ザリガニと金魚
その日はひどく生ぬるい日だった。眠りから醒めて、ザリガニはいつものように鼻をくんくんと鳴らした。目が悪く、視界も悪い水の中では嗅覚が何よりの道標だからだ。
少ししていつもの匂いの中に違う匂いを見つけた。その香りはザリガニにとってはなんとも芳しく、魅力的なものだった。脚を掻いて躰を浮かせ、両のハサミで地面を叩いてゆっくりと動いた。水の中ではこれだけで事足りる。数秒もしないでザリガニはわずかに感じ取った魅力的な香りの元へ辿り着くと、その獲物にハサミを伸ばした。
あともう少しでその大きなハサミが触れる直前、ザリガニは眉を顰めた。
先ほど嗅ぎとった匂いはフナだった。そして嗅覚はこれを『死んだばかりのフナだ』と言っていた。フナというやつはこの淀んだ水に同化するような暗い色をしている。だからザリガニがフナを見るには目を凝らしてようやく見えるほどだった。
それがどうだ、今目の前のフナときたら自分のハサミと同じ色をしているではないか。力のないフナ如きがこんな鮮やかではこの世界で生きていけるわけがない。それも何か、毒でも持っているのではないか。
ザリガニが警戒をして目の前の獲物を食べるか迷っている時のことだった。
「ああ、姉さん……!」
水路のずっと奥から、聞きなれない声がした。
淀んだ水の中、尾びれ背びれを懸命に動かして、声の主はやってきた。匂いは一匹のフナである。しかしその体は目の前のフナと同じ、ザリガニのハサミと揃いの色をしていた。
鮮やかなフナは息絶えた同じ姿のそれを見つけて、ああ、と涙を流して慟哭した。先ほど、姉、と言っていたから弟か妹なのだろう。ザリガニに魚の性別などわからない。だが、今このフナを食べてはならないことはわかる。
ザリガニは自身の大きなハサミで淀んだ水に漂う水草をちょきんちょきんと切ることで、この気まずさを誤魔化すことにした。
「貴方が見つけてくださったんですか」
数秒か1時間か。先ほどまでの激情はどこへやら、冷静な声音で鮮やかなフナはザリガニに話しかけてきた。
「俺が殺したとは思わないのか、このハサミで」
「思いません。姉の目はすっかり濁っていますから」
鮮やかなフナは悲しげな目で姉だというその死んだフナに目をやった。ザリガニは目を細めてじっと見る。たしかに目が少しだけ濁っている気がした。
「それに姉はここに来る前から病気だったんです、長くなかった」
「…そうか」
ザリガニそれだけ言うと、大きなハサミで泥を掬って、姉だというフナにかけてやることにした。ザリガニは腹が減れば共食いをする野蛮な一族だ。だがさすがに別れを悲しむ親族の前で死体を貪り食うことは躊躇われた。野蛮な一族にだって他人を慮る心はある。
ザリガニの行動が意外だったのか、鮮やかなフナは大層びっくりして体を何度もくねらせて、ザリガニを見つめた。そして目を細めてザリガニに丁寧な一礼をした。
「ありがとう、姉を弔ってくださって」
私にはこんなヒレしかないから、と鮮やかなフナは腹ビレをパタパタと揺らした。
ザリガニは苦虫を噛み潰したような気持ちになって、思わず目を逸らし、鮮やかなフナの姉にせっせと泥をかけ続けた。
「別に。ところでお前たちここら辺で見ない魚だな。なんていうんだ」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。私たちは金魚。ざっくりいうと、品種改良したフナです」
ザリガニの問いに、品種改良したフナ、もとい金魚はにっこりと笑って自己紹介をした。
それからというもの、孤独だったザリガニの元に、金魚はたびたび訪れるようになった。ザリガニというのは淀みの中でもさらに薄暗く流れがないところを好む。例に漏れずこのザリガニも同じように澱みの中でもさらに水の停滞した岩の下を棲家にしていた。
金魚は澱みの中でも比較的流れのある場所で、一緒に来たという金魚たちと一つの塊になって暮らしていた。
