『 僕とアルトの日記 』
自分の部屋に用意した、珈琲を入れるための道具で珈琲を淹れ
ソファーへと腰かける。珈琲を一口飲んでから受け皿へカップを置いた。
アルトが寝る前に、持ってきたノートを机の上から持ち上げ
膝の上に置いてから、表紙をめくる。
一番最初のページに書かれている文字。
拙い筆跡で、それでも一生懸命書かれた事がわかる文字を見て
口元が緩む。
【あさ、ひげ、ない
よる、ひげ、ある】
話すことさえ、満足にできなかったアルトが
初めて書いた文章だ。返事に困る内容だったけれど……。
アルトの文字の練習。そして、僕とのコミュニケーションの
ツールの1つとしてこのノートを渡した。獣人の人権が認められていない
ガーディルの城下町を連れてあるくことができない為に、ダリアさんに預け
僕と離れることを寂しがった、アルトの為に用意したものだった。
アギトさん達は、アルトが僕にノートを渡すのを見て
暁の風の活動報告のノートだと思っているようだ。
チームに入ると、チームによって報告の内容は変わるらしいが
個人で受けた依頼。依頼の成否などを報告する義務が
あるところが多いらしい。黒のチームは
一月ごとの目標と、その過程と結果も
報告することになっていると話していた。
日記だと伝えてもよかったけれど、日々のアルトの行動が記されているから
活動報告みたいなものだろうと思い、訂正はしなかった。
日記、活動報告……。そしてアルトの成長の記録だ。
アルトと出会ったのが、サルキス1の月。今は、ウィルキス2の月
アルトと一緒に過ごして、もう8ヵ月にもなるんだな。
いや、まだ8ヵ月というべきなんだろうか。
そんなことを考えながら、ページをめくり
アルトの文字を目で追っていく。
【さかな、くち、ぱくぱくしてた。
じぶんで、つったさかな、おいしかった。
あした、またつりたいな。】
初めて、アルトと釣りをした時の日記だ。
明日また釣りたいと書いてある通り
アルトは、釣りが好きになり
その後の旅は、川や湖を見つけるたびに魚を釣ることになるほどの
熱の入れようだった。今では、アルトの立派な趣味の1つになっているし
先日も、孤児院の友達と学校でできた友達と一緒に海釣りに行っている。
多少問題が起きたようだが、その日の成果は
なかなかに素晴らしいもので、釣ってきた魚を
バルタスさん達が捌き、夕食の一品として並び
酒肴のメンバーや、サーラさん達から美味しい魚をありがとうと言われ
嬉しそうに尻尾を振っていた。
パラパラとページをめくり
色々な事を思い出しながら文字を読んでいく。
僕と出会ったばかりの頃のアルトの日記は
そのほとんどが、興味を持ったことへの質問や
新しく見つけた物の報告などで占められていた。
そこに在る感情は、楽しい事がほとんどだった。
それが、ラギさんと出会ったころから
ラギさんと何かをしたなど、アルトの日記の内容も
変化していく。書ける文字が増えたということもあるけれど
様々な感情を、うまく表現できるようになっていく。
大体の文字が書けるようになってからの、日記の内容は
多い時は1ページ以上。少なくても1ページの半分は文字で埋まっていたが
ラギさんが亡くなった時の日記は
【さびしい】この一言だけだった。
アルト自身、色々な感情と戦っていたのだろう。
暫くは、元気のない文字が綴られることになったけど
王妃様達のおかげで、ゆっくりとアルトの心が癒されていき
ムイと出会った事で、アルトは本来の明るさを取り戻した。
【ムイが食べられなく良かった。
俺は、食べるものに困ってもムイだけは食べないと誓う!】
ムイとは、すぐに離れることになってしまったけれど
自分で考え、決断し、実行したからかすぐに元気を取り戻していた。
