婚約者の病弱な幼馴染みは、恋敵ではありませんでした
「レナーテが寝こんでいるんだ」
ヘンリクの声は思った以上に店内に響く。両隣のテーブルの令嬢たちの視線を感じて、ヨランダは零しかけた溜息を胸へと飲みこんだ。
今日はヨランダの誕生日で、王都で話題のカフェに婚約者のヘンリク・メルダースと訪れている。
彼が、美味しいと評判の焼き菓子に目もくれず、コーヒーだけをオーダーした時から薄々予感はあった。
案の定、目の前に置かれた湯気の立つカップに手を付けることなく、ヘンリクは切り出した。
「そうでございますか」
ヨランダは抑揚のない返事をする。実際、なんの感情も湧かなかった。だが脳裏にはケストナー侯爵令嬢レナーテの姿が浮かんだ。ヘンリクの幼馴染みである彼女は病弱らしい。らしいというのは直接レナーテから聞いたわけではなく、ヘンリクから散々聞かされたから。
ヨランダはヘンリクとの縁談が持ち上がった際、ケストナー家で催されたレナーテのお披露目を兼ねたパーティーに招待された。
レナーテの印象は繊細なガラス細工だ。彗星の尾のようなプラチナブロンドの髪に淡雪の肌。空色のまろやかな瞳が可憐な少女だった。華奢な体つきは確かに健康的とは言い難く、思わず手を差し伸べたくなる儚げな佇まいであった。
そんなレナーテをヘンリクが心配することに、そこまで疑問を抱かずにいた。
ヨランダの両親もお披露目パーティーで、ヘンリクがレナーテに世話を焼くのを見て、眉を顰めるどころか『幼馴染みのレナーテ嬢にあれほど心を砕くのなら、きっと妻になる女性のことを大事にするはず』と思い、メルダース家との縁談を結んだ。
いざ婚約してみれば、ヘンリクはレナーテの体調不良を言い訳にデートの約束を2回反故にしている。今日のように合流するなり『レナーテが寝こんでいる』と口にしたのは4度目。この後の彼の言い分はこうだ。
「だから傍についていてやりたい」
ヨランダが思い浮かべた言葉と、ヘンリクの台詞がぴったり重なる。
店内に漂うはずの話し声や食器の音が遠い。それは決してヨランダの気のせいではなく、右隣の令嬢3人はカップに目を落として耳を澄ませているし、左隣の令嬢2人は隠すことなく露骨にこちらに視線を向けている。
(……最悪だわ)
ヨランダには2人の兄がいる。どちらかが具合が悪ければ彼女だって心配だ。もし両親が不在であれば看病するため、目の前のヘンリクのように『傍についていたい』と言うこともあるかもしれない。
だが、いくらなんでも今日だけは駄目だと思うのは、ヨランダの心が狭量なのだろうか。
しかも待ち合わせの前ではなく――わざわざカフェまで来て周りの目がある場所で切り出すのはどうかと呆れて、カップを手に取ることさえ億劫だった。
そんなヨランダを見て、ヘンリクはどう解釈したのかテーブルの上にリボンのかかった箱を置く。若い女性に人気のジュエリーショップの物だ。
「誕生日おめでとう。また連絡する」
彼は目を合わせることなく立ち上がると、ヨランダの横を通り過ぎていく。
その腕を掴んで『こちらは結構です。二度と連絡してこないでください』とプレゼントを突き返す妄想を頭に繰り広げる。もちろん、そんな事をできるはずがなかった。
ヨランダの婚約は彼女のためだけのものではないから。貴族の結婚は政略が絡んでいるので、当事者といえどヨランダの一存で解消できるほど単純な問題ではないのだ。
両隣から囁き声が聞こえる。なにを言っているかまではわからないが、ヨランダとヘンリクを話題にしているのは理解できた。開いた扇で嘲笑の笑みと言葉を巧みに隠しながら、憐憫の視線を向けてくる。
ヨランダは胸を張り、カップを口元に運ぶと馥郁たる香りに心が落ち着きを取り戻す。
考えてみれば悪いことばかりではない。
政略結婚で夫婦になる貴族たちは、恋愛結婚で結ばれる庶民に比べて、不貞を行う人間が多い。はなから愛情や信頼がないから当然といえなくもなかった。それでも大抵の者は伴侶と良い関係を築こうと努力する。が、ヨランダにはその必要がなさそうだ。
仕事ならまだしも幼馴染みを優先する、そんな人間だと婚約中に知ることができたのは僥倖かもしれない。結婚後に浮気をされても冷静でいられそうだ。
そう結論づけると紅茶の渋みが和らぐ。
ヘンリクに遠慮せず、焼き菓子をオーダーするべきだったとヨランダは心底後悔したので土産に幾つか買い求めた。