そしてそこからポツリと抜け出して、一人澱みの濃い場所にやってくるのだ。
「変わったやつだ」
「貴方ほどじゃない」
ザリガニはその言葉を鼻で笑った。
「どうだか。ほら、お前いつか言ってただろう、餌は水面から落ちてくるって」
金魚というのはどうやらヒトに飼われるための愛玩魚であるらしい。だからだろうか、金魚はたびたび世間知らずなところがあった。
ザリガニが聞いた話で一等驚いたのは、餌は地の底ではなく水面から降りてくるものだと思っていたことだ。
「またその話ですか」
金魚はうんざりした顔でため息をついた。
「何度だって言ってやる。そんなに都合よく餌が降ってくるわけないだろう」
「ヒトに飼われるというのはそういうことが起こるんですよ」
ザリガニが口を尖らせる。金魚はまるで面倒臭いものを相手するように答えた。ザリガニはそれがどうにも気に食わなかった。
「でもお前は今ヒトに飼われてなんかないぞ。いい加減水面ばっかり見てないで地底でも漁るんだな」
こんな岩場の澱みにヒトはこない。少なくともこんな澱みに餌を投げてくるやつはみんなザリガニの仲間を連れていく鬼畜ばかりだ。
「お前、ヒトを見つけたらすぐ逃げるんだぞ。お前なんかハサミもないんだ。ヒトにすぐやられちまう」
「おや、心配してくれるんですか?」
「ちがう!」
ザリガニは思わず吠えた。しかし金魚はその真っ赤な体を揺らして笑うので、ザリガニはついに自慢の大きなハサミも振り回して暴れた。
ある時の昼だった。ザリガニは本来夜行性だが、その日はどうも寝つきが悪くて気分転換にと岩場の陰から出て散歩をしていた。
目の前にそれは大きな窪みが現れた。ザリガニはハサミで大きさと形を確かめて、それが足跡だと気づいた。ザリガニのでもない、タニシのでもない。金魚やフナには足はない。
ーーヒトだ。
サリガニの背筋にぞくりと悪寒が走った。
無数の足をばたつかせて、水の中を前へ前へと進む。だんだんと水嵩が増して、このままいけば、あとほんの少しの時間で用水路の入り口にある金魚の棲家にたどり着くはずだ。本来の活動時間でないから、ザリガニの体はひどく重い。ふと脇の泥に目をやれば無数の足跡があった。足跡の下には潰れたタニシが横たわっていた。ヒトにとってはタニシの命など取るに足らないのだろう。
先を急ぐ。いつもならこの場所の水は比較的澄んでいる。だというのに今日はひどく濁っていた。泥だらけになりながら、ザリガニはさらに奥へ進んだ。
「おい!」
「ひい!」
そこにいたのは金魚だった。しかしいつもザリガニの棲家を訪れる変わり者ではない、普通の金魚だ。色も黒い。黒い金魚は捕食対象のザリガニを恐れ、一目散に逃げようとする。そんな金魚の尾鰭を掴んで、ザリガニは声を荒げた。
「あいつは、あの金魚はどこだ!」
「あの金魚って誰だよ」
「ほら、ザリガニと友達の、敬語で話す変な奴だよ!」
そこまでいうと黒い金魚は思い当たる節があったのか、ああ、といって頷いた。
「あいつならもういない」
「なんで!」
「さっき、ヒトが来たんだ」
ザリガニの喉がひゅっと鳴った。
「ヒトは俺たちをかわいそうだ、かわいそうだと言ってたくさん、たくさんの仲間を網で掬った。俺のような黒い金魚は難を逃れた奴もいるけど……」
赤いやつはダメだったんだ。
黒い金魚が言わなかった言葉をザリガニはすぐに察した。尾鰭を離してやれば、黒い金魚は一目散にザリガニと距離をとった。
そしてザリガニのハサミの届かない距離から黒い金魚はゆっくりとザリガニに向き合った。
「慰めになるかわからんが、どちらにせよあいつは長くなかったよ」
「なんだって」
「あいつ、泥を食ってたんだ」
ザリガニは首を傾げた。それの何が悪いのか、全くわからなかった。黒い金魚は目に哀れみを浮かべて続けた。
「俺たち金魚は泥を食えない。泥を食うようにできてないのさ。だからこのまま痩せ細って死んでいく。でもあいつは泥を食った。変わり者の金魚さ。食べたところで長生きなんかできやしない。地底のヘドロなんて漁ったってもうフナでない俺たちには腹に溜まるばっかりで動けなくなるだけだってのに」
