『 風に舞う花 : 前編 』
【 ノリス 】
目の下に、うっすらと残るエリーのクマをみて
寝ている彼女を起こさないように、そっとため息をついた。
エリーの目の下のクマと僕の溜息の理由は……。
目前に迫っている、ジョルジュさんとソフィアさんの結婚式が理由だ。
ジョルジュさんとソフィアさんからは
気軽に、式の後の晩餐会へ参加して欲しいといわれていた。
だから、僕達はその言葉通り受け取ってしまったんだ。
でも、今ならわかる。それは、ジョルジュさん達からの観点でみた
気軽だったんだと……。
僕とエリーは、孤児院で育ち、王侯貴族の暮らしなど知らない。
お二人に、招待された晩餐の衣装ですら
自分にあわせて作るのだと……知らなかったのだから。
いや……。知ってはいたんだ。
僕達とジョルジュ様達とは生きている世界が違うと
僕達は知っていた。
貴族である彼らと僕達は、正反対の場所で生きていたのだから。
理解していた……。ただ、それを忘れかけていたんだ。
そう……。忘れかけていた。
セツナさんを通して繋がった、王侯貴族の方々は……。
僕とエリーに、とても優しくしてくれたから。
僕達は、いつのまにかその空気に慣れていき、忘れかけていた。
生きる世界が違うということを……。
お二人の結婚式は自国の貴族だけではなく
他国の王侯貴族の方々も参加するのだと、シエルさんから聞いた。
どう考えても、孤児である僕達は場違いでしかない。
だけど、後ろ盾についている商会の人間を招待するのは
よくあることなのだと、お二人が笑って話していたから……。
そんなものなのだと、深く考えずに頷いた。
今回、準備に奔走した商会の人達が
全員参加することを告げられたから
僕達が参加しても、大丈夫だろうと
簡単に考えていたんだ……。
深く考えることなく……。
その時の僕達は、唯々お二人を近くで
祝福できることを、喜んでいた。
でも、僕は、もっと考えて返事をするべきだった。
周りの商会は、王侯貴族の人達を相手に商売をしている
商会ばかりなのだと、気がつくべきだった……。
幸いにというか、奇跡が舞い降りたというべきか……。
結婚式の準備は、順調に進んでいるといえる。
いえるけど……。
それは、セツナさんから紹介されたシエルさんが
僕達の傍にいてくれるからだ。
上流階級の人間であった、シエルさんが
僕達の傍にいてくれるから、僕達はあたふたしながらも
準備を進めることができていた。
「……」
自分の気持ちを落ち着かせる意味も込めて
疲れたように眠るエリーの髪を撫でた。
ジョルジュさんとソフィアさんを
祝福したい気持ちは、ちゃんとある。
だけど、それと同じぐらい不安や恐怖も胸の中にある。
お二人は、僕達にとって、とても大切な人なんだ。
大切な人だから、参加するのが余計に怖くなったんだ。
ジョルジュさん達が、僕達のお店の後ろ盾に
なって下さっていることは、貴族の人達に知れ渡っている。
そして、王妃様もまた僕達のお店を懇意にしているのだと
周知してくださっていた。
だからこそ、とても怖い。
そんな、僕達の恩人の顔に泥を塗ることになるのではないかと。
何か大きな失敗をして、迷惑をかけるんじゃないかと……。
僕達のせいで、大きな問題に発展したらどうしようかと……。
忘れていた気持ちを思い出した日から
僕達の憂鬱な気持ちは日に日に増していく。
そんな……僕達が、胃が痛くなるほどの不安と緊張で
身動きが取れなくなっていたのを救ってくれたのも、シエルさんだった。
エリーが、シエルさんに結婚式の衣装のことを話した日から
シエルさんはずっと、何かを考え立ち止まることなく行動してくれていた。
八方ふさがりとなり、途方に暮れるばかりの僕達に
シエルさんは、いつも大丈夫だと声をかけてくれていた。
シエルさんに励まされながら、日々の仕事と準備を両立させていくけれど
衣装を用意することもできずに、時間だけが過ぎていく……。
綻びを一つ見つけたことで、その他のことに対しても臆病になっていく。
これでいいんだろうか?
