虐げられた聖女が魔力を引き揚げて隣国へ渡った結果、祖国が完全に詰んだ件について~冷徹皇帝陛下は私を甘やかすのに忙しいそうです~
「エルゼ。お前との婚約を白紙に戻す。――今日、この瞬間をもってな」
王城の夜会広間。耳をつんざくようなオーケストラの演奏を切り裂いて、婚約者である第一王子・カイルの声が響いた。
手にしたグラスの中で、琥珀色のシャンパンが小さく波打つ。
(……ああ、やっぱり)
驚きよりも先に、すとんと落ちてくるような納得感があった。
私の正面で勝ち誇ったように笑うカイル殿下。その隣には、私の義妹であるミナが、か弱い花のように彼に縋り付いている。
「殿下、そんな……お姉様が可哀想ですわ。聖女としての魔力を失って、誰よりも傷ついているのはお姉様なのに……っ」
わざとらしいほどに震える声。
ミナの胸元で怪しく光るブローチ――私の魔力を吸い取り続けている「魔道具」の存在を、カイル殿下は知らない。いえ、知らないふりをしているだけ。
「優しいな、ミナ。だが、魔力も底を突き、神殿の加護すら失った無能の『欠陥品』を王妃に据えるわけにはいかない。エルゼ、お前は今日限りで国外追放だ」
欠陥品。
それが、十年間この国の結界をたった一人で維持し続けてきた私に与えられたレッテルだった。
「……承知いたしました」
私は静かに膝をつき、最敬礼を送る。
騒ぎを聞きつけた貴族たちの嘲笑が、雨あられと降ってきた。
『あんなに傲慢だった聖女様が、見てよあの惨めな姿』
『魔力のない聖女なんて、ただの贅沢な飾りよね』
視線が痛い。でも、それ以上に滑稽だった。
私が今、指先一つで維持している「この会場の空調」も「結界」も「魔力による灯火」も、彼らはすべて当たり前の自然現象だと思い込んでいる。
「カイル殿下。一つだけ、確認させてください」
「なんだ。今さら命乞いか?」
「いいえ。私がこの国を出た後、何が起きても……一切、私に責任を求めないと誓っていただけますか?」
カイル殿下は、私の言葉を「負け惜しみ」と受け取ったらしい。
彼は大声で笑い、周囲の賛同を求めるように手を広げた。
「もちろんだ! むしろ、お前という『呪い』が消えて、この国はさらに繁栄するだろう。二度とその汚い顔を見せるな!」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと切れた。
「――わかりました。では、お返しいたします」
私は立ち上がり、ドレスの裾を翻した。
誰にも気づかれないほどの小さな溜息とともに、これまで国中に張り巡らせていた私の「魔力の糸」を、すべて手元に手繰り寄せる。
瞬間、広間のシャンデリアが不気味に瞬き、豪華な魔法銀の食器たちがその輝きを失った。
一瞬の静寂。けれど、無知な彼らは、それが「終わりの始まり」であることにまだ気づかない。
私は一瞥もくれず、夜会の会場を後にした。
行く宛てなんてない。家族も、居場所も、すべて失った。
けれど、不思議と心は軽かった。
(さようなら。私を使い潰そうとした、愛する祖国)
土砂降りの雨の中、城門を目指して歩く私の前に、一台の馬車が立ち塞がるようにして止まった。
漆黒の車体に刻まれているのは、この国の紋章ではない。
「氷の死神」と恐れられる隣国の皇帝、リュードヴィヒ陛下の紋章――双頭の銀狼だ。
馬車の扉が開き、長靴が水溜りを叩く音が聞こえる。
傘も差さず、雨の中に現れたその男は、私の前に跪くと、冷え切った私の手を震えるほど強く握りしめた。
「……やっと見つけた。私の、真の聖女」
その瞳に宿る熱は、カイル殿下が向けてきたどんな視線よりも、重く、深く、狂おしい執着に満ちていた。
降りしきる雨の音さえも、リュードヴィヒ陛下の重厚な存在感に塗り潰されていく。
泥に濡れるのも構わず私の前に跪いた皇帝は、私の凍えた手をその大きな掌で包み込んだ。その熱さに、思考が白く弾ける。
「……陛下、なぜ。私のような、追放された無能を」