その後、アギトさん達と出会い
同盟を組むのが嫌だと言葉にした時から
アルトの日記には、愚痴ともとれる文章が増えたが
孤児院の友達と出会い、孤児院へ通うようになってからは
ほぼすべて友達と遊んだ内容になった。
たまに、黒のチームの人達の愚痴がちらほらとちりばめられているが
嫌っているわけではなく、兄弟の末っ子らしい文句というのが
近いかもしれない。それだけ、皆に大切にされているという事だろう。
読んでいて、微笑ましく感じることが多かった。
アルトの日記に、頻繁に名前がでてくるのは
クロージャ、セイル、エミリア、ジャネットそしてワイアット。
ワイアットという少年は、友人と呼べるのかどうかは
わからないけれど、一緒に行動はしているらしい。
なぜか、目の敵にされているような態度を取られると
日記には書かれてあるが、アルトはさほど気にしてはいないようだ。
一番の友人は、クロージャとセイルという少年で
この2人は、アルトにとても親切にしてくれるらしい。
ほぼ毎日のように、名前が出てくるのはこの2人だ。
そこに、エミリアとジャネットが含まれるといった感じだろうか。
学校へ行くまでは、孤児院の子供の名前だけだったけれど
学校へ通うになってから、日記に友人の名前が2人増えた。
アルトを敵視していたと思われる2人が、不思議なことに
アルトと仲良くなっていた。
1人はミッシェルという少女。
彼女は、アルトと問題を起こしておきながら
アルトが、学校へ戻るきっかけを作った少女だ。
根はとても優しい女の子なんだろうと思う。
ギルドで出会った時の彼女は、深く反省しアルトとそして僕に
心からの謝罪をしていたから。だから、僕もアルトも謝罪を受けいれた。
もし彼女の謝罪が、適当なものであり獣人族を蔑むような
考えを持っていた場合は、謝罪を受け入れることはしなかっただろう。
彼女がなぜ、あのようなことを言ったのかは
アルトの日記に、詳しく書かれていた。
ミッシェルには、2人の幼馴染とも呼べる友人がおり
その友人の1人が、午後からの授業を受けることになったそうだ。
そこで、ミッシェルともう1人も午後の授業に移動したいと
自分の親に頼んだそうだが、ミッシェルの父親はそれを良しとしなかったらしい。
彼女は、頼みに頼み込んで父親が出した条件をクリアーできたら
移動してもいいと言われたようだ。何度も失敗し、毎日努力して
あと一歩というとこで、アルトに潰され心が折れてしまったらしい。
友人が移動する期限も、迫っていたからか
その鬱積を、アルトにぶつけてしまったと
八つ当たりをしてしまったと、しょんぼりとしながら告げたらしい。
結局、彼女は罰としてその条件を取り消されることになり
幼馴染の友人1人だけで、午後からの授業を受けるのは心細いだろうと
もう1人の友人も、午後からの授業へと移動することになった。
彼女が、もう1人の友人に午後の授業へ行くようにと勧めたようだ。
友人2人と離れることになった彼女に、アルトは少し罪悪感を覚えたようで
日記には、こんな風に書かれていた。
【もし、自分がクロージャ達と離れて1人で
午後の授業へ行く事になったらと思うと、嫌だなって思った。
友達と離れるのは辛いっていう気持ちは、俺にもわかるし……。
ミッシェルが、1人で給食を食べてる姿を見て
なんか胸の中がもやもやしたから、一緒に食べようと誘ったら
凄く驚いた顔をして俺を見てた。
首を横に振って断ろうとしてたけど、エミリアとジャネットが
一緒に食べようと誘ったら、困ったような顔をしてから頷いていた。
ご飯は、1人で食べるよりみんなと食べたほうが美味しいから
よかったと思う。】
その日から、ミッシェルはエミリアとジャネットと