すぐに家に帰れば母と次兄に理由を聞かれるので、今回も適当に時間をつぶす。予約していたのは最初のカフェだけで、デートコースは元から白紙だった。ヘンリクが『君に任せる』と非協力的で、ヨランダもそんな彼の投げやりな態度に反骨心めいたものは湧かず予定は立てなかった。
お気に入りの雑貨店をはしごして帰路に就く。通りがかったケストナー邸にメルダース家の馬車が見える。ヘンリクの乗ってきた馬車だろう。隣に停まる馬車は彼のよりも一回り大きく、扉に施される金の紋章にヨランダは眉をひそめた。
(……レーヴィット公爵家の家紋だわ)
レーヴィット公爵家は建国当初からある名門で、王女降嫁の歴史を持ち王家の信頼も厚い。
ケストナー侯爵家も代々要職を担っているから付き合いがあっても不思議はないのだが、こうして目の当たりにすればヘンリクは少し異質に映る。メルダース家は官職には就いていない。裕福とはいえ伯爵位なので一段も二段も劣るのだ。
(ご近所で幼馴染みとはいえ肩身が狭くないのかしら)
小さい頃なら爵位などにとらわれずに仲良くしても強くは咎められなかっただろう。しかしヘンリクは21歳。レナーテも17歳で身分差がわからない訳でもないはずだ。適齢期でもある2人が幼い頃そのままに『熱が出たから傍にいる』のは度が過ぎているとヨランダは思う。
(ケストナー家のパーティーでもレナーテ様は少し迷惑そうだったような……)
やたらと世話を焼きたがるヘンリクをレナーテはあしらっていたが、そのしつこさに辟易しているのが見てとれた。そんな様子に違和感を覚えない訳ではなかったが、長兄がそれに近くヨランダに過保護に接するのでそんなものかと深く考えなかった。両親も多分そうなのかもしれない。
いざ婚約してみればヘンリクの言動への違和感は増す一方なのだが、ヨランダにはわからないことがあった。
レナーテの本心だ。彼女が現状をどう思っているのか。
パーティーではヘンリクを拒む素振りを見せていたが、心の底からかは判断できない。
それとも――。婚約をしたヘンリクが惜しくなって、ヨランダから引き離そうとしているとか。
(それならそれで構わないのだけれど)
しかしもう見過ごせない段階だ。このままではヘンリクはともかくとして、ヨランダは社交界で『病弱な幼馴染みを優先する婚約者を持つ不憫な令嬢』の烙印を押されてしまう。
だからといって子爵位であるホルツ家からメルダース伯爵家に、婚約解消を言い出せるはずもない。
軽やかに走る馬車の中で、ヨランダは重く憂鬱な心を溜息に込めて吐き出した。
◇◇◇
誕生日から5日後。ヨランダ宛てに手紙が届いた。
侍女が持つ銀のトレイを見て、てっきりヘンリクからだと思い、机の抽斗に仕舞いこんだ彼からのプレゼントを開封していないことを思い出す。
受け取った封筒の差出人を認めた瞬間、指先に力が籠もった。
気品さえ漂う文字は、レナーテ・ケストナーと綴られている。ヨランダは青灰色の目を瞠り、訝しみながらも鼓動が早まった。無礼を承知でいえば『ついに来たか』という心境だ。
どんな嫌味や中傷が並んでいるのか。それとも高位貴族令嬢らしく皮肉なのか。
ヨランダは、レナーテのか弱く楚々とした横顔を思い出す。
外見が美しいから内面も同じとは限らず、人間が抱く印象ほど頼りにならないものはない。逸る気持ちを抑えて便箋を開く。ところどころ文字が乱れて見えるのは、書いている最中に感情が高ぶったからだろうか。
読み進めるほどにヨランダの眉間の皺が深くなり、近づけたって内容の真偽などわからないのに手紙に齧りつく体勢になっていた。
「……嘘、でしょう」
ヨランダの口から乾いた声が零れる。
レナーテはまず突然の手紙の非礼を詫び、次にヨランダの誕生日について触れる。
あの日、彼女はかねてよりヘンリクの言からヨランダの誕生日を把握していたが、前日の夜から少し頭痛がしたという。当日の朝はさらに微熱と悪寒を覚えたレナーテは、それでも王宮の図書棟へ行った。そこへ向かった理由は『ヨランダ様の誕生日のデートを邪魔するわけにはいかない』『王宮の施設は、官職に就いていない貴族とその家族は事前の許可がないと入れない』からだ。
レナーテはヨランダのためにヘンリクを避けたくて行動したのだが、家にいないことを知らない彼は来てしまった。そのことを謝罪する彼女の文字は震えていて、ヨランダの胸は痛むと同時に疑惑が芽生えた。
(レナーテ様がヘンリク様を呼びつけていたのではない……?)