震える声で問いかけると、彼は鋭く、けれどどこか悲痛なほどに目を細めた。
「無能だと? あのような愚か者の戯言を真に受けるな。……君がこの十年、どれほどの奇跡をあの国に与え続けてきたか。私は知っている。いや、私の国だけが、君の価値を正しく理解している」
彼はそのまま、私を抱き上げるようにして馬車の中へと導いた。
車内は外の寒さが嘘のように温かく、高価な香木の香りが漂っている。
彼は座席に腰を下ろすと、私を隣ではなく、あろうことか自分の膝の上に座らせた。
「っ、陛下!? お召し物が汚れてしまいます……!」
「構わん。それよりも君が冷え切っていることの方が、私には耐え難い」
彼は手際よく厚手の毛布を私に巻き付け、さらに自身の魔法で温めた指先で、私の濡れた頬をそっとなぞった。
カイル殿下からは、一度も向けられたことのない慈しみ。
他国では「氷の死神」と恐れられているはずの彼が、壊れ物を扱うような手つきで私を見つめている。
「エルゼ。君を、私の帝国へ迎えたい。聖女としてではない。私の命の恩人として、そして――」
彼は一度言葉を切り、私の耳元で低く、熱い吐息を漏らした。
「私の、生涯の伴侶として」
あまりに唐突な求婚に、心臓が跳ね上がる。
混乱する私の脳裏に、先ほど捨て去った祖国の景色が浮かんだ。
私が魔力を引き揚げた今、あの国の守護結界はすでに消失している。作物は枯れ、魔物は溢れ、カイル殿下やミナが誇っていた「偽りの聖女」の力では、明日を凌ぐことさえ叶わないだろう。
「……私を受け入れれば、あの国と敵対することになるかもしれません」
「敵対? 笑わせるな。宝の価値も分からず、泥に投げ捨てたような国など、もはや国ですらない。君が望むなら、明日にもあの大地を更地に変えてもいいのだぞ?」
嘘ではない。この人の瞳は本気だ。
私が拒絶すれば、彼はすべてを焼き尽くすだろう。そして私が望めば、すべてを与えてくれる。
カイル殿下に蔑まれ、ミナに虐げられてきた日々が、遠い過去のように霞んでいく。
「……お願いがあります、リュードヴィヒ陛下」
私は、彼の胸板にそっと手を添えた。
「私を、あなたの国へ連れていってください。もう二度と、あそこへは戻りたくありません」
リュードヴィヒ陛下は、満足げに喉を鳴らして笑うと、私の髪に深く唇を落とした。
「ああ、約束しよう。君を傷つけるすべてのものから、私が守り抜く。……まずはその体を温め、最高の食事と寝床を用意させよう。君の新しい生活は、今この瞬間から始まるのだ」
走り出した馬車の窓越しに、遠ざかる祖国の城が見えた。
灯りが一つ、また一つと消えていく。
それは、私を使い潰した者たちへの、静かな、けれど決定的な報復の始まりだった。
◆
目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは見たこともないほど豪華な天蓋だった。
肌に触れるシーツは最高級の絹で、体は驚くほど軽い。
昨夜、隣国の国境を越え、リュードヴィヒ陛下の別邸に運び込まれたのだ。
「……夢じゃ、なかったのね」
体を起こそうとすると、寝室の大きな扉が音もなく開いた。
現れたのは、侍女ではない。着崩した軍服姿のリュードヴィヒ陛下本人だった。
「気分はどうだ、エルゼ。……いや、動かなくていい。まだ顔色が悪い」
彼は大股でベッドサイドに歩み寄ると、当然のような顔をして私の背に枕を差し込み、私の額に自らの額をぴたりと重ねた。
あまりの至近距離に、心臓が口から飛び出しそうになる。
「熱はないな。だが、あれほどの魔力を無理に引き剥がしたのだ。反動が来るはずだ。今日は一日、私が側についている」
「陛下!? お仕事があるのでは……」
「君を看病すること以上に優先すべき仕事など、この世には存在しない」
真顔でとんでもないことを言いながら、彼はトレイに乗った温かいスープを自らスプーンですくい、私の唇に寄せた。
「氷の死神」と呼ばれ、戦場では数多の敵を灰にしたと言われる皇帝が、今は一人の女にスープを飲ませるために全神経を注いでいる。
