茶室の際
静寂の底に沈むその茶室には、誰の姿もない。
――そう聞いていた。
人里を遠く離れた山道の中腹。古びた苔むす石垣の影、紅葉の枝葉が幾重にも折り重なる隙間に、その小さな茶室は身を潜めるように佇んでいた。麓にある古刹の住職の言によれば、十年以上も昔に主を失い、廃絶した場所だという。
それにもかかわらず私がそこへ至ったのは、ひとつの夢の導きによるものだった。
◇
夢の中で、私は三畳ほどの狭小な茶室に佇んでいた。
炉には炭が赤々と熾り、幽かな熱を揺らしている。
対座する位置には、白い湯気の向こう側、顔立ちの定かでない「誰か」が座していた。
その影は、静かに茶碗を滑らせ、差し出して囁く。
――これを召し上がれば、もうお帰りにはなれませんよ。
私は拒み、茶碗を取らなかった。
ただ無言のまま耳からイヤホンを外し、現実の暗がりへと意識を浮上させたのだ。
◇
不可解な夢であった。
だが翌朝、目を覚ましてなお、鼓膜の奥深くに幽かな水音が響き続けていた。
ざあ、ざあ、と。
遠い冥府の川鳴りのような、あるいは私の記憶の地下水脈が蠢くような音。
――逆夢、という言葉がふと脳裏をよぎった。
私はその水音の残響に手繰られるようにして山へ足を踏み入れ、やがて夢に見た通りの茶室を見出した。
固く閉ざされた引き戸。錆びついた鎖と錠前。
現実の静寂の中で、逃れられぬ水音を打ち消そうとイヤホンを両耳に装着した瞬間、その音が鮮烈に耳朶を打った。
ざあ、ざあ。
濁流の音の合間に、不意に声が混じる。
『おいで』
慌ててイヤホンを外せば、世界は静けさを取り戻す。
再び装着する。
『おいで』
声は間違いなく、扉の向こう側の闇から響いていた。
理性に抗いきれず引き戸に手をかけると、施錠されているはずの戸は、滑らかな滑音を立てて容易く開いた。
室内は、夢の光景の忠実な再現であった。
三畳の静寂。炉。熾火の微光。
ただひとつ、夢には存在しなかったものがそこにあった。
床の間の掛け軸。そこに掠れた墨跡で記されていたのは、私自身の名前であった。
「……なぜ」
慄える声を零した瞬間、炉の向向こう側の空間が歪み、声が落ちてきた。
「夢の中では、まだ見えていなかったでしょう」
顔を上げる。姿はない。
しかし畳の上を、一客の茶碗が滑らかな軌道を描いてすうっと滑り寄ってきた。
私は思わず腰を引く。
「……帰れなくなると、仰いましたね」
「ええ、言いましたよ」
「ならば、私は帰りません。この茶は飲まない」
「それは困ります」
声に、かすかな笑みの気配が混じる。
「ここは帰るための場所ではなく、巡り戻ってくるための場所なのですから」
意図を解しかねて立ち尽くしたその時、イヤホンから鼓膜を破らんばかりの劇的な水音が溢れ出した。
ざあああっ、と。
耐えかねて耳からそれを引き抜いた瞬間、視界が急速に反転した。
茶室は影も形も消え去り、私はただの山道に佇んでいた。目の前には老いた石垣と楓の樹冠。その奥には、ただ無為な空脈が広がっているばかり。茶室など、初めからこの世のどこにも存在しなかったかのように。
ただ、自らの掌の中に、見覚えのない一客の茶碗だけが、確かな冷たさを携えて残されていた。
◇
その夜、私は自室で悟った。
あの日、あそこで茶を拒んだ時から、私の「現実」は歪んでしまったのだと。
耳を塞いでも、部屋の隅にいても、あのざあざあという水音が絶えず脳裏を削り取っていく。現実の色彩は退色し、メシの味も、人の声も、すべてが薄紙を隔てたように遠い。私は現実へ「帰ってきた」のではない。あちらとこちらの境界に取り残され、永久に干からびていく生殺しの猶予を与えられただけなのだ。
逃れる道は――。
私は導かれるように再び目を閉じ、夢の茶室へと降りて行った。
茶室の内に座しているのは私であった。
そして対座する「誰か」の輪郭が、煙の晴れるように鮮明に結像する。
それは、私自身であった。
かつてあちら側へ去り、私を待ち続けていた――もうひとりの私。
向かいに座す私は、深淵のような微笑をたたえて茶碗を滑らせた。
――これを召し上がれば、お帰りになれますよ。
「帰る」、それはもはや別の意味となっている。
私は今度こそ躊躇うことなく茶碗を取り、その秘薬のような茶を飲み干した。
喉を落ちる冷ややかな液体が、私の半端な存在を内側から塗り潰していく。恐怖は消え、引き換えに圧倒的な安らぎと充足が満ちていった。
目が覚めると、白々とした朝の光が部屋を満たしていた。
枕元には、片方だけのイヤホンが転がっている。
それを耳に挿し込む。音はない。完璧な静寂だけが存在した。
私は静かに息を吐き出し、イヤホンを外そうとした。
その刹那。
耳朶のすぐ際で、濡れた声が囁いた。
それは間違いなく、私自身の声だった。
『今度は、あなたが迎えに来る番です』
窓外で風が吹き抜け、葉を鳴らした。
ざあ、ざあ、と。
あたかも遠い冥府の川鳴りのように。
私はイヤホンを置いた。あの茶碗を棚の最奥、暗がりの中へと封じ込めた。
もはや、二度とあの山へ足を運ぶ必要などない。
なぜなら――
◇
夢の茶室の際に、私はすでに佇んでいた。
炉の炭は赤々と熾り、幽かな湯気が立ち上っている。
私はここで、ずっと待ち続けているのだ。現実の時間を彷徨い、いつかまた水音に手繰られてここへ至る「次の私」の訪れを。
茶を立て、差し出さねばならない。
もしも「私」が、「帰れなくなる」と怯えの声を漏らしたなら、
私は密やかな笑みをたたえて、こう応えるのだ。
「大丈夫。
夢と現は、いつだって反転するものだから」
そう囁きながら、畳の上を滑らかに茶碗を滑らせる。
他者などどこにもいない。始まりも終わりもない。
ただ私という存在だけが、この三畳の静寂の中で延々と循環し、満ち足りている。
「私」が抗いようもなくそれを飲み干す、その瞬間を、私はただ、静けさの中で待ち続けていた。
ー了ー