思い起こせば、いつだって彼は『レナーテが体調を崩した』と言っていなかったか。一度も『レナーテが呼んでいる』とは言わなかったような。自信はない。もしかしたらこの手紙を読んで記憶が書き換えられたのかもしれない。
一度きちんとレナーテと話し合うべきではないだろうか。ここでヨランダはヘンリクのことなど、これっぽっちも浮かばなかった。彼には結婚前だというのに愛想が尽きているし、色々尋ねたって下手をすれば言いくるめられる可能性もある。
ヨランダは腕を組み、机の上に置いた便箋に目を落とした。
◇◇◇
レナーテの手紙が届いて3日が経つのに、ヨランダは未だに返事が書けていない。
理由としては彼女の手紙が終始謝罪だったことで、返信を窺うものではなかったから。
潔いといえばそれまでなのだが、ヨランダは対応に頭を抱えた。レナーテと会って話がしたいのに、連絡をしていいのか迷っているのだ。互いに顔見知り程度の浅い間柄で、下位貴族のヨランダが高位貴族のレナーテに手紙を送ってもいいものか。
今朝も便箋を前に悩んでいると、執事が来客を告げにきた。
「メルダース伯爵子息様がお見えです」
「ヘンリク様が?」
約束のない訪問にヨランダが驚くよりも顔をしかめると、優秀な執事は正しく意を汲み取る。
「お断りいたしますか?」
頷きたかったがすぐに得策ではないと思い直した。今は下手にヘンリクを避けず、証拠を集めるほうがいい。そんな考えが浮かんでヨランダは机に目を落とす。真っ白な便箋ではなく、抽斗に入ったレナーテの手紙を見透かすように。
ヘンリクの言動とレナーテの主張、一体どちらが正しいのか。
(――わたしって嫌な女ね)
顎に手をやり溜息をつく。自分の用心深さに辟易する思考に囚われかけたヨランダの耳に、咳払いが聞こえて執事の存在を思い出した。
「応接間にお通しして。それと侍女を呼んで」
執事を見送り、机の上を片付ける。抽斗には変わらずリボンがかかったままのプレゼントがあったが、手に取ることなく閉めた。
どうせヘンリクはどんなアクセサリーを贈ったか覚えていないだろう。
婚約後の初めてのデートで真珠のネックレスをプレゼントされたので、次のデートで着けていったがなんの反応もなかった。その時は単に政略だからヨランダにさほど興味がないと結論づけたが、今は違う疑念が胸に巣くっている。
侍女に髪を整え直してもらい応接間に向かうと、ヨランダの姿を認めたヘンリクが立ち上がった。もちろんそれは愛しい婚約者に会えて嬉しいという態度の表れではない。
現に彼の顔は強張っているように見えるし、黒い瞳はいつもより暗く感じた。
「ご機嫌よう。ヘンリク様」
「ヨランダ、この前はすまなかった」
ヘンリクは頭を下げるでもなくそう言うと、ヨランダが向かいに座る前に、腰を下ろす。
(言葉と態度が真逆ね)
おそらく過去にもそういったことはあったのかもしれない。そう気づくのは今ヨランダが神経を張り巡らせているからだ。
「いいえ。レナーテ様の体調はいかがですか?」
「今は調子が良いようだな。しかし油断は禁物だ」
(あなたが油断しようがしまいが、彼女の体調には関係ないでしょうに)
正論は心の中に留めて、上辺だけの笑みを返す。
「ところで、レナーテが君に手紙を送ったと言っていたが」
約束もないのに会いに来た理由はそれなのか、とヨランダは納得した。
「はい。わたくしとのデートを途中で中止してヘンリク様が見舞いに来られたことの謝罪を頂きました」
なるべく棘のない言い方を心掛けたが、やっていることは約束の反故なのでどうしても非難めいた言葉になってしまう。
「――それは悪かったと先程も謝っただろう」
