遠心ビオトープ:4
「はぁっ……はぁっ……!!」
おそらく総量一tどころじゃ済まない量の瓦礫をどかしながら、藍香は這い出る。全て細かい粉状になったとは言え、驚異的なスピードだ。
(そもそもあんな高さから落ちたら、人間の体重と耐久度じゃ確実に耐えられない……なるほど。確かにこの世界は普通じゃないみたいだ)
煙に包まれ、四方八方灰色になった世界を見渡す。
(あの天使人形は……?)
日本の遍く高層建築は、あんな倒壊の仕方は絶対にしない。この地震大国における高層建築は全て『震度七の地震が来ても理論上は倒壊しないように作る』という建築理念がある。
その頑丈な作りの新宿の顔、東京都庁が壊れるなんてことは、文字通り『天地がひっくり返るような大災害』でも起こらない限りは絶対にありえない。
しかし、それが目の前で。いや、この場合は足元で起こった。あの天使が引き金となって。
もうあの人形が、人智を超えた不条理な存在であることは疑いようがない。
「そういえば名前、まだ聞いてなかった」
「ポポロですよ」
体に付いた埃を少し強めに払いながら、藍香は後ろを振りむいた。
「本名でなく愛称ですが。今ゲームの総マスターです。これ以上のことは三分後に」
三分。一体その短い時間の向こうに何があるのか。
(……きっと今度は都庁崩壊どころじゃ済まない)
そう確信できる。ポポロは先程、都庁を崩壊したときに一瞬だけ光っていた。おそらくあのとき、何らかのエネルギーが作用して、それが都庁をここまで粉々にしたのだろう。
この解釈が間違っているとしても『光った後に壊れた。だから、この天使が光ったら危険だ』ということだけは断定してもいいだろう。
演繹法的に考えて、この天使の今の状態は凄まじくデンジャラスだ。
まるで何かの力を空気中から吸い込んでいるかのように、ポポロの体が太陽のごとく光り輝いていき、その光が一秒ごとに強くなっていく。
「何する気なのさ」
「三分経てばイヤでもわかります。だからあなたはミゼラを何とか助けてあげてください!」
「みぜ……あの子そんな名前だったの」
日本人らしくない名前に面食らう。が、そんな彼の顔色を察したポポロが後付した。
「あ、一応言っておくと日本人です。ついでに彼女は日本語しか操れません」
「……」
もしかして、DQNネームとかいうヤツだろうか。ミゼラと言う名前にも無理矢理感満載の漢字が当てられたりするのだろうか。
「……何て呼ぼうかなぁ」
もう既に彼女を助ける気満々な藍香は、楊斗の姿を認めるや否やすぐに走り出す。
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「お前とは友達になれそうな気がしたんだけどな」
怒りと落胆が混じった声で、楊斗は狼に喋りかける。
「藍香もあれで、お前のこと気に入ってたんだぞ? そりゃ調教はキツかっただろうけど、休憩のときは本当にお前を可愛がるつもりだったんだ。飴と鞭だな」
「……がる」
気のせいだろうか。狼の顔が、苦虫を噛み潰したかのような酷い顔になる。まるで『冗談じゃない』と言わんばかりだ。
「ま、いいさ。もう一回ぶちのめして、今度は火の輪潜り仕込んでやる。大丈夫! お前の体長なら丁度……あれ?」
――狼の大きさが変わっている。
先程の大きさは『普通の野犬と変わらない大きさの若狼』というサイズだったのに、今の大きさは『まだ兄弟や母親と狩りの練習をしている子供の狼』くらいの大きさだ。小さい子供が抱くと、少し手に余るくらいの。
(……おかしいな。もしかして別の狼に話しかけてたのか?)
だが飛び降りた狼と位置関係が一致するのはこの狼だけだ。少女に噛みついていたのも間違いなくこの狼。その証拠に口元には血がべっとりと付いている。白い歯に付いている血が不気味だ。
「まあいいや。とにかくお前は捕獲! 流石に殺すのはイヤだしな」
「がおるっ!」
狼は弾かれたように楊斗に向かって突進していく。
(来るか……!?)
しかし彼の目標は楊斗ではなかった。直線的に突っ込んでくると見えた狼は、レールが切り替わったかのように進行方向を曲げ、楊斗の右を鮮やかにすり抜けていく。
(……ふ、ざっ!?)