「おれ、おれは」
ザリガニは何も言えなくなった。最近あの金魚の腹が妙に膨れたことには気づいていた。でもよく食べてよく肥えているのだと、それなら長生きしてくれるだろうと安心してすらいた。
それが全くの逆だったなんて誰がわかるっていうんだ。
「終いだから言うがね、俺たちもお前が善意だったってわかってるさ。なあ、あいつが生まれ変わったら、きっとザリガニになるだろう。そうなったらお前
また仲良くしてやってくれよ」
黒い金魚はそれだけいうと、ザリガニに背を向けて泳ぎ出してしまった。黒い体はすっかりと水に同化して、目の悪いザリガニはすぐにその金魚を見失ってしまった。
岩場の澱みからあの金魚を見送った時はどこまでも、どこまでも見えていたのに。
ザリガニはしばらくその場に留まったが、はたとこのままここにいてはヒトに捕まえられてしまうと気づくと慌てて隅に移動し、そのままトボトボと帰路についた。
途中後ろを振り返った。もちろんそこには何もいない。水草だけが流れる暗い澱みの中、ザリガニは自身のハサミを動かしてポツリとつぶやいた。
「あいつはバカだ。おれのようにハサミもないんだから、逃げ足は早くなくちゃダメじゃないか。それなのに腹なんて膨らませやがって」
本当にバカだあいつは。
ザリガニはそのまま背中を丸めて澱みの濃い岩場に戻っていった。
それ以来、ザリガニは棲家でフナの匂いがすると昼でも夜でも顔を出して近づいてみたが、結局変わり者の金魚に出会うことは二度となかった。
かわりもの。その5文字を言うと、周りの金魚はごぞって飼い主の名前を挙げる。金魚も確かにそうだと思う。用水路に溜まっていた死にかけの金魚たちを集めて保護し、薬湯につけて治療までした。
「あの時はどうなることかと思ったが、こんなに天国ならあいつらも連れてくればよかったなあ」
「残念だなあ。きっと、もうあいつらとっくにくたばっちまったよ」
その声はすっかり皺がれていた。それもそのはずで、もうあれから随分と長い年月が経過していた。金魚がわかっている範囲で10年。おかげですっかり金魚の体は大きくなりもはや金魚なのか鯉なのかわからないくらいだ。
「なあ、お前もそう思うだろう?」
金魚はその声にそうだなと呟いた。この飼い主に掬われて1年後、金魚は声変わりをした。高かった声は驚くほど低くなり、周りの金魚からコントラバスのようだと揶揄われるほどだった。
ーーあの人も驚いてくれただろうか。
もう記憶に微かに残るほどになってしまった。ぶっきらぼうで偏屈で、でも優しくて面倒見のいいあのザリガニ。あの時はあんなに大きく思えたハサミも体も、今じゃ自分の方かずっと大きくなってしまった。
金魚は水槽に映る自分を見た。あの時よりはほとんど色褪せてしまったが、ほんの少しだけ残る赤が時より彼を思い出させた。
金魚は知っている。ザリガニの中でもアメリカザリガニという種は長くて5年しか生きれない。彼は若い頃の自分と同じ、鮮やかで燃えるように真っ赤なハサミを持っていた。
「あ、飯の時間だ」
仲間の声に金魚は上を見上げた。どこまでも透明な水の中を小さな魚がまるで桜の花びらのように降り注いでくる。
ーー何度だって言ってやる。そんな都合よく餌が降ってくるわけないだろう。
金魚の脳裏にその声が響く。少し意地悪く、笑いを含んだ声だった。もう10年も前だというのに、姿形はすっかり霞んでしまったのに、その言葉だけは繰り返し、繰り返し金魚の頭によみがる。
「ヒトに飼われるというのはそういうことが起こるんですよ」
金魚は誰にも知られずにポツリと呟いた。
きっと、自分はこの声と言葉とともに生きていくのだろう。いや、生きていこうと金魚は目を瞑って彼を思った。
どうにか持ってこれた友人のかけらが、今日もどこかで金魚のことを意地悪く笑っている。