案の定、ヘンリクは顔を歪ませてぶっきらぼうに言い放った。
「ええ。お二人から謝罪を受けましたし、気にしておりません」
ヨランダは笑みを深めるが、彼の纏う不機嫌な空気が緩むことはない。
(……なにが気に食わないのかしら。もしかして嫌味っぽかった?)
どういう言い回しが良かったのか正解がわからず、間を持たせるためにテーブルの上のカップに手を伸ばした。
「……他に」
「え?」
「他にはどんなことが書いてあった?」
持ち上げかけたカップをソーサーに戻して、ヘンリクを観察する。表情は怖いくらい真剣で瞳は相変わらず闇を帯びている。膝の上で組まれた両手の指先が白い。ここまでヘンリクがレナーテの手紙の内容を気にすることに、ヨランダは思考を巡らした。
「他はなにも。わたくしにまで気を遣ってくださるなんて、レナーテ様は本当にお優しい方ですのね」
知りたがっている情報を隠してレナーテを賞賛すれば、たちまちヘンリクは笑顔になる。
「ああ。レナーテは素晴らしい女性だぞ。君も見習うべきだ」
ヨランダは彼の言葉に耳を貸すことなく、扉付近で控えている侍女にそっと目配せした。侍女は目を見開き、信じられないといいたげな表情を浮かべている。
ヨランダ自身はレナーテと比べられてもどこも痛まないし、なんとも思わない。けれど周りが同じ感想を持つかは別だ。
『婚約者が他の女性を手放しで褒める』というのは同じ女性として多少なりとも嫌悪や屈辱を抱くはずだ。
(……それにしても)
ヘンリクがレナーテの手紙の内容を知りたがる理由はわからないが、彼女の行動を警戒している。ならばヨランダがレナーテと連絡を取って面会に漕ぎつけても、ヘンリクに邪魔されるのではないだろうか。
目の前でレナーテとの思い出を滔々と語るヘンリクに、適当に相槌を打ちながらヨランダは手詰まり感を覚えていた。
◇◇◇
新調したドレスは光沢が美しい青色で、生地を見た時の長兄は『これを着たヨランダはきっと夜の精のように美しいだろう』と歯の浮く台詞をのたまった。
「本当に夜の精みたいだよ。ヨランダ」
夜会の身支度を終えてエントランスへ下りてきたヨランダに、次兄は微笑む。
「お兄様ったら。お世辞は結構です」
過保護な長兄に比べて、次兄はそこまで彼女を甘やかさない。おそらくではあるが、次兄とは年子なのでヨランダを早々に母を奪った存在と位置づけているのではないかと、勝手に分析している。
「お世辞なんかじゃないさ。今夜のヨランダを見て、少しでもヘンリク殿の目が覚めればいいんだけどな」
ヨランダは頬が強張るのを誤魔化すために唇の端を上げた。
約束もなくヘンリクが来たのは4日前。あの日、彼が帰った後、侍女は応接間での一部始終を速やかに執事に報告した。そして執事が両親に進言したことで、父はメルダース伯爵に意見を申し入れた。
父と母にしてみれば、幼馴染み思いのはずの青年が婚約者である娘ではなく、幼馴染みの信奉者だったのだから寝耳に水だっただろう。とはいえ、ヘンリクとレナーテは幼い頃からの付き合いで、ヨランダとはたったの半年ほど。この先ヘンリクが心を入れ替えてヨランダを大切にするのならばと、両親は今回だけ彼を許した。
メルダース伯爵と夫人からも『息子に言い聞かせる』との言質が取れたので、表面上は丸く収まったように見える。
ヘンリクからも手紙が届いたが、謝罪は上滑りしてヨランダの心に残らなかった。
そんな一悶着があった後の初めての対面で、ある伯爵家の夜会に同伴するのだ。
(嫌な予感しかしない)
あの日のヘンリクの異様さを思い出すたび、ヨランダの頭の中に警鐘が響く。
いっそ体調不良をよそおってキャンセルすることも考えたが、弱みは見せたくなかった。気合いにぐっと扇を握ると、次兄が覗きこんでくる。