間違っていないんだろうか?
あっているんだろうか?
何か見落としているかもしれない。
一度、そう思ってしまえば……もう、駄目だった。
思考が、悪い方へ悪い方へと流されていく。
それは、僕だけではなくエリーも同じで……。
ある日、仕事が終わりお店を閉め
片付けている最中に、エリーがうずくまって泣き出した。
『どうしたらいいのかわからない』と震えながら泣くエリーに
シエルさんは、膝をついてエリーの髪をそっと撫でながら
『大丈夫。大丈夫ですから』と優しく穏やかな声音で
エリーに語り掛けてくれていた。
彼女の穏やかな声と、大丈夫という言葉に
エリーがゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
そして、エリーと同様に僕の心も平静さを取り戻していった。
『少し休憩しましょう』とシエルさんが
僕達を椅子に座らせてから、温かいお茶を入れてくれた。
お茶を飲みながらも、途方に暮れている僕達を見て
シエルさんが、ゆっくりと口を開いた。
『一つ一つ、解決していきましょうか』
彼女の言葉に、エリーが僕の顔を見てから
しょんぼりとした声で、呟くように答える。
『そう思うけど……思うけどね。
でも、何から手を付けていいのかも分からない』
シエルさんをみて、涙をにじませながら告げるエリーに
彼女が、ふわりと微笑んで一度頷いた。
『エリーさん達がよければですが
私の案を聞いてもらえますか?』
『うん』
僕達が解決するすべを持っていないことを
知っていながら、彼女は僕達に主導権を握らせてくれている。
決定権は、僕達にあるのだとそういってくれているんだろう。
『まず、衣装のことを解決しましょう。
衣装のことを解決するだけでも、少し楽になると思いますから』
『どう、やって? みんな、断られたよ』
『衣装を用意するだけならば
解決策は、いくつかあるんです』
『そうなの?』
『はい』
『解決できるなら
もっと、早く教えて欲しかったなぁ』
エリーが少し拗ねたように彼女を見る。
そんなエリーの態度に、シエルさんは気を悪くすることもなく
やわらかく微笑みながら、今まで黙っていた理由を告げた。
『本来ならば……。
この国の貴族家から頂いた準備金は
この国に、還元しなければなりません。
他国で、商品を購入するということは
この国の益になりませんから』
『……』
『それに、今回のように後ろ盾について頂いている貴族から
準備金を頂いている場合、既製品を購入するのは
失礼なことにあたるんです。
なので、貴族専門の衣装店ではなく
その他の衣装店にも、足を運んでみたのですが……』
『休憩時間に、回ってくれていたの?』
『はい』
『……』
『衣装の生地などは、こちらで準備できますと告げても
断られてしまいました』
僕達が混乱して、動けなくなっている時に
彼女は、最善を考えて行動してくれていたんだ……。
エリーが、シエルさんの手を握って涙を落とした。
涙を落とすエリーに、苦笑に近い笑みを浮かべながら
シエルさんが、エリーの手を握り返す。
『私は、自分の国を基準に考えていたところがあったんです。
最初から、エリーさんとノリスさんに相談すべきでした。
相談していたら、エリーさんの気持ちは
もう少し、楽になっていたかもしれません。
ごめんなさい……』
『ちが、しえる、ちゃんのせいじゃない。
自分で、何もできなかったのに
文句をいって、ごめん、ごめんね』
涙腺が緩んで泣いているエリーをなだめながら
シエルさんは、話を続けていく。
『ここまでくると、衣装を準備できないことの方が
問題になってきますので、最後の手段として考えていた
方法を取ろうかと思っているのですが……』
シエルさんは、少し迷うように視線を彷徨わせてから
一度軽く息をつく。
『難しい方法なの?』
『いえ、難しくはないですよ』
『どんな方法?』
『彼に頼んでみようかと思います』
『彼?』
