第1話 わたし、お気に入りのお店ができたようです。
ジュリが雑貨屋をマスターサリアより任されて、一日が経過した。
昨日、ジュリはサリアに弄り、弄られながらも、一張羅とも呼べる服の調達に成功した。勿論それは、サリアの宣言通りに黒と白のメイド服だったが。
ジュリは嫌々それを着て、雑貨屋に併設されている新たな自宅の掃除にかかった。雑貨屋の店舗と同じく相当な埃が積もっていたそこを掃除するために、まず掃除道具の掃除から始めるという不思議な出来事を経験する。
そもそも辺境の村とはいえ、村一番のお嬢様であったジュリに、いきなり掃除をしろというのはなかなかに厳しい。掃除道具をサリアと一緒に綺麗にした後、ジュリはサリアから、雑巾の使い方、箒の使い方やちりとりの方法、モップでの水拭きなど、一から十まで教わらなければならなかった。
結局、その講義だけで夕方までの時間を費やし、ジュリが一人だけで掃除に取りかかったのは日が暮れてからだ。睡眠時間を削りに削って、掃除が完了したのは寝室とキッチンのみ。ある程度要領を得てきたので、今日は居間と玄関、お風呂やトイレを掃除することにしている。屋根裏部屋や倉庫は後々に掃除することにして、明日は雑貨屋店舗の掃除だともう心に決めていた。
埃の積もり方から、一体サリアは何年ここを放置していたのかと疑問に思い、それを問いつめてみたが、「一〇年は放置していない」という曖昧な返答しか返ってこなかった。しかしその意味を逆に取れば、「一〇年近くは放置した」ということなのだろう。よく木造のこの建物が、放置されたままで一〇年も建っていたものだと感心する。
ジュリはまだ少し埃っぽいベッドから起きあがり、全身に魔力を行き渡せる為に大きく伸びをした。頭の上から生える黒猫の耳についた埃を手で払い、尻尾も同様に手入れをする。胸の紫水晶から全身に魔力が行き届いたのを感じたら、ぴょんとベッドから飛び降りる。
壁に掛けてあったメイド服をささっと着込むと、キッチンへと向かう。当然、食事をするためだ。サリア曰く、飲食をする魔法人形というのは、全世界を探してもジュリだけらしい。外見は兎も角、人間性を極限まで追求した結果だとも言っていたが、これについてはサリアに感謝だ。食べ物を食べることの出来ない人生なんて、死んでいるも同然だとジュリは思う。現に生前、ジュリは母親が作ってくれる夕ご飯を凄く楽しみにしていて、その時間が訪れるのを毎日心待ちにしていたものだ。お抱えのシェフが作ってくれる食事も美味しかったが、やっぱり母の味には到底敵わない。
だが、今日からは自分の力で食事を作り、食べなければならない。とりあえず手頃なのはパンだろう。パンなら街のベーカリーに行けば買えるだろうし、キッチンには薪のオーブンもある。材料さえ揃えば、自分で作ることも出来る。母親が何度もパンを焼いているのを見ているので、それを真似ればなんとか出来るのではないか、と安易に考えてしまう。幸いにも今のジュリはゴーレムなので、魔力を使って記憶を鮮明に呼び起こす事が出来るのだ。
今日はとりあえず、街のベーカリーに行ってみることにした。サリアの置いていった軍資金は一〇万к。雑貨屋が軌道に乗るまでは、この金額内でやりくりしなければならない。勿論彼女が言ったように、ジュリの核であるパープルクォーツもこの金額内で調達だ。だからこそ、無駄使いはできない。
ジュリはメイド服の上から大きめのフードを被り、猫の耳を隠して左手には布の手袋をつけた。尻尾はスカートの中に隠す。金色の猫目だけはどうしようもないが、これで一見普通の人間に見えるはずだ。
キッチンの棚からバスケットを取り出し、腕に掛けると、勝手口を出て、王都ファーレンを東西に貫く大通りへと向かった。まだ日が昇って間もないと言うのに、既にそこには多くの人々が行き交い、たくさんの露店商が見世を開きつつある。
昨日は結局、大通りにある店をほとんど覘くことが出来なかったので、今日は掃除の前に日用雑貨を買いそろえようと思っている。机や椅子、棚などは揃っているものの、調理道具や文房具、お皿やコップなど、そういった物はほとんどが朽ちてしまっていたので、改めて揃えないといけないのだ。
心躍らせながら大通りを歩いていると、ジュリのお腹が鳴った。立ち止まってお腹をさすると、途端に空腹感が襲ってきた。
色んな店舗を冷やかしながらベーカリーに向かおうと思っていたが、方針を変更せざるを得ないようだ。ジュリは昨日服を買って貰う道中に目星を付けたベーカリーに、一目散に向かう。
その店舗に近づくたび、パンの焼ける香ばしい薫りが鼻を突く。空腹感を更に刺激され、自然と歩く速度が上がる。
その店舗は、ジュリの任された雑貨屋のように、表からウィンドウ越しに店内が見える造りだった。棚にずらりと並ぶ色々な種類のパンが、ジュリの目を楽しませる。もう我慢出来ない、と言わんばかりに、ジュリはその店舗"ラズベリー・ベーカリー"の入り口を勢いよく開けた。
ドアに取り付けられた鈴が、チリンと鳴る。その音で店主の女性が気が付き、釜戸に素早くパンの生地を放り込んで振り返った。
