タイトル未定2026/03/15 23:17
寺の境内は、一瞬にして静寂に包まれた。いや、それは静寂ではない。「音」そのものが音霊の支配下に置かれ、空気の振動が止まったのだ。
地面に叩きつけられたクロウは、全身の毛穴から血を噴き出し、指一本動かせずにいた。
「……バカな。闇咲の『影棺』を……音だけで、砕いたというのか……」
クロウの掠れた声に、宙に浮く男、音霊が視線を落とす。その瞳には慈悲も殺意もなく、ただ「無機質な観察」だけがあった。
「五大深淵……。かつては王の耳を削ぎ落とした豪傑もいたと聞くが。末裔はこの程度の泥遊びか。嘆かわしいな」
「黙れ……ッ!」
零が咆哮した。右腕に全妖力を集束させ、肉体が軋む音を無視して突進する。
「空を……削れ!! 『空穿』!!」
零の拳が、音霊の喉元を捉えたかに見えた。空間が歪み、円形の虚無が広がる。しかし、音霊は避けることすらしない。ただ、左手の手のひらを軽くかざした。
「――『共鳴』」
ギィィィィィィィィィィィィン!!
「あ、が……あああああああああッ!!」
零の絶叫が夜空に弾けた。削り取ろうとした虚無が、音霊の放つ高周波と干渉し、逆に零の右腕を内側から破壊し始めたのだ。骨が砕け、肉が裂ける鈍い音が、静寂の中で不気味に響く。
零はボロ雑巾のように地面を転がった。泥を噛み、折れた腕を抱えて呻く。
「……彩……まだ……俺は……」
「まだ動くか。執念だけは、泥臭くて良い」
音霊がゆっくりと地上に降り立つ。彼が歩くたび、周囲の空間が「キィ、キィ」と悲鳴を上げる。
「おい、民間人……逃げろ……」
クロウが血を吐きながら手を伸ばす。「そいつは……俺たちの……次元じゃない……」
「逃げる? どこへ。この国すべてが、じきに我が主(古代王)の『音域』となる。逃げ場など、この現世のどこにもない」
音霊は零の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「神格を持つ妹を食われ、自らは影に寄生する亡霊。……滑稽だな。お前がどれだけ影を磨こうと、光のない闇の中で踊っているに過ぎない。王の御前では、お前の復讐など羽虫の羽音よりも軽い」
「……殺せよ……」
零が、血に染まった歯を剥き出しにして笑った。
「殺せ……。今殺さなきゃ、俺は……何度でも、お前の喉笛を食い破りにいくぞ……!」
音霊は、零の瞳の奥にある「無色の炎」をじっと見つめた。そして、ふっと冷たい笑みを浮かべる。
「殺す? 否。それでは王が愉しまれぬ。お前には、もっと深い絶望を味わってもらわねばな」
音霊が零の胸元に手を当てる。
「――『沈黙』」
「……っ!?」
零の口から音が消えた。叫ぼうとしても、喉が震えない。それどころか、自分の中にあった「妖力の脈動」が、一滴残らず消え失せていく。
「お前の『無色』を封じた。今後三月、お前はただの、力なき人間に戻るがいい。……その無力な体で、妹の死を、自分の無能さを、反芻し続けるがいい」
音霊が手を離すと、零は力なく地面に崩れ落ちた。
「……あ、あ……」
声が出ない。力が湧かない。今まで自分を支えていた「復讐」という唯一の武器を、文字通り奪われたのだ。
「クロウと言ったか。……そこの泥屑を連れて帰るがいい。五大深淵の長たちに伝えろ。『演奏会は、もう始まっている』とな」
音霊はそう言い残すと、一筋の音の波となって夜空へ消えていった。
廃寺に残されたのは、壊滅的な破壊の跡と、守るべき民間人の少女の震える泣き声だけだった。
「ひっ……ううっ……」
少女が、自分を救ってくれたはずの零とクロウを見て、恐怖に顔を歪めている。零が助けようと手を伸ばすが、声も出ない今の彼には、少女を安心させる術さえない。
「……零……」
クロウが這い寄り、零の肩を掴む。その手も、小刻みに震えていた。
「俺たちは……負けたんだ……。何もかも……」
零は、泥にまみれた自分の掌を見つめた。
声も、力も、妹の仇を討つための牙も、すべてが塵となって消えた。
雨が降り始める。
土の匂いと血の匂い。そして、奪われた彩の「白い神格」を思い出し、零は声にならない絶叫を、暗い天に向かって上げ続けた。
これこそが、闇の世界の真実。
血筋も、技術も、執念も、神格を呑み込んだ「真の王」の前では、ただの灰に等しいのだ。




