第36話「セリオスの契約、魔界の欲望」
——その男は、まるで香り立つ毒のように現れた。
ナオの眠る牢屋から通じるもう一つの通路——封印区画の奥。
ユナとリリィがその場所を離れようとした時、空気が妙に甘く粘つき始めた。
「気をつけて、ユナ」
リリィが腕を広げ、ユナの前に出る。
この“気配”は、ただの悪魔とは違う。
やがて現れたのは、漆黒の衣を身にまとい、銀糸のような髪を流した男。
唇に浮かぶ微笑みは、魅了と支配の境界線にある。
「初めまして、天使のお嬢さん。君が“ユナ”だね?」
彼の声は低く、響きは美しく、同時に不気味だった。
「俺はセリオス=ヴェル=ザファレイ。魔界王家第四位、愛欲の冠を継ぐ者」
「……目的は?」
ユナは一歩も引かない。だが、その背中にリリィの手が触れる。
「この男、危険。ゼオよりもタチ悪いよ」
セリオスは笑った。
「目的? 決まっている。君に“契約”を持ちかけに来たんだ」
「契約……?」
「君がナオを取り戻したいと思っているのは、知っている。
だが、心の封印を解くには、相応の“代償”が必要だ。
そこで提案だ。——俺と“口づけの契約”を交わせば、君の望む道を開こう」
言った瞬間、空気が震えた。リリィが即座に前に出る。
「ふざけないで。あんた、何様のつもり?」
「俺? “愛の王”様だよ?」
セリオスはくすくすと笑った。だが、その目には確かな魔力が宿っていた。
「これはね、ユナ。キスで契約を結べば、君の感情がナオの封印の鍵になる。
“君の愛”を代償にして、彼を目覚めさせるってわけさ。……もっとも、その愛は、契約と同時に俺の所有物になるけどね?」
「……そんなの、愛じゃない……!」
ユナが震える声で答える。セリオスは目を細めた。
「そうかな? 天使はいつも“純粋な愛”にこだわる。でも現実は違う。
欲望も、独占も、歪みも、ぜんぶ“愛”だ。君だって、ナオを“自分のため”に戻したいって思ってる。違う?」
ユナは息を呑む。
図星だった。けれど、それでも——
「……自分のためでもいい。
でも私は、ナオくんの意思を無視して、“救ったこと”にはしたくない。
彼が自分で“生きたい”って思ってくれるまで、待つ。私は、待てる」
その静かな言葉に、セリオスの笑みが一瞬だけ止まった。
「……ふぅん」
そして、彼はくるりと踵を返す。
「拒絶か。……残念だ。天界の女ってのは、理想を夢見て地獄を選ぶ。昔からだ」
その言葉に、リリィの表情が凍った。
「……セリオス。あんた、昔も誰かに“口づけの契約”を迫って、壊したよね。
推されたことがなかったあの子を、玩具みたいにして」
セリオスの背が、一瞬止まる。
「……そうだね。あれは、確かに。あの子は“推されたい”がために、俺にすがった」
「……」
「でも結果、あの子は“自分の価値”を見失って、壊れた。
俺が壊したんじゃない。あの子が、自分で壊れたんだよ。愛されたいと願った、代償にね」
リリィは、言葉を失った。
その瞳の奥には、確かに——自分の過去と重なる影が揺れていた。
セリオスは手を振るようにして、霧に消える。
「せいぜい、綺麗な幻想のまま、もがいてくれ。君たちの“推し”が、いつまで正気でいられるか……楽しみだ」
⸻
彼が去った後の沈黙の中。
ユナは深く息を吐いた。そして、そっとリリィの袖を引いた。
「……ありがとう。止めてくれて」
「……別に、あたしのためだよ」
リリィはそっぽを向きながら言う。だがその目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「昔の自分に、少しだけ……リベンジ、できた気がしただけ」
その横顔が、いつもよりずっと大人に見えた。
そして、牢屋の中で、ナオの指先がふたたび——ほんの少し、震えた。




