虚無の産声、影を穿つ牙
闇咲家の修行開始から二週間。地下深くの練武場には、陽光を呪術的に遮断した「不自然な静寂」が満ちていた。
闇咲幽玄は、零の前に一振りの小瓶を差し出した。中には、数多の怪異の怨念を煮詰め、影の成分を極限まで濃縮した呪薬「影の滴」が黒く脈打っている。
「これを飲み干せ。そして、己という肉体の輪郭を溶かせ。物質の縛りを捨て、影の階層へと魂を潜らせるのだ。……失敗すれば、貴様の魂は二度と『形』を保てず、永遠に闇の一部としてこの床を這い回ることになる」
幽玄の言葉は、実質的な死刑宣告に等しい。民間人上がりの零にとって、その劇薬は毒以外の何物でもなかった。しかし、零の瞳に迷いはない。彼は無言で小瓶を掴み、一気に喉の奥へ流し込んだ。
「――ガッ、ア、アアア……ッ!!」
直後、内臓を焼火箸で掻き回されるような激痛が零を襲った。喉からせり上がる血の味が、どろりとした影の味に塗り替えられていく。視界が急速に歪み、自分の手足がドロドロと床の影に溶け出し、境界を失っていく感覚。骨が軋み、血が沸騰し、意識という「個」が冷たい虚無に飲み込まれていく。
(……彩……!)
意識が千切れかける寸前、零は必死に妹の名を脳裏に刻みつけた。それが、彼をこの世に繋ぎ止める唯一の錨だった。通常の門下生ならここで影の冷たさに精神を屈服させるが、零の「無色の妖力」が、暴走する闇を力ずくでねじ伏せた。溶けかけた肉体を「殺意」という強固な型に押し込み、無理やり再構築する。
数秒後、零の姿が元の場所から消え、数メートル離れた地点の影から、音もなく「湧き出す」ように現れた。
影を通じて空間を跳び越える、闇咲の高等移動術――『影転生』。民間人の少年が、死の縁でその禁忌を掴み取った瞬間だった。
激しく吐血し、膝をつく零。その肩を、冷ややかな嘲笑が叩いた。
「幽玄様も酔狂だな。影に潜った程度で調子に乗るなよ、野良犬。血の繋がらぬ不純物が、我ら闇咲の深淵を汚すな」
背後に立っていたのは、闇咲家の直系にして天才と謳われる少年・闇咲クロウと、その取り巻きたちだ。クロウは呼吸をするかのように軽々と影転生を披露し、影から影へと踊るように移動してみせる。
「我ら五大深淵の血は、数千年の歴史の中で研磨されてきた。昨日今日、運良く生き残っただけの民間人が、その高みに並べると思うな」
零は無言で立ち上がった。全身の細胞が悲鳴を上げているが、心は凪のように静かだった。
「……血筋が、そんなに大事か。俺にあるのは、あいつを殺すための殺意だけだ。邪魔をするなら、その誇り高い影ごと食い破ってやる」
その瞬間、零の妖力が激しく脈打った。闇咲の基本攻撃術「影纏」――影を刃の密度に固める術を試みようとした零の手の中で、異変が起きる。漆黒のはずの影が、零の「無色の妖力」に触れた瞬間、見る間に「透明な歪み」へと変質していったのだ。
「……影が消えた?」
クロウが不快げに眉をひそめる。だが、傍観していた幽玄だけは目を細めた。零の拳の周りには、光が屈折し、空間が陽炎のように揺らめく「不可視の力」が渦巻いていた。
零はその拳を、演武場の隅にある巨大な鋼鉄の標的に叩きつけた。
ガキン、という衝撃音はしない。代わりに響いたのは、「シュッ」という空気が吸い込まれるような、異様な断裂音。
次の瞬間、鋼鉄の塊の中央に、寸分の狂いもなく「完全な円形の穴」が貫通していた。
「影を固めたのではない。貴様の妖力は、接触した物質を、存在ごと『虚無』へ置換したのか……」
幽玄の声に驚愕が混じる。闇咲の術が「影を刃にする」ものなら、零の術は「存在そのものを削り取る」消滅攻撃。
スキル名:『空穿』
拳や指先に無色の妖力を集中し、触れた対象を次元ごと削り取る。防御不能の近接破壊術。
さらに零は、指先で影の礫を弾き飛ばし、着弾地点の空間を数センチ四方だけ消滅させる遠隔術『影弾』をも、その場で即興的に編み出してみせた
「……十分だ。それだけ牙が尖っていれば、怪異の肉も断てるだろう」
幽玄は、クロウと零の間に一通の書状を投げ捨てた。
「修行は終わりだ。明日、貴様ら二人で中央管轄の境界へ向かえ。……土蜘蛛の残滓が、民間に紛れ込んだという報告が入った」
零の瞳に、冷徹な殺意が宿る。
「……来たか。彩を食ったあいつらの、同族が」
闇咲から与えられた無銘の短刀を抜くと、透明な妖力が刃を包み、月光を反射することなく闇に溶けた。それは、民間人としての零の死と、神をも屠る暗殺者の誕生を告げる、静かなる産声だった。




