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茶室の際

作者: 茶ヤマ
掲載日:2026/10/05

静寂の底に沈むその茶室には、誰の姿もない。

――そう聞いていた。


人里を遠く離れた山道の中腹。古びた苔むす石垣の影、紅葉の枝葉が幾重にも折り重なる隙間に、その小さな茶室は身を潜めるように佇んでいた。麓にある古刹の住職の言によれば、十年以上も昔に主を失い、廃絶した場所だという。


それにもかかわらず私がそこへ至ったのは、ひとつの夢の導きによるものだった。


◇


夢の中で、私は三畳ほどの狭小な茶室に佇んでいた。


炉には炭が赤々と熾《おこ》り、幽かな熱を揺らしている。

対座する位置には、白い湯気の向こう側、顔立ちの定かでない「誰か」が座していた。


その影は、静かに茶碗を滑らせ、差し出して囁く。


――これを召し上がれば、もうお帰りにはなれませんよ。


私は拒み、茶碗を取らなかった。

ただ無言のまま耳からイヤホンを外し、現実の暗がりへと意識を浮上させたのだ。


◇


不可解な夢であった。

だが翌朝、目を覚ましてなお、鼓膜の奥深くに幽かな水音が響き続けていた。

ざあ、ざあ、と。

遠い冥府の川鳴りのような、あるいは私の記憶の地下水脈が蠢くような音。

――逆夢、という言葉がふと脳裏をよぎった。


私はその水音の残響に手繰られるようにして山へ足を踏み入れ、やがて夢に見た通りの茶室を見出した。

固く閉ざされた引き戸。錆びついた鎖と錠前。

現実の静寂の中で、逃れられぬ水音を打ち消そうとイヤホンを両耳に装着した瞬間、その音が鮮烈に耳朶を打った。


ざあ、ざあ。


濁流の音の合間に、不意に声が混じる。


『おいで』


慌ててイヤホンを外せば、世界は静けさを取り戻す。

再び装着する。


『おいで』


声は間違いなく、扉の向こう側の闇から響いていた。

理性に抗いきれず引き戸に手をかけると、施錠されているはずの戸は、滑らかな滑音を立てて容易く開いた。


室内は、夢の光景の忠実な再現であった。

三畳の静寂。炉。熾火の微光。

ただひとつ、夢には存在しなかったものがそこにあった。

床の間の掛け軸。そこに掠れた墨跡で記されていたのは、私自身の名前であった。


「……なぜ」


慄える声を零した瞬間、炉の向向こう側の空間が歪み、声が落ちてきた。


「夢の中では、まだ見えていなかったでしょう」


顔を上げる。姿はない。

しかし畳の上を、一客の茶碗が滑らかな軌道を描いてすうっと滑り寄ってきた。

私は思わず腰を引く。


「……帰れなくなると、仰いましたね」

「ええ、言いましたよ」

「ならば、私は帰りません。この茶は飲まない」

「それは困ります」


声に、かすかな笑みの気配が混じる。


「ここは帰るための場所ではなく、巡り戻ってくるための場所なのですから」


意図を解しかねて立ち尽くしたその時、イヤホンから鼓膜を破らんばかりの劇的な水音が溢れ出した。

ざあああっ、と。


耐えかねて耳からそれを引き抜いた瞬間、視界が急速に反転した。

茶室は影も形も消え去り、私はただの山道に佇んでいた。目の前には老いた石垣と楓の樹冠。その奥には、ただ無為な空脈が広がっているばかり。茶室など、初めからこの世のどこにも存在しなかったかのように。


ただ、自らの掌の中に、見覚えのない一客の茶碗だけが、確かな冷たさを携えて残されていた。


◇


その夜、私は自室で悟った。

あの日、あそこで茶を拒んだ時から、私の「現実」は歪んでしまったのだと。


耳を塞いでも、部屋の隅にいても、あのざあざあという水音が絶えず脳裏を削り取っていく。現実の色彩は退色し、メシの味も、人の声も、すべてが薄紙を隔てたように遠い。私は現実へ「帰ってきた」のではない。あちらとこちらの境界に取り残され、永久に干からびていく生殺しの猶予を与えられただけなのだ。


逃れる道は――。


私は導かれるように再び目を閉じ、夢の茶室へと降りて行った。

茶室の内に座しているのは私であった。

そして対座する「誰か」の輪郭が、煙の晴れるように鮮明に結像する。


それは、私自身であった。

かつてあちら側へ去り、私を待ち続けていた――もうひとりの私。


向かいに座す私は、深淵のような微笑をたたえて茶碗を滑らせた。


――これを召し上がれば、お帰りになれますよ。


「帰る」、それはもはや別の意味となっている。


私は今度こそ躊躇うことなく茶碗を取り、その秘薬のような茶を飲み干した。

喉を落ちる冷ややかな液体が、私の半端な存在を内側から塗り潰していく。恐怖は消え、引き換えに圧倒的な安らぎと充足が満ちていった。


目が覚めると、白々とした朝の光が部屋を満たしていた。

枕元には、片方だけのイヤホンが転がっている。

それを耳に挿し込む。音はない。完璧な静寂だけが存在した。

私は静かに息を吐き出し、イヤホンを外そうとした。


その刹那。


耳朶のすぐ際で、濡れた声が囁いた。

それは間違いなく、私自身の声だった。


『今度は、あなたが迎えに来る番です』


窓外で風が吹き抜け、葉を鳴らした。

ざあ、ざあ、と。

あたかも遠い冥府の川鳴りのように。


私はイヤホンを置いた。あの茶碗を棚の最奥、暗がりの中へと封じ込めた。

もはや、二度とあの山へ足を運ぶ必要などない。

なぜなら――


◇


夢の茶室の際《きわ》に、私はすでに佇んでいた。


炉の炭は赤々と熾り、幽かな湯気が立ち上っている。

私はここで、ずっと待ち続けているのだ。現実の時間を彷徨い、いつかまた水音に手繰られてここへ至る「次の私」の訪れを。


茶を立て、差し出さねばならない。

もしも「私」が、「帰れなくなる」と怯えの声を漏らしたなら、

私は密やかな笑みをたたえて、こう応えるのだ。


「大丈夫。

夢と現《うつつ》は、いつだって反転するものだから」


そう囁きながら、畳の上を滑らかに茶碗を滑らせる。

他者などどこにもいない。始まりも終わりもない。

ただ私という存在だけが、この三畳の静寂の中で延々と循環し、満ち足りている。


「私」が抗いようもなくそれを飲み干す、その瞬間を、私はただ、静けさの中で待ち続けていた。





ー了《ざぁ…》ー

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