第54話「二つの命令、閉ざされた扉」
放課後の風が、ガラス越しにやさしく吹き抜ける。
ユナは、アウリオン・セレスティア高位天使育成学院の中庭で、手帳を片手にしゃがみこんでいた。
「ナオくん、こっちこっち!」
ふと声を上げると、木陰からナオが歩いてくる。以前より穏やかになった表情、けれどどこか——まだ不安定な光を含んだ瞳。
「……呼び出されたかと思ったら、何これ」
「えへへ……青春っぽいこと、しようって思って」
彼女が差し出したのは、小さな“青春バケットリスト”と書かれたノート。
「……なにこれ」
「やってみたいこと、ぜんぶ書いてみたの。放課後、屋上で紅茶飲むとか、一緒に花壇を直すとか、あと……」
ユナが恥ずかしそうに指でページをめくると、そこには「一緒に好きって言ってみる」と手書きで綴られていた。
ナオは、一瞬沈黙したまま、それでも小さく笑った。
「……そういうの、嫌いじゃないかも」
二人は、並んで花壇の縁に腰を下ろす。
まだ言葉にしきれない思いが、空気の中にただよっている。触れたいのに触れられない。けれど、それでも“手を伸ばす勇気”が、この時間を包んでいた。
「……でも、もし……また私が、消えたらどうする?」
「……それは、俺のセリフ」
ナオはぽつりと答えた。
「ユナ。俺、まだ自分の中にある“何か”が怖いんだ。——でも、君がいると、ちょっとだけ、それが許せる気がする」
ユナはその言葉を聞き、黙って彼の手にそっと触れた。
ほんの短い青春。
——けれど、その空の下に、確実に暗い影が迫っていた。
***
天界・中央評議会。
荘厳な空間に、冷たい沈黙が流れていた。
中央の壇上に立つのは、ゼオ=ヴァルトレイス。
銀白の書簡を掲げたその手は、一切の躊躇を見せない。
「……本日付で、記録改ざんの疑義、および“神の意図への背信”の恐れにより、二名の対象に対する処分命令を提出する」
評議員たちがざわついた。
「対象は——」
沈黙を裂くように、ゼオは告げた。
「——ユリエル(=ユナ)および、ナオ=アストラリア。両名の記録は、神の定める運命に反して存在している。記録者として、私はその矛盾を看過できない」
一部の議員が立ち上がった。
「しかし、ユリエルは“神の実験枠”だと報告されていたはず……!」
「報告と“記録”は別だ。——記録には、最初から存在していなかった」
ゼオの声は淡々としていた。まるで、それが唯一の正義であるかのように。
「存在しないものが、存在する。これは、記録秩序における重大な錯乱。——修復には、排除が最も合理的だ」
その瞳には、もはや迷いはなかった。
しかし、その背後には誰も知らない“感情の断片”が存在していた。
——ゼオの中にあったのは、“羨望”だった。
完璧な秩序の中にいながら、彼には「誰かの名を叫び、誰かを想い、誰かと過ごす“未記録の時間”」を持つことが、できなかった。
だからこそ。
彼はそれを否定することでしか、自身の存在の正しさを証明できなかったのだ。
***
学園の夕焼け。
ユナとナオはまだ知らない。
自分たちが、“秩序から除外される”決定がなされたことを。
だが、その直感だけが、ユナの胸にわずかな不安を落としていた。
「ナオくん……」
「ん?」
「なんでもない。ただ……今、こうしていられて、よかったって思っただけ」
ナオは、小さくうなずいた。
「……だったら、せめて、あと10分くらい青春させて?」
「ふふ、いいよ。わたしも、もうちょっと……“好き”って言う練習、したかったから」
遠くの空に、天界の鐘の音が響く。
その音が“警鐘”であることに、まだ誰も気づかないまま——




