第35話「ゼオの囁き、『堕ちれば救われる』」
──もし、すべてを手放したら、楽になると思う?
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白でも黒でもない、感情さえ存在しない空間——そこに、ナオはいた。
名もない世界。過去も未来も存在しない、ただ“今”だけが無限に繰り返されるような“封印領域”。
その沈黙を破るように、男の声が落ちてきた。
「君の心って、ほんとに綺麗に整頓されてるよね。まるで何もなかったみたいに」
視界の端に、柔らかく笑う気配。
輪郭の曖昧な男——ゼオ=ヴァルトレイスが、悠々とナオの隣に立っていた。
「……気にしなくていいよ。君の今の状態じゃ、“俺のことなんてどうでもいい”って思ってるはずだし」
ナオは目を閉じたまま、微動だにしない。反応も、拒絶も、興味すらない。
ゼオはくすりと笑う。
「いいよ、そのままで。だって、感情なんていらないもの。
愛、希望、後悔、憧れ、罪悪感、自己嫌悪……。結局全部、苦しみの種なんだから」
そう言って、ゼオはふっと空を仰いだ。
「でもさ。君、ひとつだけ取り戻せる方法があるんだ。……“堕ちる”って選択肢を取ればね」
その言葉に——わずかに、ナオの眉が動いた。
「“天使であること”をやめれば、すべてから解放される。
君はただ、“誰かを幸せにしなきゃいけない”って思い込んでるだけだ。
そんな義務、誰が決めたの? 神? それとも、あの子?」
ゼオの声が、今度は皮肉混じりに揺れる。
「ユナ、だっけ。……君が想ってた子。泣いてたよ、さっき。
“間に合わなかったのかな”ってさ。自分を責めて、泣いてる。可愛いよね、そういうの」
その瞬間、ナオの睫毛がふるりと揺れた。
「だけど、かわいそうに。“君のせいじゃない”なんて言葉は、もう届かない。
だって君は、心の奥でこう思ってる。“守れなかったのは俺のせいだ”って。
そうだろ? ナオ=アストラリア」
ナオの胸の奥で、きしむような音がした。
だが、それを遮るように。
「黙って」
その声は、現実世界から響いてきた。
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牢の外、ユナの声がはっきりと響いた。
「……もういい。あなたが何を言っても、ナオくんの心を踏みにじる権利なんて、ない」
ユナは柵の向こうでナオに呼びかけながら、ゼオを真っすぐ睨んでいた。
いつの間にか現れていたゼオ。
彼はリリィの導いた通路から、まるで自然に立っていた。
「ずいぶんと、お綺麗な言葉を並べるじゃないか。
“愛こそが救い”だって? でも現実は違う。愛は人を追い詰める。
君だって、思ってるんじゃないか? “私さえいなければ”って」
ユナの瞳が揺れた。
「……それでも私は、彼のそばにいたいって思ってる。
彼が苦しんでるなら、少しでも痛みを分け合いたいって、思ってしまうの」
静かだけど、確かな声だった。
「それが“愛”か? 傲慢だね。君が満足するために、彼を引き戻したいだけじゃないのか?」
「違う……!」
ユナの声が震える。でも、その奥には確かな意志があった。
「私は……ナオくんが自分の意志で、“生きたい”って思えるその日まで、諦めたくないだけ……」
ゼオが、薄く目を細めた。
「……変わらないな、君は。愚かで、眩しい。まるで——」
「やめなよ、ゼオ」
遮ったのは、リリィだった。
いつもふざけた笑顔を貼りつけていた彼女が、今は違った。
その瞳は、燃えるように赤く、まっすぐゼオを睨んでいた。
「また、同じことを繰り返す気? 今度も、“光”を壊して満足するの?」
ゼオは少しだけ眉を上げた。
「……ふむ。まだ、その話を引きずってるのか、リリィ=ヴァンファム」
「忘れるわけないじゃん」
リリィは一歩踏み出し、柵の前に立ちはだかる。
「昔、あんたが言った言葉、今でも覚えてる。
“推されない者は、存在する価値がない”って」
「言ったね」
「でもあたし、違うって証明するから。
あんたが切り捨てた“価値のない推し”が、どれだけ大事なもので、どれだけ綺麗に輝くのか……」
ユナが、その背中を見つめる。
その声は、まるで“自分自身”に向けているようにも聞こえた。
ゼオは口角を上げる。
「なるほど。君もまた、愛されたがっている者のひとり……か」
そう言い残し、彼の気配は霧のように消えた。
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残されたユナは、再び柵の中のナオを見つめる。
「聞こえてたよね、ナオくん……私、あきらめないよ。
あのパンの味も、あのティータイムも、あなたの声も……全部、私にとっては宝物だから」
彼の指が、かすかに震えた。
リリィはそっと背後に立ち、つぶやく。
「……“価値がない”って言葉、あたしもずっと信じてたんだよね」
それは、過去の自分への弔いだった。
そして今、ふたりの少女は、それぞれの“推し”のために立ち上がっていた。




