遠心ビオトープ:2
先程テレビを付けられたことから察するに、都市全体への電力供給は一切止まっていないようだ。
都庁に入ってすぐ気付いたが、中のエスカレーターも動いていた。しかも、建物全体に冷房が効いていて、快適なことこの上ない。この分だとエレベーターも問題ないだろう。
「人がいないのに電気は来てる……? 何かおかしいな」
藍香が怪訝な顔をして周りを警戒する。白いタイル。モザイクのかかった液晶掲示板。誰もいない受付。
ここにも人を発見することができなかった。人がいなければ動かないものが動いているのに、人がいない。
「……上に行こう。誰かに止められることもないだろうしな」
「そうだね」
楊斗が先導し、ひとまず藍香は周りの観察をやめる。
上から見渡せば、何かがわかるはずだ。二人は希望を持ってエレベーターに乗り、上へと向かう。
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「……見つからないな」
「うん。愚かでちっぽけな人類が一切見つからないよ」
「お前探し方が屈折しすぎだ!!」
展望室から遠方を見渡す。だが一向に見つからない。見えるのは、人が作ったことだけは間違いのない繭型の摩天楼、時計塔型の摩天楼、滑らかなデザインの摩天楼、摩天楼摩天楼摩天楼。
一見して変わり映えのしない世界だ。だが、高いところだからこそわかる違和感もあった。新宿と言えば車と人が行きかい、すれ違いあい、袖振り合う超過密都市。人がいすぎることが逆に問題視されるような息苦しく、狭苦しく、空気の悪い楽園崩れの副都心。
たとえ人がいきなり消えたとしても、その事実は変わらないはずなのに。新宿全土の空気が、見違えるほどに綺麗なのだ。晴天も相まって全てが清浄かつクリアに見えすぎる。見た目が同じでも『昨日まで普通に人がいた都市』だとは信じられなくなってしまった。
「嘘だろ。マジで世界で二人ぼっちになっちまったのか?」
「……うーん? ありえないと思うけどなぁ」
藍香は窓の外を見ながら首を横に振る。楊斗は一度気分転換するように、藍香の方を向いた。
「ありえないって言っても事実そうなってるんだから仕方ないだろ」
「いや。それはそうなんだけど。何か釈然としないというか……ねぇ? なんかさ。根拠はないんだけど……」
彼もまた、窓から目を外して楊斗の方を向く。その顔は、困惑に満ちていた。こういうときにこそ論理的に、かつ冷静になる彼にしては珍しいと楊斗は思う。
「……女の子がいなければいけない気がするんだ」
「は?」
「言ってる意味がわからないことは自覚してるんだ! でもさ! 何かそんな気がしてしょうがないんだよ!」
「お前な……男二人だけでムサいってのはわかるけど。いくら何でもそんな……」
「この発言はマジだって!!」
本当に何の根拠もない発言。だが同時に、何かわけのわからない真実味があった。
「……何でだ? 俺もそんな気がして仕方がない」
「ねえ。そういえば起きる前に、何か夢見なかった?」
そういえば、と楊斗は記憶を巡らす。今までたかが夢だと思っていたが、こうなってくると現実意外にも手掛かりを求める必要がある。
そして、すぐに思い出す。
「参加条件は女性と男性でペアを組むこと?」
「そう! それ! やっぱり同じ夢見てた!」
「……いや、でもそれが何だ?」
どう言葉にすればわからない。その夢で言われたことを加味したとしても、情報が少なすぎて何一つとして理解できない。
目に見えるもの全てが荒唐無稽すぎて、まだ夢の中にいる気もしてくる。
「結局のところ状況の何もかもが依然として意味不明すぎるじゃないか」
「でも。たった一つだけわかっていることがあるよ」
「何だ?」
「今現在の、この世界はまともじゃない。まるで完全な――」
ガタンッ。
金属質な音が響く。今日初めて聴いた、自分たちとは関係のない音。唐突な変化に肩を震わせて、その方向を見る。
「!!」
音の正体は通気ダクトだ。金網が外れ、そこから出てきたのは、これまた今日初めて見た『人』だった。しかし、出てきた者はぴくりとも動かない。体の力という力が抜け、まともな受け身も取れずに床と接触する。
「……いた。本当に」
藍香が心底驚いたように、思わず呟く。だが楊斗はその人物に向かって迷いなく向かった。
いざというときの行動力については、楊斗の方が遥かに上だった。楊斗は考える前に、彼の性格に基づいた行動をとる。これは吉と出れば普通の結果よりもいい結果が出るが、凶と出れば普通の結果よりも悪い結果となる諸刃の行動原理だ。
藍香本人としては、あの得体の知れない人間にすぐ近づくことなどできはしない。これは楊斗ならではの行為だった。
「おい! 大丈夫か!」
思考が行動に追いつき、この言葉が楊斗の口をついて出たのは、その人物を助け起こしてからだった。この暑い時期に、ニット帽を深く被り、まるで人目を避けるかのような黒づくめの服を着た小柄な人物の様子を、楊斗は確かめる。
「!」
その人物の胸は激しく上下していた。しかも抱き起した時点でわかるほどに、その人物は汗塗れとなっている。まるで必死に何かから逃げてきたかのような――
「楊斗!」
藍香の声は、危機感を煽るようなものだった。頭でわかっていたわけではない。だが楊斗はその場から、小柄な逃亡者を抱いて逃げた。
次の瞬間。
