Episode4
海岸でもひときわ大きな岩の近くで水しぶきがあがる。
体にまとわりつく海水のせいで、身体が重い。
羽毛が水をはじき、水面に体が浮かび上がる。
そのままでは身動きを取りづらいので、僕は早々に羽を閉じた。
くるりと身体を反転させ、仰向けで水面に浮かぶ。
何度目かわからない落水に、ため息をつく。
良く晴れた青空には、一本の雲が直線状に伸びている。
飛行機のあまり飛んでいないこの地上では珍しいことだった。
波の動きに身をゆだねたまま、瞼を閉じる。
このまま死んだらどうなるんだろうか。
飛ぶ練習をしていて死んだなんて笑われるかもしれない。
死んでしまったら、他人に笑われたかどうかなんてわからないけれど。
気がついたときには、全身が完全に海中に沈んでいた。
腹のあたりが重い。
僕の口から噴き出た空気が、バラバラになって海面に向かって泳いでいく。
腹が一番深く、手足は水面に近い。
体をくの字のように曲げた状態で海中に沈む。
自分の身に何が起きたのかは、簡単に想像がついた。
あの野郎。
カニルが僕の腹を思い切り蹴ったのだ。
僕は体制を立て直すと、両手を顔の前で掻いて海面に向かって泳いだ。
海中から顔を出すと、日差しを遮るものは何もないはずの場所にも関わらず、影が差している。
大きく息を吸って呼吸を整える。
「おー、生きてた」
僕の頭上でホバリングしていたカニルは、浮き上がってきた僕の姿を一目見ると、その場でくるりと一度旋回し、早く戻ってこいよと言いながら海岸の方に飛んでいった。
いつか必ず、あいつを海に突き落としてやる。
そう僕は心に誓い、カニルの後を追うように海岸に向かって泳いだ。
砂浜まで着くと、Tシャツの裾を絞った。
太陽で熱された砂が足に張り付く。
長時間砂浜にいることはできなそうだった。
僕はそのまま芝生の方に歩みを進める。
点在している木のうち、一番大きな木の下にカニルが寝そべっている。
頭の後ろで手を組み、木陰の隙間から空を眺めているようだった。
僕はカニルの横に腰を下ろす。
「お前って、いつか飛べるようになんの?」
カニルは僕に視線を合わせるわけでもなく、つぶやくように言った。
「わかんない、まだ飛べたことないから」
僕がバサバサとTシャツの腹のあたりを掴んで煽ると、水しぶきがあたりに飛んだ。
「いつまで続けるんだよ」
視線だけ僕の方に送って尋ねる。
「いつまでって、できるまでに決まってるだろ」
カニルは勢いよく上半身を起こすと、僕に目線を合わせた。
「お前、街のやつらから自分が何て言われているのか知ってんのか」
「ああ、それなら知ってるよ」
ついでにそいつらをお前が殴ったことも知っている、と僕は口に出そうとしてやめた。
「言わせておけけばいいんだ、僕のことはあいつらには関係ない」
「関係ないって言ったって…」
「ほっとけ、お前はいろんなことを気にしすぎだよ」
僕はTシャツを煽る手を止めた。
カニルはそれ以上、話を続けはしなかった。
しばらくの間、2人とも無言で空を眺めていた。
「お前、何で空飛びたいの」
カニルがポツリとつぶやく。
「なんでって、それは、翼があるからだろ」
僕は当たり前のようにそう答えたが、カニルはどうやら腑に落ちていなさそうだった。
「俺は自分から望んで施術受けたけど、お前はそうじゃないだろ」
カニルはカラスのwingsだった。
18歳で自分で望んで施術を受けたらしい。
本来カラスのwingsは、政府の偵察部隊として働くことになる。
知能や身体の能力が高いだけでなく、黒い体は闇夜に身を隠すのに都合がいい。
特に地上での隠密行動に向いていた。
カニルに黒い翼が発現した時、政府の役人はすぐに偵察部隊候補生として迎え入れる準備をした。
一般的に、偵察部隊候補生はポロスに呼ばれ、適性検査や身体検査を受けたのち、特殊な訓練を受ける。
カニルも他の候補生と共にしばらくの間、ポロスで生活していたらしい。
ところが数ヶ月後、完全な鳥型としての形態を手に入れた頃、カニルは候補生から外されることになる。
全身黒色の羽毛で覆われたカニルの嘴は、黄色だったのだ。
それ以外の適性は何の問題もなかったそうだが、目立つ色を持つ鳥類は偵察部隊には入れられないとのことだった。
候補生から外されたカニルは、天上には行かず、現在は地上で郵便配達員として働いている。
「あるものは使いたいと思っているだけだよ」
僕がそう返すと、カニルはまっすぐに僕の目を見つめ返した。
「腹立ったりしねぇのか、自分の境遇に」
カニルが珍しくまじめなトーンで僕に話しかける。
「いや、別に。人と違うなんて、むしろラッキーだ」
僕が何の迷いもなくそう答えると、ずいぶんポジティブだな、とカニルが笑った。
「ラリー。いっそ翼なんてなかったら、今みたいな努力する必要だってなかったんじゃないか」
何度も落水した僕を見ていたカニルも、何か思うところがあったのだろうか。
「努力?」
僕は目をぱちぱちと数度瞬かせる。
「カニル、お前は僕が空を飛ぶ練習をしているのを努力だと思っているのか」
それを聞いたカニルは、不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
「違うのか?毎日、同じこと何度も繰り返して。本当に飛べるようになるかもわからないのに」
僕は、Tシャツを触りながら、生地の乾き具合を確認する。
どうせまた濡れてしまうのだから、そろそろもう一度崖の方に行こうかと考えながら、立ち上がった。
「違うよ、僕はただやってるだけだ」
「やってるだけ?」
カニルは僕がまた崖の方に向かうことを察して、少しだけ上半身を僕がいる手前の方に傾ける。
「そう、できるようになるまで、できないことをやってるだけ。努力とかじゃない。別に嫌なことを無理やりさせられてるわけでもないし」
僕はそう言うと、再び崖の方に向かって歩き始めた。
背後でどさっと音が聞こえる。
カニルがまた寝転んだのだろう。