1・都への誘い
比奈姫と呼ばれた少女が、台所へ行ってみると、そこでは篁の供をして来た少年ー小野貞樹が桶に入った湯へ、気持ち好さそうに足を浸けていた。
「お久しぶり貞樹兄様、寒かったでしょう。」
「やあ比奈姫、そんなに久しぶりでもないだろう、 先月も来たんだから!
でもこの辺は春になっても、都よりはまだ寒いね。それよりお祖母様はやっぱり行かないのかい?」
「ええ、私と乳母だけ。」
「それでお祖母様は寂しくないのかなあ、君も心配だろうに。」
「もう何度も話し合って決めたことですもの。それに今生のお別れと言うのでもなく、私も折を見ては時々里帰りするつもりだし。」
「前から思っていたけど、君はお祖母様にとって、たった一人の孫娘で、一人娘の忘れ形見で、今となってはたった一人の肉親でもあるのに、えらくあっさ,りした仲だね。」
尤も貞樹はその理由を、大体知っていたのであるが。
比奈姫の母方の祖母はかつて、岑守公が陸奥守だった頃に現地で娶った、出羽の国の郡司の娘だった。
向うで女児が一人産まれたため、岑守公は任期後も母娘を京へ連れ帰ったのだが、その頃はまだ北の方が存命だったため、いきなり本邸へ入れる訳にも行かず、しばらくは母娘を山科の別邸へ留め置いたのだった。