「緊張しているのか?」
「……いいえ」
これが長兄なら素直に甘えることができたのに、次兄に対してはどうしても意地を張ってしまう。頼ったって鼻で笑われてしまうから。
「仕方ない。伯爵家までの馬車に同乗するよ」
次兄の言葉にヨランダは反射的に目を丸くする。じょじょに意味を理解して瞬いた。
次兄は夜会会場へ向かう馬車に一緒に乗ってくれると言っているのだ。
「どうして……?」
「あんなことがあった後で2人きりになるのは気まずいんだろ。それぐらいわかるさ」
ヨランダとしては気まずい以上のものを感じているが、それを訴えても心配をかけるだけなので小さく頷くにとどめる。
「それにお前がメルダース家に嫁入りすると色々好都合なんだ。主に金銭的な意味で」
女心をくすぐるような憂いを帯びた笑みを、煩悩にまみれた台詞がぶち壊している。そんな次兄をヨランダは冷たく見上げた。
メルダース家の領地は広大で収入も多く安定しているが、ホルツ家だって特に金銭的に困ってはいない。子爵家の次男である彼は家も継げず、自身で生活を立てねばならない。その為に騎士団に籍を置いているが、抜きん出た実力があるとはいえず。中途半端にくすぶった状態なので手駒になりそうなものは多いほうが良いと考えているのだ。その一つが妹の裕福な嫁ぎ先なのだろう。
ヨランダは溜息をつきながらも、内心では次兄の申し出がありがたかったので、素直に助け舟に乗ることにした。
到着したヘンリクが顔をしかめたのをヨランダは見過ごさなかった。彼は一瞬で平常心を取り戻したらしく腰を折る。
「よければ伯爵邸まで私も一緒に乗せていってくれないだろうか?」
次兄の提案に、顔を上げたヘンリクは申し訳なさそうに口を開く。
「あいにく本日は小型の馬車でして――」
ヨランダはつくづく次兄が同行してくれることに感謝した。大型の馬車なら斜向かいに座れば顔を付き合わせずにすんだが、小型では隣同士になり距離が近すぎる。
両家の両親たちが手を打ち、ヘンリク自身からも一応謝罪を受けたが本当に心を入れ替えてるかはわからない。ヨランダにとって今はまだ経過観察期間で、早々距離を縮めたい訳ではないのだ。
「ならばホルツ家の馬車で参りましょう」
ヘンリクはなぜかますます表情を硬くさせたが、次兄は気にすることなく執事に指示を出す。
ヨランダは、不機嫌そうなヘンリクの横顔に、少し心が重くなった。彼は一度もヨランダとは目を合わそうとせずにいる。後ろめたいのだと理解するが、ヘンリクの態度に胸騒ぎと言葉にできない不安を覚えながら馬車に乗りこんだ。
車内でもヘンリクは視線を落として何かを考えている様子を見せる。次兄が話しかければ返事をするし雑談めいたこともするのだが、ヨランダには一切気を向けない。まるで存在しないかのように無視されるのだ。
(……なるほど)
レナーテへの執心が両親に露呈したのはヘンリク自身の言動が原因なのに、ヨランダが告げ口したと思っていて腹に据えかねているのか。短絡的で愚かな思考にヨランダは呆れるが、思い返せばヘンリクは最初から稚拙だった。
(婚約者の誕生日に、寝こむ幼馴染みを優先するくらいだもの)
兄二人に囲まれて育ったヨランダは、一般的な貴族令嬢に比べれば、おそらく勝ち気な性格だ。それに今は隣に次兄が座っている安心感と心の余裕から、つい前に座るヘンリクに対して胡乱な目を向けてしまう。
妹の不穏な態度に気づいたのか、次兄に肘で小突かれて我に返ったヨランダは慌てて微笑を取り繕うのだった。