聞きなおした僕に、シエルさんが深く頷いてから
その人物の名前を声に出した。
『はい。セツナに』
『え?』
『私が、お二人の体の寸法を測って
ハルで売られている衣装の購入を、セツナに依頼してみます』
『そんなことができるんですか?』
『そんなことができるの?』
僕たちは同時に驚きの声を上げた。
ギルドを通して、服の仕入れの依頼をするという考えが
僕たちには全くなかったから。
『できます。
そういった、依頼は結構多いですから。
ただ、時間がないので既製品になってしまいます』
『既製品は、駄目なんでしょう?』
ふにゃりと、また涙をためはじめたエリーに
シエルさんが、エリーの背中をぽんぽんと叩いた。
『既製品だとしても、準備できないよりは、はるかにいいと思います。
それに、リシアの衣装は、こちらの大陸では流通していませんから
既製品だと気がつかれることはないと思いますし……。
一応、念のために、私が手直ししますから大丈夫です』
『シエルさんが、手直し?』
『シエルちゃん、お裁縫もできるの?』
『はい。母から教わりましたから』
『私も、できるけど……。
高価な衣装に……手を入れるのは無理かも』
だけど、シエルちゃんにだけまかせるのは、と
うんうん、うなって悩んでいるエリーに
シエルさんが笑って、一緒に手直しするのも楽しそうですね、と
告げた一言で、エリーの気持ちが浮上した。
『でも、間に合うかな……?』
『間に合わせます』
『うん……そうだね。
間にあわせないと、駄目なんだよね。
ごめんね。私達、シエルちゃんばかりに、頼ってる。
ごめんね。ごめんなさい』
目に涙をためながら謝るエリーと同様に
僕も、シエルさんに心の中で謝った。
謝るエリーを見て、シエルさんが
『私が……』と何かを口にしかけたのを途中でやめて
一度、自分の気持ちを落ち着かせるかのように
彼女が、一度軽く目を伏せて一息ついてから
視線を真直ぐ僕達に向けた。
『エリーさん』
『う、ん?』
『謝らないでください』
『でも……』
エリーが反論するのを
シエルさんが、軽く首を横に振る。
『謝らないでほしいんです』
『シエルちゃん?』
『お二人に、少しでも恩を返せるのなら
私も嬉しいですから』
彼女がそういって、エリーに淡く微笑んだ。
『恩を感じてもらえることなんて何もしてない。
お仕事はお給料以上に働いてもらってる……』
エリーが、そう告げて項垂れるように俯いた。
『いいえ。それは違います』
『……』
『エリーさんとノリスさんが
私を受け入れて下さったから、私は今……。
この国で、安心して暮らしていくことができているんです』
『それは……』
『エリーさん』
エリーの言葉を遮るように
シエルさんが、エリーの名前を呼んだことで
エリーは、ゆっくりと顔を上げ、彼女を見つめた。
『逃げるように、国を飛び出した私を
エリーさん達は、何も聞かずにここにおいてくれました。
私に生活する場所と、働く場所を与えてくれました』
『でも、それは』
セツナさんに紹介され
僕達の意思で決めたことだ。
彼女が、恩に感じることではないと思う。
『そして……。私を友人といってくださいました』
『え?』
『私は、誰も知り合いの居ない国で……。
一人寂しく生きていくのだと、思っていたんです』
『……』
『でも……。
エリーさんとノリスさんが、私の友人になってくれたから
心細さが消えました。エリーさんが、私の手を引いて
この街が好きなのだと、笑いながら案内してくださったから
私は……この街を受け入れることができました』
『シエルちゃん……?』
『エリーさんとノリスさんが
私の心を労わって下さったから。
私に心を傾けて下さったから……。
私は、必要以上に寂しさを感じることなく
生活できているんです』
『……』
『エリーさんとノリスさんに
ずっと、お礼をいいたかったんです。
私の不安や恐怖を取り除いてくれたのは
まぎれもなく、エリーさん達だったから。