一緒に行動することになったようだ。楽しそうに、笑って過ごしているらしい。
ミッシェルは、お菓子屋の娘さんのようで
毎日、色々なお菓子をもってきてくれるようだ。
自分で作ったものを、持ってくることも多いと聞いている。
アルトの日記には、毎日の給食の内容とお菓子の内容も綴られている。
ミッシェルの作ったお菓子が美味しいと、夕食の時にアルトが話したことで
対抗意識を燃やした、酒肴のメンバーがアルトにお菓子を持たせることになるのだが
大人げないなと、アギトさん達が笑いつつも彼等の真意が
給食だけでは足りない、アルトのお腹具合を気遣っての事だと
アルト以外の全員が気がついていた。
まぁ……。お菓子の感想を食べた全員に聞いてこいという
命令を受けてはいたけれど。
そして、もう1人ロイールという少年も
アルト達のグループに入っているようだ。
僕が彼と会ったのは、アルトがお弁当の唐揚げにつられて
ミッシェル達と一緒に、学校へと向かった後だった。
アルトの武器を奪おうとした彼等は、一晩牢屋に入れられ
朝早く、保護者が迎えに来たようだ。彼等は学校を休むと思われていたが
ロイールだけが、彼の兄と一緒にギルドへとやってきた。
彼の兄は、それなりに鍛えてある体つきをしていた。
ロイールも、クロージャ達に比べれば鍛えているほうだろう。
ロイールを見て、サフィールさんに見せてもらった
記録の中の彼と違って驚いたけれど、それを言葉にすることはしなかった。
多分、僕だけではなくミッシェル達の両親も驚いていたんじゃないだろうか……。
ギルドへと入ってきた2人は、まず受付へと行き
そして、ギルド職員の人が僕に視線を向けると
彼と彼の兄も緊張した表情を作りながら僕の方を見た。
ロイール兄は、ロイールの首辺りを掴み
一目散に僕の傍へと来て、頭が床につくんじゃないかと
思うくらいの勢いで、頭を下げていた。
『申し訳ありません!
弟のロイールが、貴方様のお弟子さんに
大変、大変失礼な事をしでかしました。
鍛冶職人の息子でありながら、冒険者の武器を奪おうと
するなど……』
そこで、ロイール兄は様々感情を飲み込むように
一度口を閉じ、ロイールはといえば小さくなりながら
同じように僕に、頭を下げていたのだった。
ロイール兄の名前は、ロガンさんといい。
2人はバートルに本店を持つ、鍛冶職人の息子さんらしい。
ロガンさんは、独り立ちをしてハルに支店をだし
ロイールは、学院へ入る為の準備として親元を離れて
ロガンさんと一緒に生活をしていたようだ。
アルトから武器を奪おうとした理由は
アルトの武器が見たかったからという単純な理由だった。
見せてくれと、素直に言えれば問題にはならなかったはずなのに
アルトが、クロージャ達のグループに入っていた事から
頼むこともできず、力で解決という形になったようだ。
見た後は、返すつもりだったとロイールは俯きながら全てを話してくれた。
アルトが冒険者でなく、奪おうとしたのが武器ではなかったら
ここまで問題にはならなかっただろうと思う。子供らしい理由だ。
ロガンさんは、最後まで僕に謝り続けていた……。
僕としては、ロイールがサフィールさんから十分な注意と罰を
受けていたようだし、少し鍛えただけの人間がアルトから武器を
奪えるなどとは思っていない。これが、大人の冒険者や奴隷商人ならば
絶対に許しはしないが、反省しているのであれば
更生の機会を与えることも必要だと思うという事を伝え
ミッシェル達と同じように、謝罪を受けいれた。
更生の機会というところで、ミッシェル達の保護者は
笑いをかみ殺したような表情を作っていたけど
その気持ちは理解できる。アルトはどんな本を読んだんだろうか?
