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泥を啜る三月

廃寺での完敗から三日。闇咲家の本拠地「隠れ影」の最深部で、零は床に跪いていた。

右腕は白い包帯で吊られ、全身は打撲の痕で変色している。だが、肉体の傷よりも深い絶望が、彼を苛んでいた。音霊おとだまに封じられた「無色の妖力」。どれだけ腹の底に力を込めても、かつて空間を削り取ったあの熱量は、指先一つにさえ灯らない。

「……報告は以上か。クロウ、下がれ」

玉座に座る闇咲幽玄ゆうげんの声には、落胆さえなかった。ただ、使い物にならなくなった道具を眺めるような、乾いた響きだけがある。

「幽玄様……零を、このままにしておくのですか」

クロウが、珍しく食い下がった。彼もまた、音霊にプライドを粉砕され、包帯まみれの姿だった。

「力を封じられた駒に、食わせる飯はない。それが闇咲の掟だ。……零、貴様は今日から『門下生』ではない。ただの『雑用(下男)』として、最下層の煮炊き場で働け」

「……っ!」

零は唇を噛み切り、血の味を飲み込んだ。抗う言葉も、それを証明する力も、今の彼にはない。

闇咲家の最下層――そこは、才能がなく「影」を操れなかった落ちこぼれたちが、暗殺者たちの身の回りの世話をする泥沼のような場所だった。

かつて零を「民間人の成り上がり」と蔑んでいた下っ端の門下生たちが、力を失った彼を囲む。

「おい、影を掴んだ天才様(笑)が、俺たちの仲間入りかよ」

「無色の妖力? 冗談だろ。ただの空っぽじゃないか」

足蹴にされ、床にぶちまけられた残飯を片付ける。かつては影転生で一瞬に移動できた距離を、今は折れた足を引きずって歩かなければならない。

夜、冷たい石畳の上で、零は自分の掌を見つめた。

(……声が出ない。力が出ない。彩、俺は……お前を殺した奴に、指一本触れることもできずに終わるのか……?)

音霊が残した「沈黙」の呪いは、妖力だけでなく、零の心さえも静かに殺しにかかっていた。

一週間が過ぎた頃、深夜の炊事場に、一人で薪を割る零の前に、クロウが現れた。

「……何しに来た。笑いに来たなら、他を当たれ。今の俺には、殴り返す力もない」

零が掠れた声で(音霊の呪いで声帯は震えるようになったが、妖力は戻らない)告げると、クロウは無言で一包みの布を投げた。中には、闇咲家でも高価な「治癒を早める霊草」が入っていた。

「……勘違いするな。俺は、お前に借りがある。あの時、お前が土蜘蛛の注意を引かなければ、俺は死んでいた」

クロウは零の隣に座り、月明かりのない地下の天井を見上げた。

「音霊の力は、次元が違った。……五大深淵のエリートだ、血筋だと言っていた自分が、あいつの前ではただの赤子だった。……情けない話だ」

「……俺もだ」

零は薪を割る手を止め、震える拳を見つめた。

「力があれば勝てると思っていた。だが、あいつは『ことわり』そのものを操っていた。……俺の復讐なんて、あいつらにとってはただの雑音なんだ」

クロウは立ち上がり、零を真っ直ぐに見据えた。

「音霊は言ったな。『三月、無力な体で反芻しろ』と。……なら、三月待ってやろう。零、貴様が再びあの『虚無』をその手に灯すまで、俺は闇咲の筆頭としてお前を繋ぎ止めておく」

「……クロウ」

「死ぬなよ。お前に死なれたら、あの屈辱を晴らす証人がいなくなる」

クロウが立ち去った後、零は再び斧を振り下ろした。

妖力はない。だが、全身の筋肉を使い、呼吸を整え、一撃一撃に殺意を込める。

呪いが解けるまで、あと八十日あまり。

零の瞳の奥で、無色の炎は消えていなかった。むしろ、それは酸素を奪われた炭火のように、より深く、より熱く、芯へと潜り込んでいた。

一方、その頃。

日本の各地にある「五つの楔」が、不自然な震動を始めていた。

五大深淵の長たちが招集され、かつてない「緊急会議」が開かれようとしていた。

音霊の言った『演奏会』は、零のいないところで、着実に開演の時を迎えていた。


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