第8話:ゼオ=ヴァルトレイス、優しい仮面の宰相
その日の学院は、いつもより静かだった。
ざわつく生徒たちの声も、羽音も、まるで何かを“待っている”ような、張り詰めた空気に包まれていた。
「今日はね、中央評議会の“宰相様”が来るんだって」
朝の教室で、アリエルがそっと耳打ちしてくれた。
「視察って名目だけど、たぶん、ユナのこと……見に来るんだと思う」
「……え?」
「うん。神託の智天使が、ちゃんと“記録通り”の存在かって」
アリエルの表情は、どこか曇っていた。
私の肩をポン、と軽く叩きながらも、その目は窓の外に向けられている。
「だから……あまり一人にならないで。ね?」
(なんだろう、この胸のざわざわ……)
──それから、昼下がりの校舎。
私が書庫棟と実技棟の間を抜けて中庭に差し掛かったときだった。
「……やあ、智天使ユリエルさん」
ふいに、すぐ背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには——
琥珀色の瞳を持つ青年が、柔らかな微笑を浮かべて立っていた。
銀灰の長髪を低めに結い、深い青の外套をまとったその姿は、どこか神殿画から抜け出してきたような気品と静謐さを纏っていた。
「は、はい……あなたは……?」
「ゼオ=ヴァルトレイス。天界中央評議会の宰相を務めています」
そう名乗った彼は、私に一礼しながらも視線をそらさなかった。
その目は、やさしいのに、どこか底が知れなかった。
「突然ごめんなさい。ただ……あなたを、ひと目見てみたかった」
「……私、何か……しましたか?」
「いえ。あなたの魂が、“とても興味深い揺らぎ”を持っているんです」
彼は、まるで楽譜のように私を見ていた。
「本来、魂というのは清浄であればあるほど、波動は均一になります。けれど——」
言葉を区切り、ゼオはふっと目を細めた。
「あなたは、整っていない。なのに、どこか綺麗だ」
(……どういう意味?)
「あなたの魂は、実に面白いノイズを含んでいる。……どうか、大切にしてくださいね」
その言葉は、悪意をまるで含んでいなかった。
むしろ、初めて会った誰かにかけてもらった言葉の中で、いちばん穏やかだったかもしれない。
(この人、……いい人かも)
そう思いかけた、その瞬間——
「ゼオ宰相」
すっと間に割って入ったのは、アリエルだった。
まるで風のように現れた彼女は、私の前に立つと、ゼオを見上げて小さく頭を下げる。
「ご視察、ありがとうございます。ただ、ユリエルさんは現在“適応期間”中です。あまりご負担にならないよう、ご配慮いただけると」
「……ああ、もちろん。これは私の好奇心からくる、ほんの挨拶です」
ゼオはやわらかく笑いながらも、アリエルの目をじっと見つめた。
アリエルの指先が、ほんのわずかに震えていた。
(……アリエル?)
「それでは、またお目にかかりましょう。……ユリエルさん」
ゼオは去り際、最後にもう一度だけ、私を見つめて微笑んだ。
まるで——何かを“確認するように”。
彼の背中が遠ざかっていくのを見送った後、私はアリエルの方を向いた。
「……アリエル、どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。ただ……」
彼女は少しだけ表情を曇らせ、ぽつりとつぶやいた。
「なんだか、寒い風が吹いた気がしたの。あの人、……ぜったい、優しいだけじゃない」
その言葉が、胸に残った。
ゼオ=ヴァルトレイス。
“優しい宰相”と呼ばれるその人の瞳の奥に、私はまだ、何も見抜けていなかった。
でもアリエルの直感は、たぶん正しい。
──この出会いが、静かなる嵐の始まりだった。