ただ、僕はともかくアルトがどういった答えを出すかは
アルト次第なので、僕からは口を出すつもりはないという事を
付け加えておいた。
アルトは、全くと言っていいほど気にしていなかったから
多分、本気で謝罪したならば許すだろうと思うけど。
その日のアルトの日記には、前半はミッシェルの事。
そして、後半はロイールの事が書かれてあった。
【びっくりした。ロイールの髪が綺麗になくなってた!
つるつるになってた! 顔も青あざだらけだったし
腕や足も、少し怪我をしているようだった。】
アルトの日記の通り、ロイールの髪は綺麗に剃られ
丸坊主になっていた。きっと、ロガンさんが剃ったんだろう。
性根を叩きなおしますと、決意を秘めた目で僕に話していた事から
ロイールは、これからの生活が大変かもしれない。
自業自得ともいうけれど。
【ロイールが、俺に謝ってから
クロージャやセイル、ワイアット。そしてジャネットやエミリアにも
謝ってた。セイルは、ロイールに気持ちが悪いと言っていたけど
ロイールは、言い返さずに。肩を落としながら自分の席へと戻って行った。
どうせ、あの態度は数日の事だろうとセイル達が話していたけど
俺にはそうは見えなかったなぁ。とりあえず、俺は気にしてないから
ロイールも気にしなくてもいいという事だけは、伝えておいた。】
簡単にロイールを許したアルトに、セイル達は眉根を寄せたらしいが
アルトが決めた事だからと、渋々納得してくれたようだ。
ただ、セイルはロイールを許すつもりはないらしい。
そんな彼等の関係が変わるのは、この日から数日たった頃だ。
そして、ノートのページ数が残り少なくなっていた事に
気がついたのもこの頃だ。そろそろ新しいノートを用意しないと
いけないなと思い、能力で作り出し机の中へとしまっておいた。
【ロイールが、1人で勉強して1人で給食を食べてる。
ロイールの友達は全員、午後の授業に移ったみたいだ。
午後顔を合わせても、ロイールの事を無視している。
友達だったんじゃないのかな?】
あの日、ロイールと共に行動していた子供達は
全ての責任をロイールに背負わせて、自分達は関係ないと
話していたそうだ。牢屋の中でも、ロイールを責めるようなことを
言っていたらしい。
【クロージャが、ロイール達の事を調べて教えてくれた。
どうやら、ロイールは友達に裏切られたらしい。
ロイールは馬鹿だと思うけど、馬鹿な事をしようとしたら
止めるのも友達だよね?
自分の行動を決めるのは、自分自身のはずだ。
あの時、ロイールの行動を肯定していたのだから
責任は、ロイールだけじゃなく全員にあると思う。
今まで、ロイールの後ろに隠れておいて
ロイールが使えないと思ったら、手を切るなんて! 最悪だ!!
止めることもせず、ただロイールの命令を聞いただけだと
言ったあいつ等を、俺は絶対に許さない。】
僕には、ロイールとその友人達の関係が
本当は、どういったものだったのかは知らないけれど。
手のひらを返したように、自分から人が離れていくのは
辛いだろうと思う。アルトの日記や話からしてロイールは
自分の友人は、大切にしていたようだから。
アルトにしてみても、最近できた友人という人間関係を
とても大切にしており、そして大切にされていることから
友人を裏切るという行為は、アルトの中では絶対に許されない事
5本の指にはいると言っていた。他には何があるのかと尋ねてみたら
『俺の食べ物を奪う事!』とエリオさんを見ながら言っていた……。
食べ物への執着は、アルトが大人になってもかわりにそうにないなと
バルタスさん達、酒肴のメンバーを見てそう思った。
日ごろの行いが悪かったロイールは、他のグループからも
誘われることなく、日々を過ごしていたらしいけど
【セイルが、ロイールを許した。絶対に許さないって
はっきりと言ってたのに。給食の時に、ロイールの席へ行って
