クライマックス
第3話 クライマックス
普通、クライマックスに近づくと、この小説の場合、アムが追いかけられるシーンは、事細かく模写するほうがいい。
あまりそれに沢山ページを使っている作品もどうかと思うけれど、最低限のページは必要だ。
たぶん、そのほうが読者をあつくさせる。
それは、わかっているつもりなんだけどね…。
それでも、アムはどれだけ追いかけられたのか、どのように逃げたのか、全く記憶に、ない。
無我夢中だった。
もしアムが作家なら、そこのところは適当にごまかすかもしれない。
でも、アムは作家ではない。
まして『ごまかし』は大嫌い、だ。
おそらく少々の格闘はあったのだろう。
衣服がボロボロなのがそれを物語っている。
片側が絶壁。もう片側が谷底。
そんな山道だった。
その先には洞窟がみえている。
…霊域。
アムが我に返った時には、自分自身の両手で自分自身の両腕をひっかくようなカッコウで倒れこんでいる、そんな変わり果てた彼の姿がそこにあった。
冬だというのに、生暖かい風が吹いた。
「ア…」彼の苦しげな声が耳に届いた。「…ム」
「…」アムの精神はそれに耐えられなかった。「…」
「ア、ム、イ、マ、キ、タ、ミ、チ、ヲ…」震えながらも、かうじて口が動いていた。「ヒ、キ、カ、エ、セ」
自分の両腕をひっかく仕草。
それは何かに葛藤している彼の『精一杯』なんだろう。
「…」それでもアムは声がでなかった。「…」
「ハ、ヤ、ク」彼の声は最後のほうは言葉になっていなかった。「ニ、グェ、ルォ…」
その容姿はもはや彼ではなかった。
…色情魔。
だけど、そこには彼の心がわずかに残っている。
と、アムは感じた。
アムは彼のなまえをよんだ。
彼は肯く姿勢をみせた。
もともと逃げるつもりはなかった。
それでも、彼の変わり果てた容貌を目にした時、獣のように襲いかかる彼から、無我夢中で逃げてしまった。
「ごめん、ネ。逃げてしまって」
と、アムは彼に近づき、彼にふれた。
「ハヤ、グ、ニ、グェ、ルォ」
と、彼はそれを振りはらう。
その仕草の直後、彼の形相は獣のように変化した。
「ニガスモノカ」
と、この台詞は色情報魔以外の何者でもない。
よだれをたらし、両手の爪をむきだし、牙をもむきだすかのように、グォーとアムに襲いかかる。
でも、彼の心がそこに残っている。
と、アムは信じた。
アムはお得意の、ほっぺをチュ~と吸って、の、あの、ひよこのくちばしで、思案した。
アムは逃げずに瞼を閉じた。
「ニ、ゲ、ルォ」
と、これは彼の心の叫びだ。
次に、色情魔と彼の心が交互に入り混じる。「ニガスモノカ」「ニ、ゲ、ロ」「ニガスモノカ」「…ゲロ」
顔は骨と皮。目が落ちこみ、頬が落ちこみ、ミイラ寸前の彼に、アムは抱きついた。
アムは瞼をとじた。
そして幸せだった頃の彼を想いうかべた。
その瞬間、彼から力がぬけ、というか、何もかもがぬけ、彼はそこに崩れた。
アムは瞼をあけた。
そこにはミイラ寸前の彼が、さらに生気なくくたばっていた。
アムは彼のなまえをよんだ。
彼は肯くことはなかった。
アムの目に涙がうかんだ。
涙で彼が滲む。
彼の顔にアムの涙がこぼれた。
「シキ、ジョウ、マ、ハ」彼の声が幽かに響いた。「ヌ、ケ、ダ、シ、タ」
アムは彼のなまえをを呟いた。
でも、彼の反応はなかった。
アムの愛が色情魔をおいだしたのか?
それとも、
逃げない女に興味がなかったのか?
それとも、
彼の肉体の限界だったのか?
アムにはわからないけれど、とにかく色情魔はぬけだした。
と、彼はいった。
たぶん、新しい体に移るのだろう。
と、アムは思った。
アムは彼のなまえををもう一度つぶやいた。
彼の唇がわずかに反応した。
アムは彼のなまえを優しくよんで、そして続けた。「大丈夫ぅ」
「イシ、キガ、トウ、ノ、イ、テ、イ、ル」
と、彼の口が動いた。
「喋らないで、いいよ」
と、アムは大粒の涙を二粒こぼした。
「モゥ、アムノ、コエガ、…アムノ…」
「喋らないで…」「…カ、オ、モ、ミ、ミ、」「喋ら…」
「ミ
エ
ナ…」
アムは彼のなまえを叫びながら、幼少の娘のように泣きくずれた……。