だから、今度は……。
私が、お二人の力になりたいと思っているんです』
そういって、シエルさんは泣き笑いのような表情を
僕達に向けた。
僕はエリーと違い、そこまで深く考えていたわけじゃない。
できる限りのことを、しようとは思っていたけれど……。
それは……。
セツナさんの大事な人だから……という気持ちが
どこかにあったと思う。
だけど……彼女と一緒に生活しているうちに
そんな考えなど、すぐに消えてしまっていた。
僕達のために必死に奔走して、僕達の横にいつもいてくれた。
貴族の人達相手に、失敗しそうになったら
自然に手を差し伸べて助けてくれた。
裏表なく、僕達を支えてくれている
シエルさん自身を、僕達は大切に想うようになった。
セツナさんの大事な人だからではなく
僕自身の友人として、彼女を受け入れることができた。
僕達がシエルさんを、支えているというのなら
彼女も僕達を、支えてくれているから。
『頼りないかもしれませんが……。
ここにきて初めての夜、私が不安にならないように
エリーさんがずっと、私のそばに居てくれたように
私も、エリーさんが不安を感じている時は
傍にいますから。だから……泣かないでください』
『うん。うん。
ありがとう。ありがとう』
エリーが、目元に涙をにじませながらも笑って
シエルさんを見ながら口を開く。
『私も、シエルちゃんと友人になれてよかった!
セツナ君の愛人だと、勘違いしたままじゃなくて
本当によかった!』
『……』
『……』
エリー……。
『シエルちゃん』
『はい』
『ソフィアさん達の、結婚式が終わったら
一緒に、甘いものを食べに行ってくれる?
ご褒美があったほうが、頑張れるもんね?』
『はい。喜んで』
楽しそうに、ささやかな未来を語るエリーに
シエルさんも、楽しそうに笑って答えを返した。
幸せそうに笑い合う二人を見て
僕は、セツナさんが繋いでくれた縁に感謝していた。
『夕食を作るのが面倒になった』
エリーが自分のお腹を押さえながら
お腹すいたし……と呟く。
その様子を見て、何か食べて帰ろうということになり
この店の側にある、友人夫婦が営む店へと足を向けた。
そこで、シエルさんを引き抜こうとする
友人達の勧誘に、エリーが不機嫌になるが
シエルさんが断ったことで、エリーの機嫌は元に戻った。
『残念だな。店が近いから、よく目に入るけど……。
すごく働く人だと思って見ていたんだ。
いつ見ても、動いている。それに、君がきてから
ノリス達の動きが、変わったように思うんだよな』
友人の言葉に、僕もエリーも同意するように頷く。
彼女は働き者だ。休憩してくださいというまで
夢中になって……仕事をしている。
最初は、寂しさを紛らわすためだと思っていたのだけど……。
多分違う。きっと、彼女は働くことが好きな人なんだと思う。
お店での手際もよく、一度覚えたことを忘れることなく実行し
応用できる人だった。そして、僕やエリーの仕事の先を見て
準備をしてくれたり、補助についてくれたりするので
物凄く仕事がやりやすくなった。
『それに、君が居てくれるだけで
きっと、客が増えると思うんだよなぁ』
友人のこの言葉をシエルさんは、冗談だと思っているだろう。
だけど……僕達は、冗談ではないことを知っている。
彼女がお店で働き出してから、お客さんが増えた。
それは、売り上げにも反映されている。
お客さんが増えたことに、驚きはない。
だって、彼女がそこに立っているだけで目を惹かれるんだ……。
それは、シエルさんの容姿だけではなく、彼女を取り巻くすべてが
視線を引き付けるのだと最近知ったんだ。
今だって、シエルさんに視線を向けている人が沢山いる。
なんていうのか……存在感が違う。そんな、表現が正しい気がする。
だから……友人の言葉は、もの凄く正しい。
蝶が花に群れるように……。
彼女は、人目を引くほど綺麗な人だから
色々問題が起きるかもしれないと、覚悟はしていた。