俺達の席へと連れてきた。ロイールは戸惑ったような表情を見せていたけど
クロージャも、ワイアットも何も言わなかったしエミリアもジャネットも
ロイールに笑いかけていた。あれほど怖がっていたのに。】
アルトの周りには、人の痛みを慮り
許せる人間が集まっているようだ。
アルトの日記には、記されてはいないけれど
孤児院の子供達は、ロイールを許すという決断をするまでに
沢山の葛藤があったのではないだろうか。
セイルだけではなく、全員がロイールを受け入れたという事は
事前に何らかの話し合いがもたれていたのだと思う。
毎日のように、親無しと言われるのは
自分を無条件で愛してくれる温もりが、傍にもういない事を
自覚させられる。その悲しみは、本人たちにしかわからない事だ。
【ロイールは小さく、ごめんともう一度謝った後
俯いて、動かなくなった。そんなロイールを座らせたのは
ミッシェルで、ロイールは余り話さなかったけど
表情は、明るかったから大丈夫だと思う。
それから、自分の事を俺様って言わなくなった。
何かを、誰かを気にしながら食べるご飯は楽しく食べれないから
これで心置きなく、給食を楽しめる! 良かった。】
彼……ロイールが、本当に後悔するのは
きっと、孤児院の子供達との繋がりが深まった時だろう。
彼等の心を知り、孤独を知り、悲しみを知った時
彼は何を想うんだろうか……。
謝罪したからといって、全てがそこで終わるわけではないから。
だけど、それさえも乗り越えることができたら
きっと生涯にわたる、大切な仲間になるんじゃないだろうか。
多分。そんな気がする。
【でもやっぱり、セイルがどうしてロイールを許したのか
気になって、聞いてみたんだ。そしたら、セイルは少し顔を赤くして
俺にも、星がそばにあるって気がついたからと言っていた。
星がそばにあってよかったねって伝えたら、嬉しそうに頷いていた。
俺も、誰かの星になれたらいいなってその時思ったんだ。】
誰かの星にか……。
アルトは十分、星になれていると思う。
光など。星など必要ないと思う僕の隣で
アルトは、煌々と輝いて僕を引き留めるのだから……。
暗い思考に傾きそうになるのを抑え
ノートのページをめくる。
毎日何があったとか、どんな遊びをしたとか
何を食べたとか、アルトの文字からは嬉々とした感情が
伝わってきていたのだけど、なぜかここ数日の日記は内容が
給食の事とか、お菓子の事と少しの出来事しか綴られていない。
悩んでいるような、迷っているような
文字を何度も消したあとがあることからも
僕に何か伝えたいことがあるんだろうと、考えていた。
朝起きてから寝るまでの間で、アルトの様子がおかしいと思うのは
僕に日記を渡すときだけ。今までは、尻尾を振ってノートを僕に
渡してくれていたのが、その尻尾の動きに元気がなくなっていっていた。
そして今日。ノートの最終ページ。
明日、新しいノートを渡そうと思っていた。
だけど、それは不要だったようだ。
【師匠。俺、日記をやめてもいいかな……。】
何度も何度も、書きなおした紙の上に書かれた文字。
考えて考えて、書かれた一文。
その一文には、アルトの様々な感情がこめられているように思う。
日記をやめようと思った理由は、友達に色々と言われたようだ。
日記は人に見せるものじゃないだろうと。確かに、一理あると思う。
友達全員に、おかしいと言われれば心が揺れるのも仕方がない。
だからアルトは、毎日毎日考えて
ノートが終わるその時に、結論を出したんだろう。
アルトにノートを渡した当初の目的は、果たされているし
僕との関係も、うまくいっていると思う。その点から考えてみれば
アルトが嫌だと思うのなら、日記をやめてしまっても構わない。
アルトが依頼を受けるようになったら、活動報告として
ノートを渡すことになるだろうけど、今は普通の生活を楽しめばいいと思う。
