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その手に、ふうせん

「……っ嘘だろ……」

 学校から必死に走ってきたせいで暑い。いつの間にか、学校からかなり離れたショッピングモールまで来ている。広い駐車場に車はない。

 学校にも人はいなかった。それだけなら、こんなにも慌てる必要はないと思う。実は今日は休みだったとか、時計の見間違いで早く登校したとか、逆にもう放課後だったとか……。無理矢理にでも納得できるはずだ。

「自転車もない……のか?」

 やっぱり、どこにも人間はいないらしい。代わりにいるのは……どこか不気味な生き物達。明らかに、人間ではない何か。犬のようで、人の足のようでもあって、粘土の塊みたいな。それが自分の身体を引き摺っている。学校でも後ろ姿を見た。街にもいるらしい。

 なぜ、俺だけが? いや、そもそも本当に俺だけなのか? 少なくとも、リビングに人はいなかった。それはいつものことだけど。もしかしたら、俺だけが馬鹿みたいに外に出ているのかもしれない。……俺みたいな馬鹿がせめて一人いてくれればいいんだが。

 そんな仮定と憶測と願望で構成された考え事を中断して、顔を上げた。少し離れた空中を風船が飛ぶのが目に留まる。桃色の風船、黄色の風船、緑色の風船。ふわふわと頼りなく空に上っていく。

「もしかして、」

 もしかして、そっちに誰かいるのか。まあ、他にどうしようもないから、いってみることにしよう。

 俺が歩く間にも、風船は数を増す。青色、紫色、橙色。カラフルな風船が次々と飛んでいく。風船は、同じショッピングモールの駐車場から飛んでいっているらしい。歩くスピードが自然と速くなる。いきなり視界に色鮮やかな塊が飛び込んでくる。

「うぐぅ!?」

 あまりの衝撃に奇声を発する。風船のお化けか何かだろうか。……いや、よく見ればそこまでの数はない。風船ひとつひとつが鮮やかなだけだ。とりあえずここを離れよう。この風船のお化けはある意味で凶器、色彩の暴力だ。

「……あの」

 か細い声が聞こえた。周りに人影はない。つまり、この風船お化けがなにか言ったということだ。もう一度、そいつに目を向けると、風船はほとんど空に飛んだ後。同じ学校の制服を着た女の子。

 風船を飛ばしていたのは、人間だったんだな。誰だったっけ、見覚えがある。ああ、そうだ。同じクラスなんだ。去年は同じ係で、真面目な人だと思ったっけ。けっこう辛辣だったような、優しい人だったような、あんまり覚えてないけど。

「よかった。誰もいないかと……」

「あ、えっと、俺も誰もいないかと思ってた……けど。なんで、風船を?」

 風船はあとひとつ。ハートの風船。色はなんか微妙だけど。何色というのが正しいんだろう。目に付いた絵の具を適当に混ぜ合わせてる途中みたいな、マーブルっていうんだっけ。

「わかんない。あのさ、学校行った?」

「行った。誰もいなくて、変なやつがいたけど」

 この子も、学校には行ったのかな。制服だし……。今までひとりだったのかなぁ。俺もそうなんだけど、心細かったろうに。

「やっぱりねー。なんなんだろ……。言葉も通じなければ、私に興味もないみたい」

「話しかけたの?」

 彼女は無言で頷いた。恐怖とかないんだろうか。びびっているのは俺だけらしい。

「敵意はないんだったら……まあ。とりあえずお店で話さない?」

 その提案に彼女も納得した模様、並んで歩く。店に足を踏み入れて数歩。

「……ね、ねえ」

 袖を引っ張られて、横を向く。

「どうかした?」

 あれ、しまった。ちょっとはやく歩きすぎた? 君は一歩後ろ。振り向いてみると……。入り口にずらりと並ぶ、あの変な生き物。後戻りはできないらしい。……それだけならまだしも。そのうちの一個体が一歩前進し、近づいてくるじゃないか。

 俺は迷わず、走り出した。もちろん彼女の腕を掴んで。なんとなく、逃げなくちゃいけない気がした。敵意がないらしいことは聞いてわかってたけど、怖くなったんだろう。どこに行くとか、道順とかは考えてなかった。

