第9話:ミカエル、観察者の迷い
天界の夜は、音がしない。
星々のきらめきさえ、静かに、無音のまま降り注ぐ。
私は学院の図書室で、ページの隅をそっとめくっていた。
借りたのは、魔力制御の基礎入門書。
だけど、内容が難しすぎて頭に入ってこない。
(魔力って、筋肉と似てる……の? 鍛えれば増えるの……?)
……正直、地上で覚えたExcelの関数のほうがまだ優しかった。
「……やはり、まだ不安定か」
ふいに、空気が揺れた。
気配を殺すように現れたのは、銀の髪と淡い蒼の瞳を持つ天使——ミカエル・システム。
その姿を見た瞬間、背中がぴん、と伸びる。
(な、なにこの人……また超然系……)
ミカエルは無言で近づき、本の背表紙をちらりと見やる。
そして、ため息をついた。
「その本の内容は、君の魔力波長では非効率的だ。読み進めるなら、こちらの“波動共鳴式”のほうが適している」
そう言って差し出されたのは、別の参考書。
私がまごついて受け取ると、彼はそれ以上何も言わず、背を向けた。
「……ありがとうございます。あの、もしかして……先生、なんですか?」
問いかけに、彼は振り返らない。
けれど、小さな声が返ってきた。
「私は、観察者に過ぎない」
(観察者……?)
ミカエル・システム。
天界の執行補佐官であり、至高神エリュ=ディオスの側近。
記録と秩序を司る“天界の刃”。
そして——私の存在を、“誤送信された魂”だと知る数少ない存在。
……本来なら、感情など持ち込む余地のない立場の人だった。
けれど。
最近の彼は、私を“記録上の存在”としてではなく、どこか“個人”として見ている気がする。
それは、視線の温度。
声の抑揚。
ほんの一瞬の、表情のゆらぎ。
──まるで、私のことを“判断しきれずにいる”みたいだった。
「……あなたは、ずっと監視してたんですか?」
恐る恐る聞いたその問いに、彼は答えた。
「監視ではない。“経過観測”だ。君の魂は、本来あり得ない成長曲線を描いている」
「成長……?」
「人間界での記録、すべて閲覧した。“絶望的な試練”を生き延びながら、君の魂はひとつも汚れていない。……それが、異常だ」
淡々と語るその声に、私は思わず言ってしまった。
「……そんなの、私だって望んでなかった」
ぴたりと、空気が止まった。
「死ぬほど頑張って、必死で、やっと生きてただけで……それなのに、“異常”って言われるなんて、報われなさすぎませんか……?」
ミカエルは、ふと足を止めた。
それから静かにこちらを振り返り、はじめて——ほんのわずかに、目を細めた。
「……報われるべきか否かを、私は判断できない」
「でも、誰かがそう言わなきゃ、ずっと“異常なまま”なんですよ」
小さな、でも精一杯の反論だった。
私にしては、珍しくぶつけた本音。
その言葉を受けて、ミカエルはしばし沈黙したまま——ぽつりと、呟いた。
「……やはり、私は……まだ迷っているようだ」
その声音は、どこか人間らしくて。
今まで“冷たい刃”だと思っていた彼の姿が、少しだけ違って見えた。
そして彼は、もう一度だけ言った。
「君の魂が今後どう変化するか。……見届けることに、意味はあるかもしれない」
それが、警告なのか、興味なのか、感情なのか。
そのときの私には、わからなかった。
でもきっと——
この人もまた、誰よりも“自分の役割”に縛られている人なんだと思った。
だからこそ、ふと漏れたその“迷い”の一言が——
少しだけ、あたたかかった。