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一. 友情と葛藤

 (さい)芙澤(ふたく)の人生はいつも、後悔と隣り合わせだ。





 中級官僚である崔家の末娘として、芙澤は生まれた。

 幼い頃から可憐な容貌を賞賛(しょうさん)されてきた芙澤は、心優しい両親と、彼女に甘い二人の兄、しっかり者の年子の姉に見守られ、穏やかな生活を送っていた。使用人たちからも大切に扱われ、彼女は陽だまりの中を生きてきた。


 その生活が一変したのは、彼女が十四の頃だった。隣家に住まう九つ上の青年から、嫁に来いとしつこく執着されるようになったのだ。

 彼は長年、官僚登用試験である英玄試(えいげんし)の第一次試験、玄啓試(げんしし)及第(きゅうだい)を目指し、気の(ふさ)ぐ日々を送っていた。過去に数度すれ違った時に、芙澤が愛想良く会釈(えしゃく)したことで、彼はのぼせ上がったそうだ。意識もせずに行ったその行動を、芙澤は激しく後悔した。

 幸い、騒ぎが大きくなることはなかったが、その時の恐怖が忘れられず、芙澤は自邸に閉じこもるようになった。愛娘の将来を憂いた両親は、娘が安全に過ごせる嫁ぎ先を探して奔走(ほんそう)した。


 そして、芙澤が十六になった頃。

 今上(きんじょう)崩御(ほうぎょ)に伴い即位した、新帝の妃の候補にならないかと、遠縁にあたる大貴族に声を掛けられた。

 年頃の未婚の娘を持たないその貴族が、宮中での足がかりを探してのことだと分かっていたが、これ以上ない嫁ぎ先に、両親は飛び付いた。芙澤も世俗(せぞく)から離れ、後宮の隅でひっそりと暮らせるのであればと、その申し出に素直に頷いた。



 しかしその決断を、彼女はまた悔いることになる。



 遠縁の大貴族の後押しもあって、無事に皇帝の側妃(そくひ)に選ばれ、中級妃の下から二番目の「貞容(ていよう)」となった芙澤は、すぐに途方に暮れてしまった。

 後宮の女性たちは、いずれ劣らぬ美女揃いだった。天女のような神々しい美人に、妖艶(ようえん)な魅力を誇る美女。役者のように涼しげな美貌を誇る者もいる。その中で芙澤は、野辺(のべ)に咲く花のような目立たない存在だった。

 元々家族が褒めてくれるほどには、自分の外見は大したことはないと思っていたので、そのことはまったく気にしていない。

 だが、同時期に入宮した女性たちは皆気が強く、後宮はすぐに角々(かどかど)しい雰囲気で満たされるようになった。妃たちの行き過ぎた行動は、皇后が厳しく取り締まったし、最上位の妃である(おう)雅妃(がひ)も皇后を支持した。だが、女同士の争いは水面下に潜み、より一層陰湿になった。我こそは寵愛を得ようと、無謀にも王雅妃の失寵(しっちょう)を工作しようとする者も出て来た。






 そんなギスギスとした後宮で、芙澤(ふたく)が唯一心を開いたのは、隣の殿舎に暮らす、皇帝の皇太子時代からの側妃である沈妃だけだった。


 娘と二人、日々書物に没頭する(しん)妃は、後宮の(いさか)いもそっちのけで超然(ちょうぜん)としているように見えた。


 第一印象は正直に言って、近寄りがたかった。


 けれど、初めての夜伽(よとぎ)を命じられた日、言いようのない不安に駆られた芙澤は、衝動的に隣の殿舎に走っていた。驚いたように出迎えてくれた彼女は、芙澤の支離滅裂(しりめつれつ)な口ぶりにも淡々と相槌を打ちながら、静かに話を聞いてくれた。

 彼女に励まされ落ち着いた芙澤は、何とかその後、皇帝の夜の相手を務めることが出来たのだ。

 その日以来、芙澤と蕙蘭(けいらん)は頻繁に互いを訪ね合う仲になった。彼女の娘である昭瑶(しょうよう)皇女も、芙澤に屈託のない親しみを向けてくれていた。


「──蕙蘭様、実家から乾燥果物が届いたのです。一緒にいかがでしょうか?」


 その日も、昭瑶皇女の昼寝の時間を避けて訪ねて行くと、蕙蘭は口元を緩めて出迎えてくれた。初めは分かり辛かったが、これは彼女なりの歓迎の笑顔だ。

 蕙蘭の足元からひょこっと顔を覗かせた皇女に芙澤が微笑みかけると、彼女は満面の笑みを浮かべる。蕙蘭に先導され、昭瑶にねだられ手を繋ぎながら、芙澤は彼女の殿舎の客間に向かった。


