋るような視線を一身に受け、柚希はゆっくりと頷いた。
そして、静かに咲夜の顔を覗き込む。
「ねぇ、咲夜ちゃん。僕のこと……好き?」
「えっ、ど、どど、どうして?」
「僕は、咲夜ちゃんのこと、好きだよ」
「そ、そんなこと、いきなり言われても……」
「……嫌だった?」
「そんなことないっ。う、嬉しいよっ。あたしだって柚希くんのこと……だけど、あたしはもうすぐ……っ。まさかっ」
顔を赤らめていた咲夜は、何かに気づいて目を見開いた。
「ダ、ダメ! ダメだよっ。それだけは絶対にダメっ!」
咲夜はもうほとんど力の入らない手で、柚希を必死に押しのけようとする。けれど柚希はその手を掴み、咲夜の瞳を覗き込んだ。
「お願い、止めて。あたしの大切なモノを、奪わない、で。柚希くん、お願いだからっ。ねぇ誰か、止めてよ――っ!」
咲夜は必死に助けを求めて周囲を見回す。けれど両親は元より、楓もなにかに耐えるように俯いている。誰も、止めようとはしてくれない。彼らは、これから起きることを受け入れているのだ。
絶望の淵に助けを求めた咲夜は、事情を知らずに慌てる天音と目を合わせた。
「天音……ちゃん……」
そして――
「え? うっ、嘘? どうして……」
咲夜がなにかを言おうとする。けれど、柚希はその続きを聞こうとしなかった。
小さく息を吐き、咲夜の瞳をじっと見つめる。その双眼が鮮やかな蒼色に染まり、二人を淡い光が包んでいく。
「まって、柚希――」
「――ばいばい、咲夜ちゃん」
柚希が寂しげに呟いた。それに呼応するかのように、淡い光が儚くも消えていく。
ほどなくして光が収まると、先ほどまでとなにも変わらぬ光景があった。
――否。
咲夜の落ちくぼんでいた瞳は輝きを取り戻し、土色だった肌も健康的な白さを取り戻している。クラスメイトの男子を惹きつけてやまない、本来の咲夜がそこにいた。
僅かな沈黙のあと、咲夜はゆっくりと起き上がった。
そして――
「……どうして私の手を握ってるの? 離してよ」
底冷えのする声を上げ、柚希の手を振り払った。そうして柚希を睨みつける表情は、まるで別人のように冷え切っている。
「どうして、貴方がここにいるの? 女の子の部屋に勝手に入るなんて最低だよ」
「――止めないか、咲夜。柚希くんはね、咲夜のお見舞いに来てくれたんだぞ」
父親が慌てて咲夜をいさめる。けれど彼女は怒りを収めず、今度は父親に不機嫌そうな視線を向けた。
「……誰?」
「な、なにを言ってるんだ。お前の父親じゃないか」
「……父親? おとう、さん? わたしの……おとうさん?」
咲夜はその言葉の意味を確かめるかのように繰り返す。
「それじゃ……お父さんが、柚希を部屋に上げたの?」
「ああ、そうだ。だから、そんな風に言うのは止めなさい」
「……判った。それならしょうがないね」
咲夜の言葉に、父親がほっと息をつく。
けれど――
「でも、もう二度と柚希を部屋に入れないで。部屋にあげるとか、ありえないから」
咲夜の続けた言葉にみなは凍り付いた。直接的な物言いこそしていないが、それは咲夜が柚希を嫌悪しているという意味に他ならなかったから。
「咲夜、止めなさい。お願いだから止めてっ」
母親が耐えられないといった面持ちで咲夜を抱きしめる。
「どうして私が悪いみたいに言うの? 私は嫌だから嫌だって言っただけだよ? 嫌なことを嫌だっていったらダメなの?」
一向に矛を納めようとしない咲夜に、母親が涙を流す。
「違う、違うのよ、咲夜っ。柚希くんはっ、貴方のその気持ちは――っ」
「おばさん、今はそっとしてあげてください」
柚希は見ていられなくて、彼女の言葉を遮った。
「だけど――っ」
母親はなおもなにかを言いかけ――その言葉を飲み込んだ。柚希が今にも泣きそうな面持ちで、必死に歯を食いしばっているのを見てしまったからだ。
柚希はこぼれ落ちそうな涙を袖で拭って立ち上がり、クルリと背を向けた。
「天音、帰ろう」
これ以上ここにいることは出来ないと、妹に声をかける。けれど天音は答えず、呆然と自分の両手を見つめていた。
「……天音?」
「……たし、あたしは……どうして……」
「天音? どうしたんだよ、しっかりしろって」
「嘘、こんなことって……」
目の前で起きたことに混乱しているのだろうか? 天音は酷く狼狽えていた。仕方なく天音の手を掴み、そのまま部屋の外へと連れ出す。
そうして扉を閉める寸前、
「……ばいばい、咲夜ちゃん」
柚希は幼なじみに最後のお別れを告げた。