第7話:ナオとの静かな邂逅
その日の昼休み、私は図書館にいた。
賑やかな学食も、煌びやかな中庭も、教室のざわめきも——すべてが遠く感じた。
静かで、冷たくて、本の匂いしかしないこの場所は、今の私にはちょうどよかった。
(……誰にも、気づかれたくない)
誰にも嫌われたくなくて、でも誰にも好かれたくなくて。
透明になれたらいいのにって、そんなことを思いながら、私は開いた本に目を落とした。
だけど、文字はほとんど頭に入ってこなかった。
「……君、ここにいると落ち着くね」
ふいに、声がした。
静かな、低くて、やわらかな声。
顔を上げると——そこには、ミルクティー色の髪を揺らした男の子が立っていた。
「え……?」
彼は、ゆっくりと私の向かいの席に座る。
特に許可を求めるわけでもなく、
けれど傲慢さもまるでない、不思議な空気を纏っていた。
(この子……見たことある)
学園のどこかで何度か目にした記憶があった。
華やかさとは無縁なのに、なぜか人目を引く存在。
「……ごめんなさい、ここ、使ってましたか?」
「ううん。僕が勝手に座ったんだよ。……なんとなく、君のそばが静かだったから」
彼の口調はどこか曖昧で、でも心地よかった。
声も、目も、動きも、まるで“風のない時間”みたいに静かだった。
「君、ユリエルさん……で、いいのかな?」
「……はい。そう、呼ばれてます」
本当はユナだけど。そう言いかけて、飲み込んだ。
「僕は、ナオ。ナオ=アストラリア。……たぶん、同じ学年だと思う」
「……アストラリア、さん」
「ナオでいいよ。さん付けとか、苦手で」
それきり、彼は本を開いた。
私は、そのページの端に目を落としながら、ほんの少しだけ、彼を観察した。
(不思議な人……)
静かなのに、寂しそうじゃない。
優しそうなのに、近寄りがたい。
距離感が、ちょうど“痛くない”場所にある。
それが、今の私には、救いだった。
「……ここ、好きなんですか?」
自分でも驚くほど自然に、言葉が出ていた。
ナオはページから目を離さずに、ふっと笑った。
「うん。ここ、誰も期待してこないから」
「……え?」
「君が何者かとか、どこから来たかとか、名前とか地位とか。そういうの、全部関係ない。
本のページは、ただそこにあって、誰にも何も押しつけてこない」
その言葉が、胸にしみこんできた。
私も、そう思っていたから。
期待されることも、試されることも、もう疲れていたから。
「……私も、ここが好きです。静かで、……落ち着くから」
ナオは、私を見た。
まっすぐでもなく、鋭くもなく、ただやさしく見つめる瞳だった。
「君がここにいると、空気が柔らかくなる気がする」
「……え?」
「ふふ、ごめん、なんとなく。変なこと言ったね」
私は、首を横に振った。
「ううん。……ありがとう、ございます」
ありがとう、って。
本当は、何に対する“ありがとう”なのか、自分でもわからなかった。
でも。
この日、私は気づいた。
“好き”でも“嫌い”でもなく、“関心”でも“無関心”でもなく。
ただ、そこにいてくれる人が、この世界にもいるということを。
ナオ=アストラリア。
彼はこの日、私にとって——“心の余白”をくれる最初のひとになった。
──それが、何を意味するのかは、この時まだ知らなかったけれど。