「……美味しいです。こんなに温かいものを食べたのは、いつ以来かしら」
思わず零れた本音に、陛下の瞳に鋭い光が宿った。
「あの国での生活を、すべて私に話す必要はない。だが、これだけは覚えておけ。君が欲するものは、たとえ隣国の王の首であっても私が用意する。君はもう、誰かに何かを与える必要はない。ただ、私に甘やかされていればいいのだ」
その言葉と同時に、部屋の扉が慌ただしく叩かれた。
陛下の側近が、苦渋に満ちた表情で報告に現れる。
「陛下、失礼いたします! 先ほど、国境付近の監視役より緊急の連絡が入りました。……エルゼ様が去った直後、旧祖国の守護結界が完全に崩壊。周辺領地では魔物の大量発生が始まり、王都は大混乱に陥っているとのことです」
側近の言葉に、私はスープを飲む手を止めた。
思ったよりも早かった。私が糸を引いたことで、あの国の「貯蔵魔力」はゼロになったのだ。
「カイル殿下とミナ様は……?」
「はっ。新聖女としてお披露目されたミナ嬢が浄化を試みたようですが、魔力不足で失敗。カイル殿下は民衆から『嘘つきの聖女を担ぎ出したのか』と糾弾されているようです」
リュードヴィヒ陛下は、興味なさそうに鼻で笑った。
「無能を捨てたつもりが、自分たちが無能だと証明してしまったわけか。滑稽だな」
陛下は私の手からスプーンを奪い、指先に残った雫を親愛を込めて拭い去ると、獲物を見定めた獣のような低い声で囁いた。
「エルゼ、彼らが這いつくばって助けを求めてきても、決して許す必要はない。君を捨てた報いは、これから私がじっくりと教え込んでやる。……いいな?」
陛下の独占欲に満ちた視線。
それは恐ろしいはずなのに、今の私には、世界で一番甘く心地よい毒のように感じられた。
帝国での生活は、私の常識をことごとく塗り替えていった。
朝は陛下による直接の「体調確認」から始まり、日中は最高級のドレスを選ばされ、夜は彼に抱き寄せられながら一日の出来事を語る。
カイル殿下の元では一度も得られなかった「一人の女性」としての扱い。それが、少しずつ私の凍りついた心を溶かしていた。
そんなある日、帝国の執務室に、一通の親書が届いた。
送り主は、私を捨てたカイル殿下。
「……陛下、これは?」
執務机に座るリュードヴィヒ陛下の隣で、私は差し出された書面を覗き込んだ。
そこには、昨日の横柄さが嘘のような、卑屈な懇願が並んでいた。
『我が国の結界に一時的な不具合が生じた。聖女エルゼの祈りが必要だ。速やかに返還を求める』
返還。私はまるで、王子の所有物であるかのような言い草。
思わず指先が震える。怒りよりも、その厚顔無恥さに吐き気がした。
「不具合だと? どの口が言う。彼らは、君がいないと呼吸すらままならないことに、ようやく気づき始めたようだ」
陛下は親書を無造作に放り投げると、私をぐいと引き寄せ、自らの膝に座らせた。もはや、これが私たちの「定位置」になりつつある。
「エルゼ、返事を出したいか? それとも、この紙ごとあの国を焼き払うか?」
「……いいえ。陛下、彼らに現状を分からせてあげたいのです。私が『無能』であったのか、それとも彼らこそが『無能』であったのかを」
私の言葉に、陛下は愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
彼はそのまま、私の首筋に深く顔を埋め、独占欲を誇示するように強く吸い上げた。
「いいだろう。ならば、帝国で開催される『建国記念祭』に彼らを招待してやろう。隣国が滅びかけている最中に、我が国がいかに君を愛し、君の力で繁栄しているか……特等席で見せてやる」
◆
その頃、祖国では悲惨な現実が幕を開けていた。
エルゼが管理していた魔力供給が止まったことで、王城の豪華な噴水は泥水に変わり、自慢の温室の花々は一晩で枯れ果てた。
さらに最悪なのは、ミナの存在だ。
「……どうして! どうして魔法が発動しないのよ!」
