『 風の贈り物 』
【 トゥーリ 】
「あの時、立ち上がらずに息を殺していたら……。
私は今も、あの静寂の中にいたのかしら」
ふと、こぼれ落ちた私の言葉を拾う人はいない。
私は、膝の上にある本の表紙をそっと手のひらで撫でた……。
昨日、先生からの手紙とともに届いた本を膝の上で広げる。
クッカがアルトのために刺した刺繍の感想で、落ち込んでいたことから
クッカを慰めるために彼が送ってきた本だった。
私のそばで、その本を覗きこみながら
今か今かと待っているクッカの姿に笑みがこぼれる。
彼から届いた本は、私が今まで一度も手にしたことがないようなモノだった。
緻密な魔法を幾重にも刻みながらも、娯楽のために作られたと思える本に
私とクッカは、驚きと呆れを含んだ笑みを浮かべて顔を見合わせていたと思う。
それでも、その本を開き物語と共に仕掛けられた魔法に強く強く引き込まれるのに
そう時間はかからなかった……。
「どちらの選択肢を選ぶか決まったの?」
「沢山悩んで、決めたのですよ!」
昨日の時点で、私達はこの本を開き読んでいた。
そして、今開いているページは昨日の続きからになっている。
二人で同時に読むのは難しいので
私が声に出して読み聞かせる形になってしまった。
けれど、この本は誰かと一緒に読んだほうがきっと楽しい時間になると思う。
「昨日の続きから……。クッカ準備はいい?」
「はいなのですよ!」
「貴方は、手にいれた武器で魔物と戦うことに決めました。
このまま、街をでていきますか?」
この文章の後に、【はい】の文字と【いいえ】の文字が微かに光って存在を示している。
「どちらを選ぶの?」
「はい、を選ぶのですよ!」
「わかったわ」
私はクッカに頷いてから、微かに光っている【はい】の文字をなぞるように
指を滑らせてから本のページをめくる。
この本は、選択肢を選ぶまでページがめくれないようになっていた。
本のページをめくると同時に……。
私達の目の前に、とても美しい風景の絵が浮かび上がった。
「……」
「……」
私もクッカも、その絵を言葉もなく凝視していた。
とても美しい絵だと思う。壁に飾っておきたいぐらい美しい風景が描かれている。
なのに……。
その風景のちょうど真ん中に、描かれているモノから視線を外せないでいた。
背景となる美しい風景の真ん中あたり
上半身をぱっくりと魔物に齧られている人が描かれている。
魔物のそばには、剣と思われるものが落ちていた……。
突然目の前に現れた絵にも驚いたけれど
もの凄く綺麗な風景の中に、上半身を魔物に齧られ飲み込まれ
足だけ出ている絵に唖然としてしまうのは仕方がないと思うの。
「魔物に食べられてしまったのですよ……」
「そうね……。えっと……」
私は、目の前に浮かび上がる無駄に美しい絵から視線を外し
本に綴られた文章を声に出して読んでいく。
「貴方は、無謀にも武器だけを手に街をでてしまいました。
身を守る防具もなく。信頼できる仲間もいない。
食べ物も水も持っていませんでした。
意気揚々と魔物に向かっていった貴方は、返り討ちにあい
ぱっくりと食べられてしまったのでした。終わり」
え? 終わり? 終わり……?
「……」
「クッカ? 大丈夫?」
俯き、フルフルと震えているクッカに声をかける。
私の声と同時に、クッカが顔を上げて叫んだ……。
「酷いのですよ!」
自分の選択の結果に納得ができなかったのか
クッカはプンプンと怒りながら私の顔を見た。
「トゥーリ様、もう一つの選択肢を選ぶのですよ!」
クッカの怒っている顔も愛らしく、その姿に笑ってしまいそうになるけれど
ぐっと我慢して、ページを戻る。
だけど、そのページの文字は【はい】で固定されていた。
「どうして、いいえを選べないのですか?」
「どうしてかしら……」
クッカの疑問に私も首を傾げる。
昨日は、ちゃんと違う選択肢を選べていた。
自分の意図しない方向へ進んだ時も
理不尽な選択しか出なかった時も遡ってやり直せた。
『怪我をしてしまいました。終わり』で物語が終わった時も
前に戻って違う選択肢を選べた……。
昨日と今日、何が違うのかと考えて……選択肢を選べない理由に思い至った。
「多分……。命を落としてしまったから。
やり直しができないのだと思うの」
「……」
「怪我をしても、仲間と別れても……。やり直すことはできるけど。
命を失ってしまえば、やり直すことはできないから」
パラパラと本のページをめくると、すべてのページの選択肢の文字から光が消えている。
最初のページまで戻ると、『1.新しい物語』と記されていた個所が
『1.魔物に食べられた物語』となっていた。
そして、新しく『2.新しい物語』と表題が増えている。
命を落としたことで、この物語は進むことも戻ることもできなくなってしまった……。
「……」
ぎゅっと、小さな手のひらを握りしめ、クッカの大きな目が涙で潤んでいる。
慰める言葉をかけようと私が口を開きかけた瞬間……。
「酷いのですよ!!」と叫んでクッカはこの場から消えてしまった。
きっと、感想を告げに転移魔法を使って先生の元へ飛んでいったのだろう。
悩みに悩んで決めた選択肢が……終わりを告げるモノだった。
子供にとっては、大きな衝撃を受けても仕方がないと思う……。
だけど……。
私達は、生まれてから死ぬまで、大小さまざまな選択をして生きていく。
些細なモノや、生命にかかわるモノ。
流されるままに選ぶモノや、理不尽だと知りつつも選ばざるを得ないモノ。
その選択の積み重ねた結果が……今の自分に繋がっているのだから。
そして……。
私がここに居る理由は、私が選択し、行動した結果の贖罪……。
その日が来るまで、変わることのない生を過ごすのだと思っていた。
私が起こした行動の結果が今のこの状況なのだから
何かを変えようとは思っていなかった。
静寂が支配するこの場所で、薄れることのない灰色の記憶とともに
ここで過ごすのだと思っていたの。
なのに……。
偶然過ぎるほど偶然の重なりによって
突然、私のいる場所に現れた先生とアルト。
本来ならば、紡がれるはずのない縁が結ばれた結果……。
私の生は、これまでとはかけ離れたモノになっていた。
この環境を受け入れることができるようになったのは
つい最近のことだけれど。私は膝の上にのせたままの本をそっと閉じる。
「あの時、立ち上がらずに息を殺していたら……。
私は今も、あの静寂の中にいたのかしら」
ふと、こぼれ落ちた私の言葉を拾う人はいない。
私は、膝の上にある本の表紙をそっと手のひらで撫でた……。
立ち上がらずに、息を殺していたのなら……。
きっと、私の物語は終焉に向かっていたはずだった。
優しい菫色の瞳の彼に出会うこともなく。
感情のままに揺れる尻尾を目にすることもなく。
私とともに、いてくれるクッカと言葉を交わすこともなかっただろう。
「あの時の私の選択は……」
この答えが出るのは、きっとずっとずっと先のこと……。