第37話「ミゼルの涙、『天使って、ズルい』」
──これは、心を閉ざした悪魔の少年と、天使の少女の、はじまりの会話。
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セリオスが去ったあと、ユナたちはしばしその場に立ち尽くしていた。
重たい余韻。
その毒のような言葉が、まだ空間に残っている気がして、誰もすぐには口を開けなかった。
だが、不意に足音が響いた。
「……誰か、見てたみたいよ」
リリィが眉をひそめ、視線を横に送る。
視線の先、瓦礫の影から覗いていたのは、小柄な悪魔の少年だった。
赤みのある黒髪。やせ細った体に、ぼろのマント。
その瞳はまるで、すべてを諦めた者のように濁っていた。
「なに……? 監視役?」
アイリスが警戒して一歩前へ出るが、少年はひょいと身を引いてから、ぼそりと口を開いた。
「……あんたら、セリオスの奴とケンカしてたのか?」
「あなたは……誰?」
ユナが声をかけると、少年は小さく眉をひそめた。
「ミゼル。……ただの、役立たずの悪魔だよ。俺なんて、誰からも推されなかった」
その言葉に、リリィがわずかに反応する。
ミゼルは続けた。
「見てて思った。あんたたち、すげぇな……あんなのに歯向かって」
「……褒めてくれてるの?」
アリエルがそっと笑う。
ミゼルは目をそらす。
「別に……ただ、あいつの言ってたこと、全部“本当”なんだと思ってたから」
その背中に、アリエルが歩み寄る。
「ミゼルくん、少しだけ話、できるかな?」
「……俺と話しても、意味ないよ。俺なんて、ただの“誰にも必要とされなかった失敗作”だから」
「それでもいいの。私、あなたに“知りたいこと”があるの」
「……知りたい?」
「うん。“あなたのこと”」
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場面は少し移って、魔界の外縁——崩れた市壁の陰。
アリエルは瓦礫に腰を下ろし、ミゼルにおにぎりを差し出していた。
「少し塩きついかもだけど……どうぞ」
ミゼルはそれを受け取らず、アリエルの顔をじっと見つめた。
「天使って……なんでそんなことするの?」
「ううん、天使だからじゃないよ。私が、そうしたいだけ」
「……意味、わかんない。そんなの、優しさじゃない」
ミゼルはぽつぽつと語り出した。
魔界の教育施設で“劣等”と判断されたこと。
力も魔力もなく、誰からも“期待”されず、見下され、笑われた日々。
そんな彼にとって、“愛される”とか“認められる”という言葉は、遠すぎる光だった。
だから、彼はいつの間にか“何も感じないこと”に慣れていた。
「嬉しいも、悲しいも、悔しいも……どうせ全部、消えるもんだから。
最初からない方が、マシなんだよ」
そう言ったミゼルの手が、かすかに震えていた。
アリエルは、その手をそっと包むように握った。
「消えないよ。だって今、君が感じてること——私に、ちゃんと伝わってるもの」
「……っ!」
ミゼルは肩を震わせた。
あたたかい手のひら。
ほんのりとした塩の匂い。
ぼろぼろの心に、じんわりと染みこんでくるような、やわらかい何か。
「ずるいよ、天使って……なんで……そんなの、ずるいよ……」
ポタリ、と。
彼の頬に、初めての“涙”が落ちた。
彼自身も、それに驚いたように目を見開く。
「……あれ……これって……こんなに、熱かったっけ……?」
アリエルは、微笑んだ。
「うん。きっと、心がまだ“生きてる”から」
ミゼルの目が、静かに揺れた。
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そのやりとりを、廃墟の高台から見つめる者がいた。
リリィ=ヴァンファム。
彼女は煙草のように細いキャンディスティックを咥えながら、視線を細める。
「……あの子、泣いたんだ」
ぽつりとつぶやいた声に、風が通り抜ける。
そして、誰にも聞かれないような声で——
「なら、あたしも……まだ間に合うのかもね」