 客間の調度品は、紫檀(したん)を基本とした格式高いものだ。初めて訪れた時にはその存在感に圧倒されたが、蕙蘭に輿入れの経緯を聞いた後は、更に腰掛けるのにも緊張した。先帝の命で当時の皇太子に嫁ぐことになった彼女の父に、報奨金代わりに支払われた支度金で購入したものだというのだ。

 持ち主である蕙蘭は雑に椅子に腰掛けて、手ずから茶を淹れてくれる。零れた茶が豪快に卓に()ねて、芙澤は密かに肝を冷やした。いつものことなのか、(たくま)しい身体付きの中年の侍女が、音もなく現れて、濡れた卓を拭いて脇に退(しりぞ)く。

 干し(あんず)を小さく千切って娘に手渡しながら、蕙蘭は首を傾げた。


「今日の朝礼、()媛花(えんか)の姿がなかったけど、何か知ってる?」

「また皇后様の逆鱗(げきりん)に触れて、禁足(きんそく)を命じられたそうですよ」

「ふうん。体調が悪いとかじゃないなら心配ないか。……あ、こら、昭瑶。もっとちゃんと噛んでから飲み込みなさい」


 醜聞に興味があった訳ではなく、病が流行しているのならば、娘に影響が及ばないよう対策をしなければと考えたのだろうか。彼女の世界は、常に昭瑶皇女が中心だった。無償の愛情を娘に注ぐ蕙蘭の姿は、芙澤には眩しく映る。


(いつか私にも子が出来たら、こんな風になるのかな……)


 最近の芙澤は、ふとそんな風に夢想してしまう。

 それはつまり、皇帝と床を共にし──明け透けに言えば夫と身体を重ねなければ叶わない願いで、芙澤はそんな自分に気付く度に、赤面する思いだった。


(でも……あんまり気軽に言わない方が良いわよね……)


 蕙蘭が皇太子妃時代からもう六年ほども、皇帝に召されていないことは、皆が知っている。彼女自身はまったく気にしていない素振りを見せているが、内心までは分からない。不用意な発言で、姉と慕う存在を失うのが怖かった。


 そのあとも、蕙蘭と芙澤は、いつも通り他愛もないお喋りに興じる。その(かたわ)らに座し、昭瑶皇女は二人の顔に視線を往復させている。蕙蘭の許可のもと、乾燥させた無花果(いちじく)を手渡してやると、彼女はいかにも嬉しそうに笑った。


「ふたくさま、ありがとう!」

「はい、どういたしまして」


 小さなその手が果物を千切るのを手伝ってやりながら、芙澤は笑みを深くした。







 穏やかな日々は、あっという間に半年、また半年と過ぎて行った。気付けば芙澤(ふたく)入内(じゅだい)してから、間もなく二年が経とうとしていた。


 その間、思い出したように時折、皇帝は彼女と床を共にしたが、彼女の身体に変化は起こらない。彼女の後宮入りを推薦した大貴族からも、連日矢のような催促が届いていた。同時期に後宮に入った妃たちからは、相次いで吉報が届き始めている。寵妃である(おう)(おう)雅妃(がひ)も一度身ごもったが、二月で子は流れてしまった。嘆く彼女を、皇帝は幾日にもわたって慰めたそうだ。


(私は、子が授かれない身体なのかも知れない……)


 半ば諦めの気持ちで、芙澤は蕙蘭(けいらん)との交流を楽しんでいた。日々成長していく昭瑶(しょうよう)皇女の姿を見守ることも、芙澤の生きがいになっている。彼女は利発に育ち、いつも母の隣で難解な書物を広げていた。内容に不明があれば母に尋ね、蕙蘭も穏やかに答えてやる。


 その姿は芙澤の憧れで、──時折、心の最も柔らかい部分を容赦なく刺し貫いた。自分の心の奥底に潜む、思わぬ黒い部分に彼女は狼狽(ろうばい)し、懸命に意識を逸らし続けた。




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