ミナは、カイル殿下の前で必死に聖具を振るっていた。
だが、姉の魔力という「貯金」を使い果たした彼女には、もはや奇跡を起こす力など一滴も残っていない。
彼女のブローチに貯め込んでいた魔力も、エルゼが国を出る際に「すべて手繰り寄せた」ことで空っぽになっていたのだ。
「ミナ、しっかりしろ! 民衆が結界の外で魔物に襲われているんだぞ!」
「うるさいわね! お姉様が何か呪いをかけたに決まってるわ! あんなゴミ女、さっさと連れ戻してきなさいよ!」
カイル殿下は、ミナの口から出た醜い罵声に、初めて顔を引きつらせた。
彼らが縋っていたのは、聖女の輝きではなく、エルゼという便利な道具に寄生していただけの、空っぽの虚飾だった。
そして一週間後。
ボロボロになった祖国の使節団を乗せた馬車が、光り輝く帝国の門をくぐることになる。
そこで彼らを待っているのは、見たこともないほど美しく、そして皇帝に溺愛される「真の聖女」の姿だった。
◆
帝国の建国記念祭。
王都は魔法の光と花の香りに包まれ、民衆の歓喜で震えていた。
その中心、大聖堂のバルコニーに私はいた。リュードヴィヒ陛下に腰を抱かれ、彼の漆黒の軍服に寄り添うようにして。
「――来たか」
陛下の冷ややかな視線の先。
招待された祖国の使節団が、広場の一角で呆然と立ち尽くしていた。
先頭に立つカイル殿下とミナの姿は、見る影もなく惨めだった。連日の魔物対応と心労のせいか、あんなに自慢だった礼装も薄汚れ、顔色も土色だ。
彼らは見上げていた。
帝国の空を覆う、黄金に輝く巨大な守護結界を。
私が指先一つで展開し、陛下が魔力を添えて補強した、大陸最強の盾を。
「……嘘だ。エルゼに、あんな力があるはずがない」
カイル殿下の震える声が、風に乗って聞こえてきた。
私は彼と目が合うと、優雅に扇子で口元を隠し、静かに微笑んでみせた。
「お久しぶりですね、カイル殿下。……あら、お隣のミナ様はどうされたのですか? 聖女の輝きが、随分と曇っていらっしゃるようですが」
「お姉様……っ! あなた、何を企んでいるの!? その力は私のものよ! 返しなさいよ!」
ミナが狂ったように叫び、私に駆け寄ろうとする。
だが、その前に近衛騎士たちの剣が彼女の喉元に突きつけられた。
「控えよ。我が帝国の恩人であり、私の最愛の婚約者に向けたその無礼……万死に値するぞ」
リュードヴィヒ陛下の声が響いた瞬間、周囲の空気が凍りついた。
凄まじい威圧感に、ミナはその場にへなへなと崩れ落ちる。
「リュードヴィヒ陛下、誤解です! エルゼは我が国の不誠実な女でして……」
カイル殿下が必死に言い繕おうとするが、陛下はそれを鼻で笑った。
「不誠実? 欠陥品と呼び、雨の中に放り出したのは貴様らだろう。おかげで私は、世界で最も尊い宝を手に入れることができた。感謝しているぞ、無能な王子よ」
陛下はわざとらしく「無能」という言葉を強調した。
広場に集まった帝国の民衆からも、一斉に嘲笑が沸き起こる。
「見てよ、あの隣国の王子。あんなに素晴らしい聖女様を捨てたんですって」
「おかげで向こうの国は魔物だらけらしいわよ。自業自得ね」
かつて私が浴びた嘲笑。それが今、何倍にもなって彼ら自身へと突き刺さる。
カイル殿下は顔を真っ赤にして絶句し、ミナは床を掻きむしって泣き叫んでいた。
「エルゼ……頼む、戻ってきてくれ! 国が、結界がもう持たないんだ! 悪いようにはしない、公爵の位でも何でも用意する!」
カイル殿下が縋るような目を向けてくる。
けれど、私の心には一欠片の憐れみも湧かなかった。
「……お断りいたします、カイル様。私はもう、この国のものですから」
私は陛下の胸に深く顔を寄せ、その温もりを感じた。
彼らへの復讐は、私が手を下すまでもない。
私が「いない」という現実そのものが、彼らにとって最大の地獄なのだから。
その日の晩餐会は、カイル殿下とミナにとって文字通りの公開処刑となった。
帝国の貴族たちが、贅を尽くした料理を楽しみながら、彼らを見る目は完全に「憐れな物乞い」に対するそれだった。
