1st_world:遠心ビオトープ
自分というものが曖昧になる夢の中で、確かに『参加者』たちは理解した。
そのゲームの名前は『方舟争奪!? ノアゲーム』。
参加条件は女性と男性がペアを作ること。
優勝賞品は『天国』。
それだけを理解して、参加者たちは眼を覚ます。今この時点において、参加者たちは自分のおかれている状況を、わかっている者とわかっていない者の二種類に分類された。
「……おはよう」
「おはよう」
この二卵性の双子の兄弟。ふわふわのくせ毛の茶髪が特徴的な笹金藍香と、さらりとした黒髪を持つ笹金楊斗は、自分の家のリビングルームで目覚めた。
「なんか変な夢見たよ」
藍香がふらふらの疲れ切った声でそう言っている間に、楊斗はさっさと台所に行き、コップに水を注いで飲んでいた。
「なんかやたら明るい声で、本当に最低限の情報だけを押し付けられたような気がしたんだけど……」
「何だそれ?」
水を飲んで一息吐き、楊斗も口を開く。
「なんか。『ここはアメリカです! 一週間経ったら迎えに来るので、それまで何とか生活してください!』って言われてさ。目が覚めたら本当にアメリカにいた、みたいな唐突な夢だったような……」
「気にすんなよ。所詮夢だろ? ところで」
と、楊斗が話題を切り替える。
「何で俺たちはベッドじゃなくリビングで寝てたんだ?」
「え」
そういえば、何でだろう。自分たちはいつも二段式のベッドで寝ていたはずだ。しかも目覚めたとき、二人はソファでも何でもなく、硬い床の上で寝そべっていた。
まるで、ぞんざいな誘拐犯が適当に人質を扱ったかのように。本当に無造作に二人はそこにいた。
「……あれ?」
おかしい、と気づいたのは二人同時だった。昨日の記憶が曖昧だ。いや。下手したら今が何月何日かなのかも曖昧だった。何故か知らないが、二人の中からハッキリとした時間の感覚というものが消し飛んでいる。
『夜寝て、起きてみたらリビングだった』という認識ではなく、『気が付いたらリビングにいた』という感じ。あって当然の過去の記憶がない。
二人は間違いなく記憶喪失に陥っていた。
「あれぇ? 僕たちお酒でも飲んだのかな?」
それなら記憶が飛ぶのも理解できる。だが、藍香も楊斗もまだ高校二年生。酒の飲める年齢ではなかった。
「冗談じゃないぞ。今何時だよ」
「え。ええっと……」
楊斗が台所から飛び出し、壁掛け時計を見る。時計はちょうど九時を指していた。そして今は夜ではない。どうやら朝のようだ。
「いやでも今日が休日じゃないとは限らないし」
「頼む休日であってくれ!! おいテレビのリモコンどこだリモコン!!」
落ち着いている藍香とは対照的に、楊斗はテレビのリモコンを探す。ソファの上にポンと置かれていたのを藍香が発見し、これまた落ち着いた挙動でテレビを付けた。
「??」
兄弟揃って首を捻るハメに陥ってしまった。テレビが映し出したのは、薄型ハイビジョンテレビには似合わないモザイクの砂嵐。
「……??」
チャンネルを変える。砂嵐。また変える。砂嵐。変えて、また砂嵐。何度も何度も何度も変えて、何度も何度も何度も砂嵐砂嵐砂嵐……。
「何だ? 故障? こんなときに?」
「ねぇ、楊斗」
そういえば、と藍香はさらなる異変に気が付く。
「父さんはともかくとしてさ。母さんはどこ?」
「へ? そんなもん家にいるに決まって……」
いない。そういえば彼らは起きてから、専業主婦である母親の姿を見ていない。たまにパートで稼ぐことはある。だけど、こんな朝早くから外に出るような人じゃないはずだ。
「何だ? 昨日何があったんだよ……くそっ。全然思い出せねぇ!」
頭を抱えてから、楊斗はリビングの外へと歩き出す。
「藍香! 外出るぞ! 今が何日なのか、ここじゃ知りようがない!」