絶対に、シエルちゃんを守ろうねと
エリーが張り切ってもいた。
でも、僕達が困る前に王様が手を打ってくれていた。
多分、街を巡回している兵士の人達から
何かしらの報告を受けたのかもしれない。
シエルさん目当ての人達が暴走する前に
彼女を守るための最強の盾……いや剣を与えて下さったんだ。
具体的に、何があったのかというと……。
シエルさんは、ドルフ様の親友の娘ということになっている。
命を落とした親友の娘を、しばらくの間見守るという形らしい。
本当は、手元に置きたかったが、シエルさんが断り
僕達のお店が紹介されたことになっていた。
どうして、王様がそこまでしてくれるんだろうという疑問に
セツナさんが、王様にいろいろ頼んでくれたからかもしれないと
シエルさんが教えてくれた。
アルト君のことを、王妃様に頼んでいたセツナさんだ。
彼らしいといえば……彼らしいのかもしれない。
僕には絶対に、真似などできないけれど……。
その様な理由から、ドルフ様は時々シエルさんの様子を見るために
僕達のお店へと足を運んでくれていた。
そして、物騒なことをいって帰っていかれる。
『お前に近寄る男共は、すべからくぶち殺してやるからな』と……。
ドルフ様が、シエルさんを大切にしているという噂が広がってから
彼女に、言い寄ろうとしていた人達が綺麗に居なくなった。
ドルフ様は、有言実行の人だから……。
半分本気で勧誘していた友人に
エリーが、さっさと仕事に戻りなさいよと注意したあと
適当に開いてるところへ座り、注文した食事を取りながら
エリーが、シエルさんに色々と弱音を吐いているのを聞いていた。
先ほどまでは、弱音を吐くこともできないほど
追い詰められていたから、よかったと内心安堵する。
『頑張ろうって思うんだけど
次の瞬間には、不安になってるの』
エリーの弱音に、シエルさんが深く頷いて
理解できると同意した。
『そうですね……。
お仕事も含め数日とはいえ、貴族社会の中に身を置かなければ
いけない不安もあると思いますが、それよりも
知らないことに対する不安の方が、問題なのかもしれません』
『知らないことに対する不安?』
『はい。自分が知らないことを知らないままに
経験することになりそうなので、怖いのだと思うんです。
それは、未知への恐怖です。
経験したことがないから、自分の中に知識がないから
自分がどう進めばいいのかが、見えなくなっているんです』
『うーん。なんとなくわかる?』
『たどり着かなければいけない、目的地は準備されているのに
目的地までの道が分からないから、辛いのだと思います』
シエルさんの説明に、僕もエリーも食べるのをやめて
彼女を見る。
『エリーさんが、今生活しているこの場所ならば
暗い夜道の中を、目的地への道が分からなくても
知識や経験という明かりを頼りに
自分の周りを照らして、位置を確認しながら
目的地まで歩いていけます。
多少、迷って寄り道したとしても
手元に、しっかりとした明かりを持っているので
自分の立ち位置と歩く方向が分かれば、進んでいけますよね?』
『うん』
『ですが……。今回は、初めてのことばかりなので
エリーさんに、その知識と経験がない状態なんです』
『あー。知識と経験がないから、明かりがない?』
『そうです。明かりがないから
暗闇の中、自分の立ち位置が分からない。
自分の位置を確認しようとして、明りをつけようとしても……』
『知識や経験というロウソクを持っていないから
明かりをつけることができなくて、わたわたして……。
それでも見つからないから、不安になって怖くなって
動けなくなっちゃったんだね』
『そうだと思います』
『すごく分かる気がする』
『そんな、不安の中にいるエリーさんの側を
煌々と輝く明かりを持った人達が、通り過ぎていく。
その人達の後を追いかけようとしても、自分の明かりがない為に
追いつくことができない……。それが、焦りとなって