馬車の乗り降りは次兄の手を借りたものの、夜会会場へはさすがにヘンリクのエスコートを受けなければならない。ヨランダは彼の腕に手をかけるが、心は微塵も寄り添っていなかった。ヘンリクも同じ心境らしく大股で歩くものだから、半ば引きずられるような事態に陥る。
次兄の呼び止める声にもヘンリクは振り向かず、混み合うエントランスを体勢が前のめりになりながら通り抜ける。広間に足を踏み入れれば、幾つかの視線を感じてヨランダは怯むがすぐに気持ちを立て直した。
(俯けばますます好き勝手に噂される)
社交界は恐ろしい場所だ。良い噂は尾ひれも付かずあっという間に忘れ去られるのに、醜聞は歪曲されて燻り続ける。間違いを訂正したって聞き入られることはない。
だが態度は毅然としたかった。
ヨランダは目元に力を入れ、頬を緩めて微笑む。顎を上げれば注目が自分を外れていることに気づいた。人々が見ているのはヘンリクで、隣を見たヨランダは思わず後退る。自然と手は彼の腕から外れたが、気づかれることはなかった。
ヘンリクは眉を吊り上げ、汚れたものでも見るように目を血走らせている。
「レナーテ」
怒りに震える彼の口が幼馴染みの名前を刻むのに驚いて見渡せば、広間の中心で踊り終えたばかりの男女に目が留まった。
美しいプラチナブロンドはシャンデリアの光でより金色に輝き、水色の瞳を歓喜に潤ませ、上気した頬は笑みを描いている。朝に咲いた花のようにしっとりとした光沢のある薄紅色のドレスを纏ったレナーテが、目の前の男性と見つめ合う。
(本当にレナーテ様だわ……)
彼女の手を取り微笑みかける、背が高く貴公子然とした男性を――ヨランダはエルンスト・レーヴィットだと直感した。
小規模とはいえ社交界デビューを果たしたレナーテが、夜会に出席するのはなんら不思議ではない。最初にケストナー侯爵邸で見かけた彼女は、そこまで健康を損なっているとは感じなかったはずだ。
だがヘンリクに『病弱だ』と擦りこまれ、数度『レナーテが寝こんだ』と約束を破られたヨランダは、彼女を重い病人ではないかと解釈した。それは間違いだったのではないかと思いが揺らぐ。
やはり、レナーテが『調子が悪い』と嘘をついてヘンリクを呼びつけていたわけではない、そんな気がした。
追いついて並び立つ次兄を見上げた視界の端で、ヘンリクが走り出したのがわかった。
「なにがあったんだ?」
ヨランダは一度だけ首を振り、広間の中央を目で促して次兄とともにヘンリクの背中を見つめる。
「レナーテ! なぜここにいるんだ!」
ヘンリクの怒声が響き渡り、その場にいた全員の視線が広間の中心に集まる。楽団の音楽が止み、静まりかえる中、ヘンリクの荒い息遣いが離れて立つヨランダの耳にまで届きそうだった。
「ヘンリク様……」
驚いたレナーテが後退るより先にエルンストが間に立ち、その背に庇う。
「また、君か」
落ち着き払った声に刺激されたのか、ヘンリクは敵意を隠すことなく声高に叫んだ。
「レーヴィット卿には関係ない!」
「関係はある。今夜レナーテ嬢をエスコートしているのは私だ」
「……なっ!?」
ヘンリクは目を瞠り、ぎりぎりと奥歯を噛みしめて睨み返すも勝ち目はなかった。ヘンリクはレナーテのただの幼馴染みだし、ヨランダという婚約者までいる。エルンストが正式にケストナー侯爵の許しをもらい、レナーテのパートナーとして夜会に来ているなら、責められる謂われはない。
(――それよりも)
ヨランダは扇で顔の下半分を隠しながら、溜息をつく。
ヘンリクには、そろそろ周りの状況に気づいてほしい。あちこちで好き勝手に憶測を囀りながら向けてくる貴族たちの好奇の目が痛かった。
「レナーテ、帰ろう。こんな所は体に悪い」