「ねぇ、どっかいいとこ知らない?」

 返事がない。腕をいきなり掴んだのは不味かっただろうか……。気が動転したとはいえ、驚かせただろうし、悪いことをしてしまったかもしれない。

「……ごめん。いきなり掴んで」

 掴んでいた手を緩めた。君はするりと手の中をすり抜けて、俺の手の中には君の手が収まった。……まあ、腕を掴んで走るよりは安全だろうけど……。

 あいつが、身体を引き摺る音がする。行かなくちゃだめだ。また走り出す。あいつはそこまで素早くないから、すぐに逃げ切れるだろう。階段を使えばきっと……。

 走って階段にたどり着くと、そのまま駆け上った。

「大丈夫? 疲れた?」

 そんなことをいいながら振り向くと、君の姿はない。辺りを見回してみても、どこにもいない。僕は君の風船を持っていた。あの、ハート型のよくわからない色だった風船。

「え、じゃあ俺はずっと……置いてきた?」

 まだあそこにいて、もしかしたらあいつらに囲まれてたりするのかもしれない。探しに行かなくちゃ……。

 そう思い、一歩進む。何かの気配に右に目をやった。誰もいない服屋の鏡。なんとなく目が離せなくなってしまう。学生服を着た俺、その手にはハートの鮮やかな「赤い」風船。

「赤……じゃ、ないよな……」

 俺から見て、風船は鮮やかな赤なんてしていないはずなんだけど。そんな風船を持つ手も震えてる。震えてるけど、案外、俺は冷静だ。

「……普通に考えたらただの人間から際限なく風船なんて出てこないじゃん」

 もしかして。いや、多分俺は。

「夢を、見ているんだろうか。今目を覚ましたら、この続きなんて消えて……。それで、無事な姿を見ることができるんだろうか」

 風もないのに、風船が揺れている。ふらふら頼りなく。ハートのそれは融けるように真っ赤な雫を垂らして。風船の糸が灰のように消えた。

「起きなくちゃ、学校に行っ――」

 音が消える。身体に力が入らない。視界がぼやける。店の照明が眩しくて、まるで蝶のようだ。身体が倒れる。痛みはない。心臓の音が聞こえて、夢が醒める。

 ――完全に何も見えなくなる直前、あの粘土みたいな生物が俺を見下ろしているのが見えた。その崩れた顔はまるで、涙を流しているようで――。


 ……目覚まし時計の音がする。いつもなら鬱陶しい音。だけど今日は、なんだかこの音が心地よい。なにか夢を見ていた気がする。なんの夢を見ていたんだっけ……。どうやらもう思い出せないらしい。

 布団をたたみ、着替えてリビングへ行く。

「おはよう」

 リビングには誰もいない。弟はいつもまだ寝てる。親も寝ているか仕事だろう。一人でおはようといってきますを言うのも寂しくなくなった。一人の朝食もいつものこと。

「いってきまーす」

 今日はどんよりと曇ってる。雨が降るんだろうか。ううん、なんでもいい。はやく学校に行こう。遅刻しないようにしないと、ね。

 静かな朝の静かな登校時間。誰ともすれ違わない。まるで、この世界に俺以外の誰もいないみたいだ。

「どこかに誰かいないのか?」

 人の気配を求めても見つからない。どうしようなくなって、空を見上げると、そこには真っ黒い風船が漂っていた。その風船がどこから現れ、どこへ向かうのかは俺は知らない。だけど、あの風船の下に行くべきだと思った。


 *


「確か、このあたりだったはず……」

 どこからか漂う甘い匂いが鼻腔をくすぐった。大きな道路に出る交差点。やけにべたつく地面には、目に痛いほどカラフルなペンキ――なのかどうかもわからないが――で塗れている。いつのまにか靴もべとべとだけど、だけど不思議なもので、不快感はない。

 ……俺はペンキを辿ることにした。この色彩の暴力みたいな甘ったるく乾き始めた道の先になにがあるのか、興味があった。

「……君は……」

 道の終わり。駅前のバス停。時刻表は真っ白だ。そこに見えたのは、沢山の色を混ぜた、お世辞にも綺麗とはいえない色のペンキに塗れた女の子。滴り落ちるペンキが足元に落ちる。地面に触れたペンキが色鮮やかに流れる。

 ベンチに座っていた彼女は、俺を見て笑みを見せた。

「おはよう。今日も元気で何よりだよ」

 そう言うと、俺に何か投げてくる。缶コーヒー……くれるのだろうか。お礼を言うとプルタブに指をかけ、開ける。そのまま口をつけ流し込む。思っていたより喉が渇いていたのか、一気に飲み干した。

「生き返る……」

 そういうと、彼女はまた微笑む。遠くから車の音が聞こえた。バスが来たらしい。

「誰もいないと思ってたけど、バスはくるんだ……」

「そうだね、あれは最後のバス。私はあれに乗って行くんだ。……一緒にくる?」

 君が立ち上がると、指の先や髪からペンキが滴るのをやめ、脚を伝う。

「何処にいくんだ?」

「さあね。人間のいる世界かな」

 人間のいる世界。この一言で、この世界には人間がいないことを理解した。今までは外にいないだけだと言い聞かせていたけど、本当にここには人間はいないんだ。

 バスが止まる。君はバスに乗る。入り口で立ち止まって俺を見る。

「正直、人間は好きじゃないけど。こんなに広い場所で独りっていうのもつまらないものだね。だから一緒に帰……」

 帰ろう。そう言いたかったんだろう。だが、その言葉は最後まで発音されなかった。彼女を置いて、バスは去る。空っぽのまま。俺は彼女の腕をつかみ、引いていた。少し驚いたような表情の君がバスから引き摺り下ろされていた。

 バスに乗れなかった少女が俺を真っ直ぐに見つめている。何か言いたげに口を開いて、そのまま閉じた。

「別に、独りじゃないだろ」

 俺の言葉を遮るものはここに誰もいない。

「好きでもない人間のところになんか、帰らなくっていいじゃないか」

 曇った空に晴れ間はできそうもない。まあ、晴れは眩しすぎるから、曇ったままでいいと思う。

 さっきまで座っていたベンチには、いつのまにか蝶々がとまっていた。紅の綺麗な蝶だ。

 空にも、風船と一緒に蝶が舞っていた。気持ちが悪くなるほどの甘ったるい香りが辺りに立ち込めている。



 ――あのバスの行き先を俺は知らないままだ。どんよりと曇った空に風船と蝶が舞う。

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