くたくたになったノートの最後のページを
そっと手の平で撫でてから、最後の言葉をノートに綴った。
【今日までよく頑張りました。】
そう書き終えて、冷えた珈琲を飲みほしてから眠りについた。
次の日の朝、少し緊張した面持ちのアルトが
僕の部屋へとやってくる。いつもより早い時間だ。
僕の返事が気になって、ゆっくりと眠れなかったのかもしれない。
僕は、日記帳と海釣りの道具が入っている箱を
アルトに手渡した。
海釣りの道具は、今一番アルトが欲しがっているものだ。
前回の海釣りでは、ロイールに道具を借りたらしく
帰って来て僕を見るなり『師匠! 海釣りと川釣りの道具が違う!!』と
叫ぶように、教えてくれた。もちろん知っている。
アルトはクリスさんから、釣りの本をもらっていたはずだけど
すっかり、頭の中から抜け落ちていたらしい……。
その日、僕はといえばマリアさんから荷物の用意ができたと
連絡をもらい、セリアさんと一緒にマリアさんの家に
行っていたために、家に帰ってからアルトが釣りに行ったことを知ったのだ。
海釣りから帰って来てからのアルトは、海釣りの道具が欲しいけれど
お金がなくて、買う事ができないという状況に悩んでいた。
余りにも、しょんぼりしているアルトを見て酒肴のメンバーが
『道具を貸してやろうか?』と言ってくれたために
一応、問題は解決したけれどこれからも海釣りをするには
自分の道具が必要だといい、お金を貯める決意をしていた。
その決意を、無下にするのはどうかと考えたけれど
本来ならば、まだ自分で稼ぐことを考えなくてもいい年齢なのだ。
ハルに滞在する間は、できるだけ普通の子供と同じように
生活できるようにと考えているため、1つの事を最後までやり遂げた
ご褒美として、欲しがっていたものを渡すことに決めた。
耳を寝かして、僕の顔色をうかがいながら
ノートと、海釣りの道具の入った箱を受け取るアルト。
箱の中身が何かより、ノートの内容のほうが気になるのか
箱を机の上に置き、すぐにノートを開いて僕の返事を読む。
アルトの不安が、その耳に尻尾に表れていたけれど
返事を読むにしたがって、耳と尻尾が元気を取り戻していった。
「師匠、本当にいいの?」
それでもまだ、瞳が不安げに揺れている。
「いいよ。アルトが文字を覚えるために始めた事だからね。
もう、難しい本も読めるようになっているし
辞書の引き方も覚えているでしょう?」
「うん! ありがとうございます!」
「ノートが終わるまで、よく頑張ったね」
僕が褒めると、嬉しそうにアルトが笑った。
不安が解消したからか、机の上の箱へと興味が移る。
「師匠これは何?」
「開けてみたら?」
僕の言葉に、尻尾を振りながら箱を開けるアルト。
そしてその中身を見た途端、箱の中身を凝視していた。
「師匠! これ! これ!」
「勉強を頑張ったご褒美だよ」
「いいの!?」
アルトは、箱の中身と僕の顔を交互に見る。
「うん。ご褒美だからね。
これからも、頑張って勉強していこうね」
「はい!」
嬉しそうに、箱を抱えて満面の笑みを見せ
「俺、クリスさんに見せてくる!」と言って部屋を出ていく。
クリスさんは、また釣りを始めるらしく
アルトと一緒に、釣りの本を見ながらどの道具を買うか
2人で話し合ったりしていた。そこに、酒肴のメンバーが加わり
色々吟味された道具を箱の中にいれておいた。
これで、アルトに気兼ねなくクリスさんも釣りの道具を買えるだろう。
もしかしたら、クリスさんはアルトに貸すつもりで釣り道具を揃えようと
していたのかもしれないけれど。
飛び跳ねながら、出ていったアルトの背中を見送り
ふと、机の上に視線を向けるとアルトの日記帳がそのまま置かれている。
机の上から、日記帳を取り机の引き出しへとしまう。
新しいノートと、古いノートをしばらく眺めてから
机の引き出しを、元へと戻した。