ヘンリクはエルンストとの対決は避けて、レナーテを説得する方向へ切り替えたようだ。その判断の善し悪しはわからないが、言葉選びをもう少し考えるべきだった。
何事かと駆けつけた主催者の伯爵夫妻の表情が強張っている。騒ぎを起こされた上に『こんな所』呼ばわりされれば、いい気はしないだろう。
「こっちへ来るんだ、レナーテ」
「いや」
返された拒絶に、口角を上げて猫なで声で手を差し伸べかけたヘンリクの腕が空で止まる。
レナーテがエルンストの背後から進み出る。彼女の顔は青褪め唇を震わせて怯えているのが見てとれたが、エルンストは止めなかった。レナーテの意思を尊重して前を譲り、影のように寄り添う。
「いつまで……一体いつまで、わたくしを病人扱いするの? いい加減にしてください」
大きな声ではなかったが、その力強さに貴族たちは囀りを止めた。
ヨランダも食い入るようにレナーテを見る。
(……もっと頼りなくて守られるだけの方かと思っていた)
しかしよく考えれば、ヘンリクを避けるため熱があるのに王宮へ逃げこむくらいだから、行動力はあるのかもしれない。
「ヨランダ、帰ろう」
次兄の囁きに、ヨランダは意識を引き戻されて顔を上げる。
「え? 帰るのですか?」
「証拠は充分に揃っただろ、帰って家族会議だな。それに長居をしていたら巻き添えを食う」
次兄の言葉はすべて真っ当だった。
目の前の修羅場はヘンリクとの婚約を解消するための理由になるし、次兄は力強い証人だ。夜会でこんな騒ぎを起こしたヘンリクは社交界で醜聞の的になり、早々に切り離してホルツ家の被害を最小限にするべきだ。
「……そうですね」
怖いもの見たさで最後まで見届けたかった気もしつつ、ヨランダは軽く肩を竦めると次兄の後に続いて人の輪から外れる。
ふと振り返ってヘンリクを見たが、何も湧いてこない。条件だけなら身に余る結婚相手で、容姿だって悪くなかったのに最初から魅力を感じなかった。
別に彼の隠された本性を察知したわけではなく、単にヨランダは恋に疎く現実的なだけなのだろう。
◇◇◇
窓を開ければ穏やかな晩秋の風が、封をしたばかりの封筒の表面をなでる。
一昨日の夜は邸に帰ると、次兄主導の家族会議が行われて、全員一致でヨランダとヘンリクの婚約解消案が採択された。
もし難航するならデートの約束の反故や、誕生日にプレゼントだけ渡されて一方的に帰られたことを打ち明けるつもりでいたがその必要はなかった。両親から『私たちの見る目がなく、つらい思いをさせてすまない』とまで言われたので、ヨランダがもうこのことを持ち出すことはない。
昨朝には、次兄から連絡を受けた長兄夫婦が駆けつけて騒ぎになった。
騎士団に所属する次兄よりも無駄に体格の良い、王宮で文官を務める長兄がメルダース家に抗議に行くと言い張ったが話が拗れそうで全員で止めた。
昼前に来たメルダース伯爵夫妻の謝罪に同席して、長兄の怒りはやや治まったようだが納得はせず。『ヨランダとあいつの婚約解消の書類が提出されたら、すぐに処理してやる!』と息巻き、呆れる兄嫁に馬車へ押しこまれて帰っていった。確かに兄は文官だがその手の部署の所属ではなく、手を回せはしないだろうに。
ヘンリクは――謹慎させているが近いうちに一家で領地へ帰る、とメルダース伯爵夫妻は苦渋の色を浮かべていた。
ヨランダたちが帰った後の夜会がどうなったかはわからないが、あの時点であそこまで醜態を晒したヘンリクが社交界復帰にかかる時間は想像もつかなかった。
ヨランダと婚約解消して、新たな縁談相手が見つかるかも不透明だ。
(今度こそ本当にレナーテ様離れして心を入れ替えれば……)
ヨランダを気に入らなくてレナーテに執着していたのなら、もしかしたら機会はあるかもしれない。