「エルゼ……せめて、結界の張り方だけでも教えていけ。君の義務だろう!」
晩餐会の席上で、カイル殿下が堪り兼ねたように立ち上がった。その目は血走っており、もはや王族としての品位は微塵もない。
私の横で静かにワインを口にしていたリュードヴィヒ陛下が、カチリ、とグラスをテーブルに置いた。その音一つで、広間が静まり返る。
「義務、だと? 追放し、戸籍から抹消し、国外へ放り出した相手に対して使う言葉か、それが」
「それは……っ、教育の一環で、少し厳しくしただけで……」
「教育? 彼女が一人で支えていた結界の魔力を、その隣にいる女に吸い取らせていたことがか?」
陛下の言葉に、ミナの肩がびくりと跳ねた。
彼女が隠し持っていた魔道具の存在は、すでに帝国の魔導師たちによって解析済みだ。
「ミナ様、その首元のブローチ。……もう、私の魔力は一滴も残っていないようですね。だからそんなに、顔が老け込んでしまっているのでしょう?」
私の指摘に、ミナが悲鳴を上げて自分の顔を覆った。
他人の魔力で美しさを保っていた彼女は、今やその供給を断たれ、実年齢以上にやつれ、肌は荒れ果てていた。
「嫌ぁぁ! 見ないで! 私は聖女よ、選ばれた聖女なのよ!」
「聖女? 自分の国の民も救えず、他国の晩餐会で叫び声を上げるだけの女がか。笑わせるな」
陛下が合図を送ると、側近が一通の報告書をカイル殿下の前に叩きつけた。
そこには、昨日の午後に彼らの祖国の北側にある街が、魔物の襲撃によって壊滅したという最悪の報せが記されていた。
「これ……っ、嘘だろ……」
「君たちがエルゼを追い出したその瞬間に、あの国の命運は尽きたのだ。……さあ、食事を続けろ。それが君たちが祖国の金で食べられる、最後のまともな食事になるだろうからな」
絶望に打ちひしがれ、ガタガタと震えるカイル殿下。
かつて私を「欠陥品」と呼び、冷たい床に膝をつかせた男の成れ果てだ。
私は、陛下の大きな手が私の手をテーブルの下で優しく握りしめるのを感じた。
震えていたのは、私ではなかった。私を侮辱した者たちへの怒りで、陛下の手が微かに震えていたのだ。
「エルゼ。……明日、あの国から最後の手紙が届く。君に、見届ける権利がある」
陛下の深い瞳の奥に、昏い悦びが灯っていた。
本当の「断罪劇」は、まだ始まったばかりだった。
翌朝、帝国の謁見の間に、泥にまみれた伝令兵が飛び込んできた。
彼はカイル殿下の前に跪くやいなや、喉を枯らして叫んだ。
「殿下、一刻も早くお戻りください! 王都の守護石が粉砕されました! ミナ様の魔力では……魔力では、魔物の咆哮ひとつ防ぐことができません!」
その言葉は、謁見の間を埋め尽くす帝国貴族たちの前で、カイル殿下とミナが「完全なる無能」であることを確定させた。
カイル殿下は青ざめ、隣に立つ私の手元を、救いを求めるように見つめた。
「エルゼ……! 頼む、今すぐ戻って守護石を修復してくれ! お前ならできるだろ!? 今までのことは謝る、何でもするから!」
彼の差し出した手は、リュードヴィヒ陛下の一瞥によって凍りついた。
陛下は私の肩を抱き寄せ、冷酷な宣告を口にする。
「何でもする、か。では、自分の首を差し出せるか? 彼女の十年の献身をゴミのように扱った代償として」
「そ、れは……」
「できないだろうな。貴様が愛しているのは彼女ではない。彼女がもたらす『利益』だけだ。そんな薄汚い理由で、私の妻を渡せると思うか?」
陛下が「私の妻」と言い切った瞬間、周囲から感嘆の声が漏れた。
まだ正式な挙式前だというのに、彼は全世界に向けて、私が彼の唯一無二であることを宣言したのだ。
私は、震えるカイル殿下の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「カイル様。守護石が壊れたのは、私のせいではありません。あなたが、私という『要』を抜いても、ミナ様の輝きがあれば大丈夫だと仰った結果です。……その結果を、どうぞ最後まで見届けてください」