「いらっしゃい!」
そしてジュリを見ると、にこやかに微笑んだ。
「おや、お使いかい。あんまり見ない子だねぇ!」
言って、カウンターから出てきた。手からミトンを取り、それをカウンターに放り投げる。
「お、おはようございます…」
その元気のいい店主に、ジュリがおずおずと頭を下げる。店主の女性はジュリに近づくにつれ、だんだんと驚きの表情に変わっていった。
「おや、アンタもしかして、サリア様んとこの子かい!?」
すばりと指摘され、ジュリは思わず、両手で頭のフードを押さえた。
「は、はい。裏通りの雑貨屋を任されました、ジュリといいます…」
びくびくとしているジュリを見て、女店主は大声で笑った。
「ってことは、アンタはゴーレムって事かい。前作と違って、今回は凄く人間に近い造りなんだねぇ」
笑いながら、ジュリの背中をばんばんと叩く女店主。
「えっと…マスターサリアとお知り合い…なんですか?」
「知り合いもなにも!」
腰に手を当てて、まるで男のようにガハハと笑った。
「サリア様は、ウチの常連さんだよ。宮廷勤めになってからも、きっちり一日一回はウチでパンを買ってくれるお得意様さ!だから、雑貨屋の事情も知ってるし、歴代ゴーレムが店主をしてることも知ってるんだ」
ずいぶんと大らかな性格の女店主だった。事情を知っているなら、あまり緊張する必要もないとジュリは感じ、身体の筋肉を少しだけほぐす。
「ジュリちゃん、だったね。今日はサリア様のお使いかい?」
その言葉に、ジュリはふるふると首を横に振る。
「いえ、わたしの食事を買いに来ました。私は、食べないといけないゴーレムらしいので…」
「へぇ、すごいね!ゴーレムの一般常識っていやぁ、魔力で稼働する、永遠の命がある、くらいなもんなのに、アンタはさらに食べないといけないんだ」
「…らしい、です」
ジュリのお腹が、女店主に聞こえるくらいにグーと大きく鳴った。女店主は、その音を聞いて、ピュゥと口笛を吹く。ジュリが慌ててお腹を押さえる。
「よし、腹が減ってるのは分かったよ!感心するところだが、まずは商売だね!お近づきの印に、今日はどのパンも一к均一でいいよ。たくさん買っておいき!」
ジュリは表情を輝かせると、何度も女店主に頭を下げた。そして鉄製のトングを右手に持つと、棚にずらりと並ぶパンを選び始める。
「そうだ、ジュリちゃん。困ったことがあったら、遠慮なく来なさい。あたしは生まれも育ちもこの街だからね。力になれると思うよ!」
カウンターに戻った女店主が、奥の釜戸を覗きながら言った。ジュリはバスケットに黒パン2つと白パンを1つ放り込み、それをカウンターに持ってゆく。
「…いいんですか?」
女店主はミトンを着け、釜戸の中の鉄トレイを引き出しながら、大きく頷いた。
「ありがとうございます!」
ジュリがカウンター越しに頭を下げる。そして勢いよく頭を上げた時、フードが頭からするりと落ちた。そこから、ぴこぴこと動く黒猫の耳が露わになる。
「ひゃぁっ!」
ジュリはすぐにフードを被り直すが、それを女店主はきっちりと見ていた様子だった。
「おやもしかして、ジュリちゃんは猫のゴーレムなのかい」
「は、はい…」
頭を押さえながらジュリが返事をすると、女主人はカウンターに戻ってきてジュリの頭を優しく撫でた。
「いいね、可愛いねぇ。オバさん猫は大好きさ。あたしの名前はラズベリーだよ。アンタに負けず劣らず、可愛い名前だろ?」
頭を撫でられ、ジュリは顔を真っ赤にしながらもこくりと頷く。
「さて、今日はパン3つだから、三кだね。明日からはきっちりお金取るからね!」
ジュリは財布から、一к銀貨を三枚出してラズベリーに手渡した。
「はいよ、まいどあり!」
「こちらこそ、ありがとうございます」
改めて、深々と頭を下げる。
「いいんだよ、これからもご贔屓にね。ところで、いつから雑貨屋やるつもりなんだい?」ラズベリーがカウンターに片肘をついて、ジュリに尋ねる。
「えっと…掃除とかも含めて、まだ一週間くらいは先になりそうです」
「ふむ。店の名前はもう決めているのかい?」
「…店の名前…?」
ジュリが呟く。
そこは盲点だった。と言うか、そこまで考えが及ばなかったと言うべきか。拒否権がなかったとはいえ、折角自分の店を持ったのだ。それなりの名前を付けないと、世間に知らしめる事は出来ないだろう。それは売り上げにも関わってくるに違いない。ジュリはバスケットを抱えたまま、その場で考え始める。
「まあ一週間あるなら、のんびり考える事さ。どのみち、カンバンを掲げるのは一番最後になるだろうから。店の準備を誰かが手伝うことは出来ても、店の名前を他人が考えることはあんまりよろしくない。自分の店なら、自分が納得出来る名前を付けてやることだね」
ラズベリーの、早速のアドバイスだった。
「はい、そうします」
ジュリが頷くと、ラズベリーはにこりと笑って親指を立てた。
「よし、頑張るんだよ!」
「ありがとうございます!」
ジュリは頭を下げ、ラズベリーに向かって親指を立てた。もう、フードが取れるのも気にならなかった。