三.永遠の別れ
(どうしよう……蕙蘭様……)
蕙蘭に会いたい。昭瑶も不安で心細い思いをしているだろう。けれど、臆病風に吹かれ、芙澤は足が竦んで動けなくなる。
『後悔のないように行動しなさい』
皇后に掛けられた言葉が、ずっと頭の中を回り続けている。
十日に及ぶ逡巡の果て、芙澤はずっと心配そうに彼女の様子を伺っていた侍女に告げた。
「蕙蘭様の見舞いに行きます。先触れを出してちょうだい。──皇后様のご指示は、伝えた通りよ。流行病の恐れはないけれど、口元を何重にも覆うように命じなさい。戻ったらその覆いと衣服は、すぐに焼却すること。あちらの殿舎から戻った私の世話は、その先触れを務めてくれた者に任せます。
……異変があれば、私の全財産を叩いて医官を呼びますので、安心しなさい。五日経って、二人とも問題がなければ、外に出ます」
彼女の気迫に飲まれたように、侍女は頷く。
「承知しました。……先触れは私が。筆頭侍女たるもの、配下の者を不安にさせるわけには参りません」
「ごめんなさい……」
「良いのです、崔貞容様。貴女様は私の主ですもの」
力強く微笑み、彼女は分厚い綿布を芙澤に渡した。自身の口元と鼻先にもそれを何重にも当て、頭できつく結んだ後、侍女は部屋を出ていった。
久しぶりに訪れた蕙蘭の殿舎は、しんという音が耳に響いてきそうな程に静まり返っていた。
蕙蘭の部屋の扉を開けた芙澤は、そこに漂う病人特有の体臭と微かに混ざる血の匂いに、息を飲んだ。奥歯を噛み締め、蕙蘭が横たわっている天蓋付きの寝台に、足音を抑えながら近づいていく。
二十日ぶりに顔を見た彼女は、一目で分かるほどに痩せていた。滑らかな白だった肌は土気色になり、微かに開いたままの乾いた唇の端には、血がこびり付いている。顔の肉がこけ、目立つようになってしまった瞳には、かつての力強い輝きはなく、虚ろに空に向けられている。衾の上に投げ出された手の指は、骨と皮ばかりになってしまっていた。
悲惨なその姿に、芙澤の瞳から涙が零れた。
「蕙蘭様……! なんてこと……!」
「ああ……芙澤……?」
大義そうに顔を動かした蕙蘭が、芙澤を認めてほのかに笑う。身体を起こそうとしたが、僅かな動きだけでも痛みが走るのか、蕙蘭は顔を顰めて背を寝台に戻した。芙澤は慌てて駆け寄る。
「無理をなさらないでください!」
「大丈夫よ……。二旬も誰とも話さず寝てたから……、少し、言葉が出ないだけ……」
息も絶え絶えに言う蕙蘭に、芙澤は涙を抑えられない。肩を震わせる彼女を見上げて、蕙蘭はただ微笑んでいる。
「医官を、呼んでいないと聞きました……。どうして……」
「化粧料が、もったいなくて……。新しく雇った、姷明もいるし……。何より、少しでも美味しいものを、昭瑶に食べさせてあげたい……。私はもう、長くはなさそう、だから」
「不吉なことを言わないで!」
色をなして叫ぶ芙澤を見上げ、蕙蘭は儚く微笑んだ。
「お願いが、あるの。私がもし、息を引き取ったら……時々で良い、昭瑶のことを、気にかけてあげて……。貴女にも、やがて、子が出来るでしょうから、邪魔にならないぐらいで良いから……」
今も侍女たちと別室で、きっと不安な思いをさせている。
涙を一筋流しながら、蕙蘭は声を震わせる。芙澤は縋るように言った。
「陛下は……? いらっしゃっていないの……?」
蕙蘭は芙澤の問いに、なぜか楽しげに小さく笑って答える。
「あの方には……私たちを訪ねる理由がないもの……」
「そんな、そんなこと!」
妻が伏せっているのに、娘が不安な思いをしているというのに、訪ねる理由がないはずがない。そんなにも、彼女たちの夫は薄情なのか。蕙蘭の不調を耳にする少し前、芙澤は久方ぶりに彼に召されていた。閨で甘く睦言を囁き、彼女の身体に欲をぶつけたあの姿も、全て偽りなのだろうか。