「ひっ、お、お姉様……助けて、死にたくないわ!」
ミナが私の足元に縋り付こうとする。だが、その指先が私のドレスに触れる前に、陛下の魔圧が彼女を床へと押し伏せた。
「不潔な手で触れるな。……衛兵、この者たちを国境まで送り届けろ。馬も馬車も必要ない。自分の足で、自分が滅ぼした国へ帰るがいい」
「そんな! 魔物が溢れる道を徒歩で!? 死ねと言っているのか!」
カイル殿下の悲鳴に、陛下は今日一番の冷たい笑みを浮かべた。
「ああ、そうだ。だが安心しろ。エルゼの慈悲で、国境までの道だけは『魔除け』を施してやる」
私が指先をひと振りすると、彼らの足元にだけ、淡い光の輪が浮かび上がった。
それは、彼らがかつて「無能の力」と笑った、私の魔力。
けれどその光は、彼らを救うためではない。
絶望に染まった祖国の惨状を、その目で一歩一歩、確実に見て回らせるための「残酷な保護」だった。
引きずられていくカイルとミナの罵声が遠ざかる中、リュードヴィヒ陛下は私の腰に回した手に力を込め、耳元で甘く囁いた。
「これで邪魔者は消えた。……エルゼ、これからは君を泣かせる者など一人もいない。私の隣で、ただ世界が君を敬う様を眺めていればいい」
城門の向こうで、祖国の空を赤黒い暗雲が覆っていく。
あの中へ、彼らは放り出されるのだ。
私がいれば、決して起こらなかったはずの悲劇の舞台へ。
◆
カイル殿下とミナが、帝国の衛兵によって文字通り引きずり出されてから数日が経過した。
帝国では連日、私の歓迎と建国記念を祝う宴が続いていたが、その華やかさの裏で、隣国の「滅亡」は着実に、そして残酷な速度で進んでいた。
私が管理していた結界は、ただの「壁」ではない。大地に魔力を巡らせ、土壌を活性化させ、空気中の瘴気を浄化する「循環の要」だったのだ。それが消えた祖国の土は一夜にして枯れ、川は腐り、かつて美しいと言われた王都は今や魔物の咆哮が絶えない地獄と化している。
そんな報告を耳にするたび、私の心には小さな疼きが走る。けれどそれは、故郷への未練ではない。自分を裏切った者たちが、自業自得という言葉では片付けられないほどの絶望に沈んでいくことへの、冷ややかなカタルシスだった。
「……また、そんな顔をしているな。エルゼ」
背後から、低く心地よい声が響く。
振り返るよりも早く、リュードヴィヒ陛下の逞しい腕が私の腰を抱き寄せた。彼は私の肩に顎を乗せ、私が眺めていた報告書を、ゴミを見るような目で見やった。
「あのような価値のない場所のことは忘れろと言ったはずだ。君の瞳に映るべきは、私と、私が君に捧げるこの帝国の繁栄だけでいい」
「陛下……。ですが、かつての領民たちが苦しんでいると思うと、少しだけ……」
「優しいのだな。だが、その優しさが奴らを付け上がらせた。君が慈悲を見せれば、奴らはまた君の首に鎖を繋ごうとするだろう。私は、それを許さない。……例え君自身が望んだとしても、だ」
陛下の腕に力がこもる。その強引なまでの独占欲は、時として恐怖を感じるほどに重い。けれど、今の私にはその「重さ」こそが、二度と誰にも利用されないという唯一の保証に思えた。
陛下は私の首筋に鼻を寄せ、深く、深く、私の香りを吸い込んだ。
「君の魔力は、この帝国のすべてを潤している。庭園の花が狂い咲き、民が病に伏せることがなくなったのは、すべて君の存在のおかげだ。……君は、私の女神だ。だから、一歩も外へ出すわけにはいかない」
彼は私の手を取り、その指先に一つずつ、丁寧に口づけを落としていく。
その仕草は騎士の誓いのようでありながら、獲物を逃さない獣の儀式のようでもあった。
その時、広間の扉が音を立てて開いた。
現れたのは、顔面を蒼白にした帝国の宰相だった。
「陛下! 隣国のカイル王子が、国境の検問所に現れました! ……信じがたい姿で」
「……生きていたのか。案外としぶといな」
リュードヴィヒ陛下は不快そうに目を細めたが、私は陛下の腕の中で静かに頷いた。
