第53話「君の涙、わたしに返して」
学園祭準備が佳境を迎えた夜、学院の中庭は静かだった。
灯火がぽつぽつと揺れ、草木がささやくように風に鳴っている。天界の夜は澄みきって、星々のきらめきが地面に影を落とすほどだった。
その中央——。
泉のそばに佇むアリエルは、ひとり、空を見上げていた。
「……ミゼル」
小さな声が、風に溶ける。
その名を呼ぶたびに、胸が痛む。天界では語られない存在、魔界の青年。かつて出会い、心を通わせ、そして別れた——。
彼女のそばに、水面をわずかに揺らす気配があった。
「……呼んだ?」
その声に、アリエルは振り向いた。
そこにいたのは、黒衣に身を包みながらも、どこか穏やかな微笑をたたえたミゼルだった。
「……本当に、来てくれたの……?」
「うん。君がここにいるって、知ってた」
彼はそう言って、少し離れた場所に腰を下ろした。二人の間には、泉を挟んだ静かな空間があった。
「ユナと一緒に、君は変わったね。前より、笑ってる」
「……笑えるようになった、の。ユナがいてくれたから。……でも、それだけじゃない」
アリエルは、そっと自分の胸に手を当てた。
「ミゼル。私ね、少しずつ……思い出してる。地上で見た夢の中で、私は何度もあなたを呼んでたの」
「……夢?」
「“再生者”って……知ってる? 私、そうかもしれないの」
ミゼルの瞳が揺れた。
「再生者……君が?」
「確証はない。でもね。確かに覚えてるの。“あなたが泣いていた”のを。何度も、何度も……」
アリエルは、泉の水をすくい上げるように手を差し出した。
「ねぇ、ミゼル。あなたが流したその涙、私に返して?」
「……それ、どういう……」
「あなたの悲しみを、少しだけでも、私が持っていきたいの。だって、あなたが泣いてるなんて、もう見たくないから」
ミゼルの表情が、ふっと緩んだ。
「……やっぱり、君は変わらないね」
彼は立ち上がり、ゆっくりとアリエルの手を取った。
その手のひらには、小さく、透明な水の珠があった。それは、彼の魔力と共に滲み出た“記憶の涙”。
「ありがとう、アリエル。君に返せるものなんて、ないと思ってた。でも……」
彼は彼女の額にそっと手を添え、目を閉じた。
「これが、僕のすべてだ。……君の中に残ってくれたら、それだけでいい」
星の光が、ふたりを包んだ。
沈黙の中、心が触れ合うような感覚だけが、そこにはあった。
***
遠く、天界の塔の上で——
その光景を見守るもうひとつの影があった。
ゼオ=ヴァルトレイス。
彼の目は、冷たく光を失っていた。
「再生者が、もうひとり……」
その呟きが、夜に消えていく。