狙いは楊斗じゃない。先ほど足を噛みちぎられそうになり、まだアスファルトの地面にへたり込んでいる名も知らぬ少女だ。
「けんなぁっ!?」
蹴ろうにも、もう届かない。狼はそのまま、方向を急変させた反動によってよろけた姿勢を元に戻しながら、彼女の喉を噛み千切ろうと迫る。
「藍香ぁっ!!」
「怒鳴らないで!!」
寸前、間に合った藍香が掬い上げるように彼女を抱き上げ、狼の牙はまたしても宙を噛む。
狼は勢いとスピードを極力殺さないように、その場で急転換。抱き上げられた彼女に向かってまた飛び掛かる。しかし、今度も邪魔を食らう。狼の顔面に入った拳は楊斗のものだった。狼はそのまま小さ目の体躯をアスファルトに転がしていく。
「お前の相手は、俺!! 藍香、さっさとソイツを安全な場所に連れてけ! あと怪我の手当て!」
「一々言わなくてもわかるって!」
安全な場所。確か近くにホテルはなかっただろうか。こんな状況だ、チェックインも何もしなくても、適当に鍵を見つけて部屋の中に入って中から鍵を閉めれば即席の安全圏のできあがり。治療にしたって、ホテルマンにより徹底管理された清潔なシーツが包帯として使い放題だ。
しかし。
(……それでいいのかな)
ポポロの話を信じる限り、殺された女性の数は数百人にも上る。目の前の狼が『ミゼラ』にしか興味がないのは一回見た限りでわかる。
一体何故女性なのか? その理由はさておくとして、目の前の狼が女性大量死の要因の一つであることは間違いがないだろう。
だが。それは全て、目の前の狼が全部やったのだろうか。
(違うだろうなぁ)
それだけは違うと断じて言える。あの狼は要因であっても原因ではないはずだ。ポポロは『狼を現在進行形で調教していた藍香と楊斗』に対して『今現在も女性は減っていってる』と告げた。
もし目の前の狼だけが原因だとするのなら、それは辻褄が合わない。
(どんなことにだって理由がある。何の理由もなく狼が『女性だけ』を狙うわけがない。餌としてなら人間の男性も女性も変わりはしない。むしろ肉食動物が獲物を選別することがあるとするのなら、普通性別じゃなく年齢の方に注目するはず)
赤い毛並、行動原理、変わる体格。その全てが不自然だと告げている。自然ではない。
(……自然ではないのなら、あの狼をけしかけているのは間違いなく、僕たちと変わらない『人』だ)
例えば『この新宿』に、狼を使って女性を根絶やしにしようと考えている人がいるとして、効率的に女性を殺すにはどうしたらいいだろう。
狼のやれることには限界がある。いくら人間以上の身体能力を持っていたとしても、取り逃がす可能性はゼロではない。その限界を越えてしまった者を、犯人は指を咥えて見ているだけではないはずだ。
(僕なら罠を張るなぁ。資源が大量にあるデパートや、人が住むのに最適なホテル。そこに狼を大量投入しておく。もしくは犯人自身がターゲットに対して手をかけるか……)
彼の頭の中で繰り広げられている仮説は所詮仮説だ。ある一定の選択肢を切り捨てるだけの力は持っていない。通常なら、藍香はこのままホテルに真っ直ぐ向かっていただろう。
だが、ポポロが三分経てば『何か』をするらしいという事実が、彼の足を止めていた。
(……楊斗が信じるって言ったんだから、僕も信じよう。だから、僕の選ぶ選択肢は決まっている)
ホテルに行かない。彼の言葉を信じる。信じた内容が真だったとするのなら、今からホテルに行ったとしても何もできずに終わってしまうだろう。鍵を探している内に三分が経ってしまう。
最悪の場合、彼の仮説が当たって、原因に殺されてしまうかもしれない。
偽だった場合はあまり考えたくはない。信じるということは、その相手に賭けるということだ。裏切られたときは、賭けたものを丸丸全て残らずに持ってかれてしまう。
今回賭けたものは、今腕の中にいる瀕死の少女の命だ。自分の目の前で誰かが凄惨な死に方をする、なんて結末は御免だった。
「……ん?」
ここで唐突に、藍香の頭の中に、この危機的状況とはまったく関係のない思考が浮かぶ。
――あれ? この子、日本人のはず、だよね?
「……それ……ああ、いや。いいや。そんな場合じゃないし!」
頭を振って、思考を再び状況判断に切り替える。
「楊斗! ごめん! この子はここで守った方が安全だと思う!」
「はあっ!?」
驚きと声量が比例したかのような声だった。
「あと二分だ! あと二分持てばいい! ここから安全圏に彼女を連れて行くには時間不足だし、不確定要素が多すぎて危険だよ!!」
「……ちっ。お前がそう言うのなら仕方ないな。絶対に俺の後ろにいろよ! もう絶対にすり抜けさせたりはしない!」
楊斗は手の平に拳を打ち付け、狼に向かって尋常ではない集中力を向けはじめた。
実際のところ、彼の『絶対』程に頼もしい言葉はない。この言葉に子供のころから何度も救われてきた藍香はいつだって、自分の役割を全うできる。
「怪我の手当はもう少しだけ待っててね。この煙が晴れるころまで」
「……」
黒づくめの少女は何も言わない。ただ、楊斗の背中をじっと見つめているだけだ。
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ポポロの言葉さえなければ、行っていたかもしれない高級ホテル。楊斗たちが産まれる何年も前から連綿と続く老舗だ。
そのホテルの中に、ボロボロの女性が一人飛び込む。息を切らせ、化粧も剥げ、靴が脱げて足の裏を血塗れにしながら。
建物の中に入り、女性は束の間の安心を得る。周りを何かに囲ってもらえて、少しだけ息を吐ける。
狼はもう追ってこないようだ。柔かい色調の、蜂蜜色のライトに照らされたロビーを抜け、女性は奥へと進んでいく。
階段を昇り、少しして気付く。何か、鉄臭い匂いがする。
「……ゲームオーバー……」
その鉄臭い香りの正体は、階段を昇った先にいた狼だ。階段を塞ぐように横一列に並び、女性に向かって唸っている。疲れ切って下を向きながら昇っていたから、すぐ近くに来るまでまったく気付かなかった。
――いや、待て。今自分に話しかけた声は、間違いなく人間の女性のものではなかっただろうか。
狼とは逆の方向。女性は後ろを振り返る。目に入ったのは――
「残念無念、また来世」
赤。赤い毛並の女性と、自分の血の赤だった。