「魔除け」の加護を与えて送り出したのだ。死ぬことは許されない。ただ、守るべきものが崩壊していく様を、一番特等席で見せつけられる運命。
「会うか? エルゼ。会いたくないのなら、今この場で奴の存在を歴史から消すが」
「いいえ。……最後にお話をさせてください。それで、私の中のすべてが終わる気がするのです」
陛下の許可を得て、私たちは接見の間へと向かった。
そこにいたのは、かつての煌びやかな王太子の面影など微塵もない、薄汚れた浮浪者のような男だった。
服は裂け、泥と返り血にまみれ、何よりその瞳からは「希望」という光が完全に消え失せている。
「エルゼ……エルゼ……っ!」
私を見た瞬間、カイルは床を這うようにして近寄ってきた。
だが、陛下の冷徹な視線が彼を射抜くと、彼は怯えたように動きを止めた。
「頼む、助けてくれ……! ミナは、ミナは魔物に……っ! 俺一人じゃ、もうどうしようもないんだ! 国民たちが、俺を殺そうとしている! 『聖女を追い出した大罪人』だと、石を投げてくるんだ!」
カイルの声は、もはや叫びというよりは獣の呻きに近かった。
自慢だった美しい義妹、ミナ。彼女は魔力がないにもかかわらず「聖女」を自称し続けた報いとして、魔物たちの格好の餌食となったらしい。魔道具で奪った他人の魔力は、それを失った途端に「腐敗」を招くという呪いがあったことに、彼女は死ぬまで気づかなかったのだろう。
「カイル様。私はあなたに、確認しましたよね。『何が起きても、責任を求めないと誓えるか』と」
「あ……ああ……」
「あなたは笑って『もちろんだ』と仰いました。その言葉、王族として違えぬはずです」
「それは、お前があんな……あんな絶大な力を持っているなんて知らなかったからだ! 騙したのか!? お前はわざと、無能のふりをして俺を陥れたのか!」
逆恨みに満ちた言葉に、私は静かに首を振った。
「ふりなどしておりません。私はいつだって、全力であなたと国を支えていました。それを見て見ぬふりをしたのは、あなた自身です」
私が一歩前に出ると、カイルは期待に満ちた目で私を見上げた。
けれど、私が口にしたのは、彼の息の根を止めるための最後の一撃だった。
「リュードヴィヒ陛下。……この方に、私の『本当の魔力』を一度だけお見せしてもよろしいでしょうか」
陛下は愉悦に満ちた表情で頷いた。
私は両手を広げ、これまで抑えていた魔力を一気に解放した。
接見の間が、眩いばかりの白銀の光に包まれる。
それは温かく、けれど圧倒的な質量を持った神聖な力。
帝国の空へと立ち上った光の柱は、雲を散らし、遥か遠方の祖国からも見えるほどの輝きを放った。
「あ……あああ……」
カイルは、その光に照らされながら、ただ呆然と涙を流した。
彼が捨てたものが、どれほど巨大で、どれほど尊いものだったか。
そして、それが二度と自分のものにはならないことを、魂の奥底で理解したのだ。
「これが、あなたが『欠陥品』と呼び、『無能』と嘲笑った私の力です。……さようなら、カイル様。二度と、私の名前を呼ばないで」
私が背を向けると、カイルは力なく崩れ落ちた。
衛兵に引き立てられていく彼の背中は、もはや一人の人間としての尊厳すら失い、空っぽの抜け殻のようだった。
静寂が戻った広間で、リュードヴィヒ陛下が後ろから私を抱きしめた。
彼の鼓動が、背中越しに激しく伝わってくる。
「……満足か? エルゼ」
「はい。……不思議と、すっきりしました」
「ならばいい。これでようやく、君を私の『檻』の中に閉じ込める準備が整った」
陛下は私の首筋に深く唇を寄せ、逃がさないと誓うように強く噛んだ。
これから始まるのは、復讐劇の終わりではなく、狂おしいほどの愛と執着に満ちた、新しい日々の始まり。
祖国が滅びようと、世界がどうなろうと。
私はこの、冷徹で過保護な皇帝の腕の中で、永遠に愛され続けるのだ。
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