ばくん。
先程まで楊斗のいた場所を、何かが噛んだ。楊斗が避けたので、結果的に宙を食ったその生物の正体は、赤い毛並を持つ雄々しい獣。
「お、狼っ!?」
楊斗は素っ頓狂な声をあげてしまう。現代日本に狼はいないはずだ。しかし、目の前の獣は犬とは違うフォルムと雰囲気を持っていた。素人目でも一瞬で判断できる。間違いなく目の前にいるのは狼だった。
だがおかしい。まるで毛染めでもしたかのような真っ赤な毛並は、自然の狼にしては不自然だ。
何よりも野生生物は普通都会にはいない。いたとしても鳩かカラスかのどちらかだ。
「うわわわっ!!」
飛びかかってきた狼の横っ面を思わず蹴り飛ばし、楊斗はエレベーターに視線を送る。狼は吹き飛ばされ、壁へと派手に衝突した。
「藍香! エレベーターをあけろ!」
「入っても追いつかれるって!」
「バカ! この子を逃がすんだよ! 俺たちの身の安全は後だ!」
「マジ!?」
考えて発言しているわけではない。彼は彼の性分に基づいて行動をしているだけだ。
「人を抱きかかえたままじゃ逃げるにしろ何にしても対処できないだろ!」
「……ああもう!!」
エレベーターのドアを開ける。
「自力で走れるか?」
小柄な人物は、ニット帽に隠れがちになっている目を楊斗に向ける。このとき、この人物の顔の全体をやっとのこと把握した。
「……あ、女の子だったのね」
「……」
疲れ切った顔だ。離しただけでまた倒れてしまいそうな程に。
だが、少女は『もういい』と言うように、陽斗の胸を手の甲で軽く叩いた。
「……」
軽く。本当に軽くお辞儀をして、少女はふらふらの足取りでエレベーターに乗る。そして、迷うことなく下へと降りて行った。
(……人がいた)
しばらく藍香はエレベーターのドアをぼーっと見つめていた。少なくともこの世界に自分たち以外の人間がいた。その事実が、肩に入った余計な力を抜いていく。
「さてと」
だが楊斗の声を聴き、そんな場合じゃないことを思い出した。すぐに臨戦態勢になる。
「この狼、どうする?」
「全滅さえしてなければ今ごろ天然記念物なんだろうけど。エレベーター使われちゃったし、逃げても多分追いつかれるし、襲ってこられたんじゃ仕方ないし……うう」
仕方ない。藍香のこの言葉の意味するところはただ一つ。幸い、まだ若い狼なのか、叩きのめせば向こうから逃げていくんじゃないかと思う程度には小さい狼だ。危険度自体はただの野犬と大差ない。
「ぶちのめして玉乗りでも仕込む?」
「おっし! その方向で!」
「逃げたい……」
狼は、牙を剥いて二人に唸っていた。
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人の目では認識できないほどの遥か上空。空気圧が低いため、地表よりも遥かに気温が低い場所で、風船のようにぷかぷかと浮かぶ影があった。
赤ん坊よりも小さいかもしれない大きさ。背中には羽。白い装束に身を包んだ縫い包みのような、丸くデフォルメされたフォルム。それの正体は、今現在地表で起こっている異変の元凶とも言える存在だった。
その元凶は、今何をしているのか。
「……ふがっ」
二度寝だ。本来彼は九時には起きなくてはならないはずだったのだが、今もこうして変わらずに寝息を立てている。
「……ふへへー……三十年ぶりにー……ゲーマス任されたんですー……ふひっふひっ」
幸せな顔で眠り続ける縫い包み。その縫い包みのポケットの中には、短針と長針の背後に不吉なデジタル表示の数字を映し出す懐中時計があった。
『G:4998 L:4567 C:2』
傍目から見るとわけのわからない数字だ。しかし、この縫い包みには意味のある数字だった。
「……ふひっ?」
異常に気付き、縫い包みは寝ぼけ眼を擦り、やっとのこと起きる。そしてポケットから時計を取り出し、中身を見る。
しばらくボヤけた眼をしていた縫い包みは、どんどんと青ざめて目を見開いていく。
「あれれぇえええええええ!? LとGの数が合わないぞーーーッ!? い、一体どうしたこと!? 何でいきなりこんな!!」
と、言っている間に、Lに表示されたデジタル表示がまた減る。
『G:4998 L:4539 C:2』
「うなーーーっ!! また減ったーーーッ!! っべーよ! マジっべーよ!! 一体今地表で何が……ああっ!!」
懐中時計を見てまた青ざめる。今の時刻は『午後』九時三十分。
明らかな大遅刻だった。
(げっ、ゲーマスのワタシを差し置いて、もう既におっぱじめている誰かがいる!? いやそりゃ遅刻したのは悪いけどさ!)
元凶には元凶なりの責任がある。このままLの数字が減っていくと、この縫い包みにとっては不都合なこと極まりない。端的に言えば元凶自身の立場も悪くなりかねないため、彼は速く下に降り、誰かが勝手に始めた『ゲーム』を一旦中断させなければならないのだった。
「待ってくださいみなさん! 今ゲームのマスターを勤めることになったワタシ、愛称ポポロ! すぐさまゲームのポーズ&チュートリアルに向かいますからねぇええええええ!!」
糸が切れたかのように、ポポロは真っ逆さまに落ちていく。こうしている間にもLの数字はどんどん減っていき、ポポロの心に焦りを募らせるのだった。
赤毛にした後気付いたこと:あ、これキューティクル探偵のあの人を連想させるな。面倒だから赤のままにしておこう。