そう思いながらも、夜会の時の言動とヘンリクの精彩を欠いた陰鬱な瞳が頭の中に過ぎれば、一瞬背筋が冷えた。ヨランダは落ち着きを取り戻すように大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
改めて封筒に触れると、ノック音と同時に扉が開いて次兄が顔を覗かせる。
「ヨランダ、お茶にしないか」
ノックをする意味があるのかと問いたかったが言葉にはせずに立ち上がった。いつもならヨランダを呼びに来るのは侍女で、次兄なりに気遣ってくれているとわかるから。
「手紙を書いていたのか?」
「ええ」
胸に抱く封筒を見て次兄は目を細めた。一連の騒動にそこまで落ちこむ様子をみせないヨランダに安心しているのかもしれない。
「そういえばお兄様。わたくしとヘンリク様が婚約解消したら困るのではなかったの?」
二人で廊下を歩きながら、慌ただしさの中ですっかり聞きそびれていた事を問えば、次兄は僅かに眉を上げた。ヨランダを観察するようにじっと見てくる。
「……まさかヘンリクと結婚したかったのか?」
周囲を気にするような小声で聞かれて、思わず眉間に皺が寄った。
「そんな訳ありません!」
腰に手を当ててきっぱりと否定すれば、次兄はほっとしたような溜息をつく。
「可愛い妹を不幸にさせるような相手に嫁がせる訳がないだろう。もっと兄を信用してくれ」
ぽん、と頭に手を置かれてヨランダは頬を緩める。
「信用してます」
もし夜会に次兄が同行してくれなかったら、恋情はなかったといえヘンリクのあの暴走を見て、冷静でいられたかどうか。次兄のお陰でヨランダの心の傷も最小限で済んだのだ。
「ところでその手紙は誰に出すんだ?」
「レナーテ様に」
指先で封筒の縁をなぞり躊躇いながらも口を開く。
「ヘンリクが執着していた幼馴染みの令嬢か。面識があるんだったな」
「……ええ、でも……親しくはないから、迷惑じゃないか心配で」
ようやくヨランダはレナーテへの返事を書くことができた。謝罪の手紙を受け取った時から連絡を取りたいと思っていたが、踏み切れないうちにヘンリクが退場して問題は終息してしまった。もう答え合わせなど必要ないとわかっているのに、レナーテと会って話してみたかった。
(きっと、レナーテ様がヘンリク様に立ち向かったから)
ヨランダはヘンリクに対して政略で恋心を抱いていないからと無関心だった。婚約解消のために彼の過失を集めるのにしたって、積極的に動いた訳ではない。ヘンリクが盛大に自爆してくれただけだ。
しかし、レナーテは自分で考え、動き、真っ向から彼を拒絶した。その姿が胸に焼きついた。
(友達になりたい、なんて不快に思われるかもしれないけれど……)
十歳そこらの子どものようである。身分差を考慮して、できるだけ遠回しに書いたものの嫌がられたらどうしよう、とヨランダは不安に俯き加減になる。
「レナーテ嬢って確かケストナー侯爵家の一人娘だったな」
次兄が顎に手をやり甘く微笑む。この蕩けるような表情は、ロクなことを考えていない証拠だ。
「レナーテ様はレーヴィット卿と懇意にされているようです」
まさか侯爵令嬢を狙うほど身の程知らずとは思わないが、ヨランダは釘を刺した。
「わかっているさ。でも、妹の友達が侯爵令嬢って悪くない」
次兄の相変わらずな軽口に、呆れながらも胸に手紙を抱く。
「友達になれてもお兄様には紹介しませんから」
ヨランダはドレスの裾を翻して、自分のための一歩を踏み出す。
――数日後。レナーテから届いた茶会の招待状にヨランダは心躍らせ、次兄はほくそ笑むのだった。
読んでいただき、ありがとうございます。