「わかった!」
二人は不安を押しこめるようにして、外に繰り出す。二人の住まいは西新宿の、車道がすぐ傍にある典型的な都会の一角だった。
少し歩けばいい。それだけで、この時間でもすぐに人ごみを見ることができるはずだ。
その日は晴天。少し遠くを見れば摩天楼。その方向に向かって二人は歩いていく。
歩いて……。
「……」
ほんの少しして、止まった。
「車が……走ってない……」
楊斗が真っ青になって呟く。
車が一切走っていない。駐車された車は見つけることができた。だが、先程から車道に、動く車を見つけることができない。
「どういうことだ? 何が起こってる? というより、何かが起こったのは俺の頭か? それとも世界の方か?」
「待って楊斗。まだ全人類が消えてしまったと確定したわけじゃない。アイアムレジェンド的な生活を期待するのは間違ってるよ」
「誰が期待したそんなもんッ!!」
「僕が期待すると思うのかーーーっ!!」
「お前が言ったんだろうが阿呆!!」
人目を憚らず、二人の男は口喧嘩を始める。そもそも周りに人がいないから憚りようもない。
「……くそっ! 何で人がいないんだ!」
「仮説でいい?」
「おう。今ならどんなトンデモ仮説が来ても驚かない自信があるから言ってみろ」
「きっとみんな! 僕たちの誕生日をサプライズパーティにしようとしているんだ!」
「ああ、ごめん。トンデモ仮説はいいけどバカ仮説はノーサンキューな方向で」
今日は何日なのかの判別すらできない。しかし、天候からある程度のことはわかる。今はどうやら夏らしい。半袖でも少し暑いくらいだ。彼らの誕生日は冬だから、藍香のバカ仮説が当たっている確率は皆無だろう。
そもそも東京全域に愛されるような特別な人間でもない。
「誰かいないのかーーー!!」
楊斗が声を張り上げるが、返事はない。いくら声を張り上げても、建物に声が反射して帰ってくるだけ。普段の都会ならありえない現象だった。『人の声が都会で木霊する』。
その不自然さが、さらに二人の心を波立たせる。
「……とりあえず、高い場所に行こう」
「え」
藍香の冷静な提案に、楊斗は振り返る。声を出しすぎて荒くなってしまった呼吸を整えながら。
「人が一人もいないのなら、どこの屋上にだって行きたい放題だ。そこからなら東京のほぼ全貌が見える。人だって見えるかもしれない」
「……そうだな。その通りだ」
普段はおちゃらけた言動を繰り返す藍香だが、窮地に追い込まれた彼は逆に冷静になる。昔からそうだった。子供のころ、家で食器を割ってしまったとき、誤魔化そうとした楊斗とは対照的に、藍香は正直に罪を告白する選択肢をいとも容易く選んでみせたことがある。
結果、楊斗は三時間ほど説教されたが、藍香は三十分の説教で済んだ。どっちにしろそれなりに長いが。
「とにかく上。よっし! そうと決まればさっさと東京都庁に向かわないと! この近くで一番大きい建物って言ったらあそこだし」
「わかった!」
今度こそしっかりとした目標を持った二人は、東京都庁へと急ぎ、走る。しかし、彼らは間違えてしまっていた。人を探すだけなら、ずっと声を張り上げていればよかった。
彼らの後方、約五十メートル。血塗れの女性がその後ろ姿を見ている。彼女は先程の楊斗の声をしっかりと聞いていた。返事をしようとはした。だが、喉をついさっき『噛み千切られてしまった』ため、それが叶わなかったのだ。
「……!!」
助けを乞うように手を伸ばす。足を引きずり、ぼやける目を精一杯凝らして、狩人から精一杯逃げようとする。
だが全ては終わっていた。あの二人があと少しでも周りを見ていれば救われた命は、簡単に刈り取られてしまう。
その『狼』によって。最後の一撃を入れられて、彼女はこの世界から消えてしまった。