余計に、身動きができなくなったのだと思います』
『……それもわかる。
王侯貴族を相手にしている商家の人達……。
私達とは全然違うんだもん……』
エリーに同意するように、僕も頷いた。
ジョルジュさんとソフィアさんが懇意にしている商家の人と
相談しながら、仕事を進めることもある。
僕達にも、丁寧に接してくれるけど
やっぱり、彼らも貴族側の人なのだと強く感じた。
彼らとの仕事は、僕もエリーもずっと緊張の中にいた。
『どうしたらいいのかな……』
肉にフォークを突き刺しながら、エリーが呟いた。
そういった、知識や経験は積み重ねていくモノで
すぐに手に入るものではないことは分かっている。
『エリーさんが良ければ、不安を少しでも解消するために
礼儀作法から覚えてみませんか?』
しょんぼりと肩を落としたエリーに
シエルさんが、優しい声で問いかけた。
『礼儀作法?』
『はい。お仕事の方は、他の商家の方も私もお手伝いできますが
礼儀作法や言葉遣いは、本人が覚えるしか方法がないので』
『うん……。それも、不安に思ってた』
『貴族社会で必要な、礼儀作法と言葉遣いを覚えておけば
少し不安が薄れると思うんです』
『私にもできるかな?』
『できます。
一度覚えてしまえば、無駄にはなりませんから』
迷うことなく頷いたシエルさんを見て
エリーの気持ちが、上向いていく。
『これからも、貴族のお客さんが増えそうだしね』
『はい。増えると思います』
『貴族のお客さんが増えたら……。
私達の薔薇がもっともっと有名になって……。
いつか、シンディさん達にも届くかもしれないもんね』
『うん。僕達が頑張れば、きっと届くよ』
エリーの言葉に、僕は深く頷いた。
僕達に愛情をそそいでくれた二人に
いつか、届くことを信じて、僕達は頑張ってきたんだ。
『やるしかないよね? 後戻りはできないもんね。
なら、頑張るしかないよね?』
『はい。私もそう思います。
ですが、エリーさんが本当に辛く思うようなら
ジョルジュ様やソフィア様に、相談してみるのも
一つの方法だと思います』
『うん。どうしても、無理そうなら話してみる』
エリーの決心に、シエルさんは目を細めてエリーを優しく見つめていた。
『礼儀作法とか、シエルちゃんが教えてくれる?』
『私でよければ』
『うん。お願いします』
『はい。お願いされました』
少し、声の調子を明るくしたシエルさんに
エリーが小さく声を出して笑った。
この日から、僕達はシエルさんによる貴族の礼儀作法や
言葉遣い、教養などを学んでいくことになるのだけど……。
それは、自分が想像していたものよりも大変なことだった。
背筋を伸ばして生活するだけでも結構辛い……。
意識していなかったけれど、僕は猫背気味だったのだと最近知った。
結婚式が終わるまで、朝食と夕食も
シエルさんと、ともに取ることになっている。
カトラリーの適切な使い方などを、食事をとりながら
教えてもらうことになったんだ。
これが、正直、辛い。
どうしても、窮屈に感じてしまうんだ。
そんな、窮屈に感じてしまうことを日常的にこなしている
シエルさんやソフィアさん達が、凄いということを口にすると
シエルさんが苦笑して、物心つく前から教え込まれるのだと告げた。
だから、それが普通なので辛いとは思わないのだと。
『ノリスさんとエリーさんは、お花を育てることが
辛いと思いますか?』
彼女の質問に、僕とエリーは首を横に振る。
大変なことは沢山あるけど、辛いと思ったことはない。
『それと同じです』
『同じかなぁ?』
『同じです。日常の一つになっている。
ただ、それだけのことなんです。
私は、礼儀作法を学んで身に付け、それが普通となって
エリーさん達は、お花の育て方を学んでそれが普通となった。
学んだものが違うだけ。だから、私を凄いといってくださるのなら
ノリスさんとエリーさんも、同じように凄いんですよ』
そういって、ふわりと笑う彼女に僕とエリーは一瞬見惚れた。
