第40話「ナオ、涙の覚醒……ユナ、なのか?」
暗く、閉ざされた牢の中で、
ナオの胸に宿る光が、ほんのわずかに揺れた。
きっかけは、カモミールと柑橘の香り。
微かに残っていた“記憶のぬくもり”が、ユナの声に重なったから。
けれどそれでも、彼はまだ戻ってこれなかった。
無感情に凍りついたその目は、ユナの涙を映しても、心まで届かない。
「ねえ……覚えてるでしょ……ナオくん。あなたは、あんな目をする人じゃなかったよ……!」
ユナは、格子の外から叫び続けた。
喉が枯れても、胸が裂けそうになっても、言葉を届けようとした。
「自分を閉じ込めないで……! 私は、そこから連れ戻しに来たんだよ……!」
それでも、ナオの表情は変わらない。
魂の奥に深く深く、封印されていた。
けれど——
「……本気で、言ってる?」
その時、低く、だが怒気をはらんだ声が背後から響いた。
リリィだった。
腰に手を当て、眉を寄せたまま、ナオを睨みつけている。
「なにその顔。あんた……本気で、ユナの声が届いてないわけ?」
ユナが何かを言おうとしたが、リリィがそれを遮るように前に出た。
「私はね、バカみたいにずっと“理想の推され像”を演じてきたの。
愛されるためには、笑って、媚びて、裏で泣いて……それでも、誰にも見てもらえなかった」
声が震えていた。
「でも……それでも! ユナだけは、あたしの“本当”を見ようとしてくれた。
あんた、そんな子に……! 無反応でいられるわけ!? それで男かよ……!」
リリィの怒りは、激しさではなく、切なさに変わっていった。
「……ナオ。あんた、ほんとは優しいやつだって、あたし、知ってるから……」
静かに、でも確かな痛みを帯びて、言葉が届く。
「だからこそ、腹が立つんだよ。……どうして、そんな顔してんのよ……!」
リリィは後ろを向いた。
その肩が、かすかに震えていた。
ユナは、その背中を見つめたあと、ゆっくりとナオに向き直る。
「ねえ……私、信じてるんだよ。
あなたの中に、あの時の“やさしい光”がまだあるって……」
そして、牢の隙間から、手を伸ばした。
「戻ってきて……ナオくん。
……私、あなたが笑ってくれるなら、全部あげられるくらい……」
その時だった。
ナオの目が、ふるりと揺れた。
まるで、冬の水面に落ちた雫のように、小さく、静かに。
そして、彼の喉から、微かな声が漏れた。
「……ユ……ナ……?」
ユナが、息をのんだ。
ナオの身体が、僅かに震え出す。
抑え込まれていた感情が、封印の内側から揺さぶられ、軋むような音とともに——
「っ……ユ、ナ……ユナ……ッ!」
まるで、長い夢の中から目覚めたように、ナオは両手で頭を抱え、崩れ落ちた。
「……どうして……俺、ずっと……怖くて……声も出せなくて……!」
涙だった。
閉ざされていた感情が一気に押し寄せ、ナオの瞳からあふれ出す。
その叫びに、ユナは迷わず扉に駆け寄り、鍵もないのに全力で格子を揺らした。
「大丈夫、大丈夫だよ……! 私はここにいる……! もう、離さない……!」
その瞬間——
魔界の地下牢に張り巡らされていた封印が、爆ぜるような音を立てて砕けた。
金色の光がナオの身体を包み込み、
重く冷たい魔力が剥がれ落ちていく。
牢の扉が、きぃ……と音を立てて開いた。
ユナは、迷わずナオを抱きしめた。
ナオも、震える腕でユナを抱き返す。
「……やっと、君に……会えた」
その言葉とともに、ナオはユナの肩に顔を埋め、嗚咽した。
*
だが——その瞬間だった。
地鳴りのような風圧が牢を揺らし、
ナオの背から、光とも闇ともつかない“別の次元の力”が溢れ出す。
「っ……なに……この力……!?」
ユナが目を見開く。
空間が、音を立てて軋んだ。
次元がゆがむ。天界にも、魔界にも存在しない“絶対的な力”が、周囲の法則を捻じ曲げる。
それは——ルシフェルの記憶。
かつて天界を離反し、魔界を拒絶した、“神に愛された最初の存在”の覚醒だった。
「やばい……っ、これは……ナオくん、だめっ……戻って!」
ユナは、暴走する光の中、必死にナオを抱きしめる。
「あなたは人間だよ! 私の知ってる、優しくて、さびしがり屋で……でも強い人!」
ナオの中の狂気が、一瞬、静まった。
「私は、あなたが……“この世界のどこにもいない存在”でも、受け止める……!
だから……戻ってきて、ナオくん……!」
その言葉が、嵐の中心に届いた。
ナオの両腕が、ユナの背中を抱き返した。
空間の歪みが止まり、圧倒的な力が収束していく。
ユナの叫びに、ナオの目がふるえる。
そして——暴走の光が、ふっと、静かに収まっていった。
ユナの腕の中で、ナオはかすかに息を吐いた。
「……ありがとう……ユナ……」
*
遠く、戦場からようやく駆け戻ってきた四煌たちは、
封印が砕けた痕跡と、空間の異常を感じ取り、足を止めた。
「間に合わなかったか……いや……間に合ったんだな」
セラ・ルクシオンが、茫然とした表情で呟く。
「……あれが……ルシフェル……?」
「いや……」と、シュリが眼鏡を押し上げた。
「“ナオ”という……誰の定義にも属さない存在だ」
その場から少し離れた塔の影で、
リリィが、誰にも見られないように、そっと目元を拭っていた。
「……まったく、あたしの出番、なくなっちゃったじゃん……」
そうつぶやいた唇が、かすかに、笑っていた。