憤る芙澤に震える手を伸ばし、蕙蘭は優しい目をして告げた。
「ごめん、ね、貴女にばかり甘えて……。こんなこと頼めるの、貴女しか居なくて……」
言葉に詰まる芙澤を、蕙蘭は穏やかに見上げる。その表情は今にも消えてしまいそうで、芙澤は親友の痩せた指を、繋ぎとめるように必死に握り締めた。
「蕙蘭様……!」
「貴女と過ごす日々……とっても楽しかった……。もっと、もっと、たくさん話したかったな……。妹がいたら、きっと……貴女みたいだったの、かなぁ……」
「嫌です、嫌、蕙蘭様ぁ!」
幼子が駄々をこねるように泣き叫ぶ芙澤に、蕙蘭は、蕙蘭は眩しいものでも見るように目を細めた。
「──ごめん、ね。芙澤。最期に、貴女と話せて、良かった……。昭瑶を、お願いね……」
閉ざされた瞼から流れ落ちる涙が止まる。それきり、蕙蘭は二度と目を覚まさなかった。
「蕙蘭様……。蕙蘭様ぁぁっ!」
鼓動を止めた蕙蘭の胸元に伏せ、芙澤は慟哭した。
芙澤は自分を訪ねてきた、蕙蘭のかつての侍女を見つめた。
蕙蘭の死後すぐに、彼女の暮らした殿舎は速やかに片付けられてしまった。
次代の皇族を育む場である後宮に、死者を思い起こさせるものを残すことは嫌厭される。在りし日の彼女を偲ばせるものは、何も残らなかった。
彼女に仕えていた者たちも、既に次の職場に移っていた。
蕙蘭の父に無理を言って、形見として譲ってもらった襖裙に囲まれながら、芙澤は昼間は今まで通りに、夜は一人涙に暮れながら過ごしていた。
芙澤の殿舎に訪れた逞しい体躯のその侍女は、いつも甲斐甲斐しく蕙蘭と昭瑶の世話を焼き、訪ねてきた芙澤を笑顔で迎えてくれた女性だった。彼女も、内廷から遣わされた侍女であるので、蕙蘭亡き後は他の妃のもとで働く予定だったが、今朝、永の暇を貰ったそうだ。
乳母として多くの貴人に仕えてきたが、こうして見送ることはもう耐えられないのだと、彼女は泣きながら笑う。
「……正直申しまして、血を吐いて以降の沈妃様は、いつ身罷られてもおかしくないご様子でした。貴女様と最期に話したいという気力だけが、あのお方の生命を繋いでいたのだと思います……」
自分が訪ねて無理をさせてしまったせいで、彼女の最期を早めてしまったのではないか。ずっと自責の念に囚われていた芙澤の瞳から、一筋涙が流れ落ちる。
肩を震わせる芙澤を、かつての蕙蘭の侍女は穏やかな目で見つめた。
「崔貞容様が、昭瑶皇女様を引き取られたと伺いました。私が言えるようなことではございませんが……、どうかあの方を、よろしくお願いいたします」
地に指をついて低頭する彼女に、芙澤は静かに頷いた。
久しぶりに顔を合わせた昭瑶は、記憶に鮮明に残るあどけない笑みを一切失っていた。虚無の面差しで、母の遺した数多の書物を日がな抱き締めるのみで、出された食事もほとんど喉を通らない様子だった。
それでも、芙澤は姪のように思っていた昭瑶を、必ず立派に育ててみせると誓ったのだ。
頭を下げて部屋を出ていく侍女を見送り、ようやく少し気力を取り戻した様子の芙澤に、侍女は安堵したように笑う。芙澤も微笑みを返し、昭瑶の様子を見に行こうと立ち上がった。
その瞬間、彼女は耐え難い吐き気に襲われ、その場に崩れ落ちた。
(まさか……!)
ざっと血の気が引く。最後に伽をしてから、思い返せばずっと月のものは来ていない。姉のように慕っていた友を亡くした衝撃によるものだろうと、深く考えもしなかったが、この症状はまさか。
(嘘でしょう……!? どうして、どうして今なの……!)
激しく嘔吐く芙澤に、侍女は何かを悟ったのだろう。声を張り上げて医官を呼ぶよう叫ぶ彼女の声を聞きながら、芙澤は遠ざかる意識に懸命に抗った。
(だめよ……!昭瑶様に会いに行かないと……!)
必死の抵抗も虚しく、芙澤の思考は闇に沈んだ。