その場は、シエルさんの笑みにつられて頷いたけれど……。
彼女は、きっと僕達が想像できないほどの努力を積み重ねてきた人だ。
僕とエリーは、ギルドが冒険者の為に開設している
講座しか受講したことがない。
ギルドの孤児院の子供は、十二歳前後で
読み書きを学ぶために、ほぼ強制的に受講させられる。
十六歳になる前に、リシアの学院に入学するか問われたが
僕達は、花屋になると決めていたので断った。
もし、リシアの学院に行くことを選択していたら
シエルさんと出会っていたかなと考え
すぐに、それはないだろうという結論にたどり着いた。
僕達とシエルさんの道は、きっと交わらなかっただろうから。
僕の知識は、ほぼ、花の事に関する知識で埋め尽くされている。
その他の知識は、生きていくのに必要なものと
ラグルートさん達から学んだ、花屋を経営する為の知識と知恵だ。
だけど、シエルさんは違うんだ。
僕達が何を質問しても、彼女は的確に答えを返してくれる。
それは、僕達だけにではなく、王妃様から招待されたお茶会での
王様の質問に対してもそうだった。
委縮することなく、堂々と話すシエルさんにいつもとは違う彼女を見た。
僕達には理解できない会話を、淡々と王様と交わしていく。
真剣な表情で、王様と対等に会話ができるシエルさんを見て
彼女は、王様と同じ場所に立つことができる人なんだって気がついた。
違ったから。
全然、違ったから……。
王様と話していた時のシエルさんは……。
僕達とは違う場所にいる人だった。
ジョルジュさんやソフィアさんよりも
もっと、もっと……遠くにいる人……そう感じたんだ。
そう感じて、ふと、思った。
このまま、僕達の所で働いてもらっていてもいいんだろうかって……。
僕とエリーのお店で働くよりも
シエルさんに相応しい場所があるんじゃないかって。
王様と同じ話ができるんだ。
それは、シエルさんがそういったことを学んできたからだ。
沢山のことを学んで、努力してきちんと身に付けたからこそ
意見を交わし合うことができるんだ。
シエルさんが、リシアの学院を卒業し
今なお、学んでいたこともその時に聞いた。
それほど、日々たゆまぬ努力をしてきたのに……。
花屋の店員では、何も生かすことができない。
だから……。
王様とシエルさんの難しい話を
王妃様が中断させた後、王様が笑いながら
シエルさんに自分の補佐として働かないかと勧誘した時に
僕は……シエルさんの背中を押すべきだった。
だって、王様は笑っていたけれど
その目は、怖いほど真剣な光を湛えていたから。
王様の言葉に、誰一人声が出せなくなるほど
王様は、本気でシエルさんを勧誘していた。
だけど……。
シエルさんは、王様から視線を外すことなく
真直ぐに見つめて、その申し出を断った。
僕達のことを気にして、断ったのかもしれないと
口を挟もうとした瞬間、エリーが僕の手を取った。
エリーは、微かに僕の方を見て首を小さく横に振った。
エリーのその目は、何もいわないで……と僕に告げていた。
僕の手を握る、エリーの手が微かに震えていた……。
あぁ、そうか。シエルさんがいなくなることが怖いんだ。
今、シエルさんが居なくなったら……僕達は……。
『ここは、私が居ていい場所ではありません。
それは、国王様が一番、ご存知だと思います』
『そうだな。
だが、シエルはセツナを裏切れはしないだろう』
『……』
『我が国が、豊かになるのなら
シエルの知識が、我が国にとって糧となるのなら
私は、躊躇することはない』
王様にここまでいわれても……。
シエルさんは、頷かなかった。
『駄目か。これ以上強引に勧誘すると
セツナに余計なことをいわれそうだな』
王様のこの言葉に、シエルさんが小さく笑った。
シエルさんが笑い、王様がため息をついた事で
緊迫した空気が解れた気がしたのに……。
『なら、数日に一度でいい。
私の話し相手になってはくれないか』
『お話し相手ですか?』
『そうだ』
どこか、困惑を浮かべたシエルさんに対して
王様は、浮かべていた笑みを消し、言葉を紡いでいった。
『私が、父や兄達から王位を奪ったことは知っているな?』
『王様!』
王様の言葉に、王妃様達が鋭い声を上げるが
王様は、周りの声に答えることはせず
その視線は、シエルさんに固定されていた。
『私は……。何も知らない王だ。
王位継承権を持つことができなかった私は
帝王学を学ぶことも、この国の深い歴史を知ることもなく
王位についた』
今、王様が語ったことは
この国の人間ならば誰でも知っていることだった。
王様は、簒奪したと告げたけど、僕達はそう思ったことはない。
王様は、僕達……国民のために立ち上がってくれたんだ。
何も見ない振りをして、楽に生きる道もあったのに。
国民のために、いばらの道を歩いてくれた人なんだ。
僕達は、そんな王様を心から敬愛している。
『北の大地における数千年の記録は
数多の国家の滅亡により失われている。
しかし、建国4500年以上を誇るリシアには
その記録があると、そなたは語った』
『はい』
『そして、シエルはその記録を学んだのだと告げたな』
『はい』
『私は、その記録を知りたいのだ』
『……』
『私は、この国を立ち上げた初代国王の名を
先ほど初めて知ったのだ……。
魔物との生存争いで、失ったモノもあるだろう。
他国との領土争いで、失ったモノもあるだろう。
そして、私が、王位を簒奪したことで失ったモノもある。
例え、他国に残る記録だとしても、私はそれが欲しい』
王様の渇望をにじませた、低く重い声が響く。
『例え一部でも、取り返すことができるのならば取り返したい。
そして、それ以上のモノを手中に収めたい』
低く響く王様の声音。
今までに見たことがないほどの、暗い光を湛えた瞳の中に
飢えた獣を見た気がして、体が震えた。
『国王様が、求める記録と
私が知りえる記録は、相容れないかもしれません』
『それでもよい』
『……』
『もし、それが……都合の悪いモノならば……。
私が、それを認めなければよい。
王である私が、認めない。それで、解決することだ』
ぐっと、頭が上から押さえつけられるような感覚に息をのむ。
僕は……この時、初めて、王様が怖いと思った。
『シエル。そなたが学び得たモノを、語れる範囲で私に語れ。
それが、未来の我が国の為になる』
王様の命令に近い言葉に、息をするのも苦しいほどの
静寂が満ちたこの場所で……。
シエルさんが静かに立ち上がり、膝を折り頭を下げ
僕達に何度も何度も見せてくれた、綺麗な礼と一緒に
澄んだ声を響かせた。『承りました』と……。
このときのお茶会は、知らない間に終わっていた。
家に帰ると同時に、僕とエリーはソファーに座り込んで
動けなくなったことを覚えている。
シエルさんは、そんな僕達を心配そうに見て
温かいお茶を入れてくれた。
お茶を飲みながら、王様の補佐のお話を断ってもよかったのかと聞いた。
もし、シエルさんが王様の側で働くことを望むのなら
お店のことは気にしなくてもいいし
お城に行くことになっても、セツナさんが建てた家で
生活してくれたらいいのだと告げ、そして私達のことは
何とかなると思うから、気にしなくてもいいのだと
エリーが緊張を纏いながらも勇気を出して伝えていた。
自分の家に帰ってきたことで、冷静になったのだと思う。
シエルさんの生きる道を……邪魔してはいけないのだと。
そんな僕達に、シエルさんは少し不安そうな表情を浮かべながら
僕達と一緒に働けることが楽しいから、ここに置いて欲しいと
丁寧に頭を下げてくれたんだ……。
シエルさんのその行動に
僕とエリーが慌てたのはいうまでもない。
僕達がそう願っていたんだ。
シエルさんが、僕達の傍にいてくれることを……。
だって……シエルさんが居なければ
僕達は潰れていたかもしれないのだから。
感謝するのは、頭を下げてまで居て欲しいと願うのは
僕達のほうなんだから……。