第34話「封じられた微笑、牢の中のナオ
——命の火が、消えかけていた。
魔界の瓦礫都市。その地下に張り巡らされた忘却の回廊を、ユナとアイリスは必死に走っていた。
「ユナ! 右、来るわ!!」
アイリスの叫びと同時に、紫の瘴気を纏った魔物が天井から跳びかかってくる。
その姿は“牙の生えた影”。物理法則を無視する異形の存在だった。
「くっ——!」
咄嗟に結界を張るが、即席のそれは呆気なく引き裂かれる。
魔物の爪が、ユナの胸元をかすめた——その瞬間。
ズドン!!
何かが撃ち抜くような破裂音がして、魔物の頭部がはじけ飛んだ。
硝煙の匂いと、鋭く乾いたヒールの音。
「まったく……“天使”ってのは、なんでこう、ドジで純粋で、放っておけないんだか」
その声は、どこか甘く、でも棘のある響きだった。
振り向くと、そこにいたのは——
真紅の瞳を細め、ワインレッドと漆黒のツインテールを揺らす悪魔の少女。
「リリィ……=ヴァンファム……!」
アイリスが息をのむ。
ユナは、その姿を覚えていた。
霧の森での邂逅。敵か味方かわからない、でもなぜか“心がふれた”不思議な少女。
「おひさ〜。ちゃんと生きてた? まあ、今死にかけてたけど」
リリィは手にした漆黒の細身銃をくるくると回しながら、くいっと顎をしゃくってみせる。
「ったく……しょうがないから助けてあげたんだからね? 礼のひとつも言いなさいよ、ほんとに」
「……ありがとう、ございます……!」
ユナが深く頭を下げると、リリィはわざとらしくため息をついてみせた。
「も〜う、真面目か。あたしが負けた気になるじゃん。やめてよそーいうの」
「でも……どうして、ここに……?」
そう問うユナに、リリィは小さく笑った。
「ナオのこと、気になっちゃったからに決まってんじゃん。……推しが落ちてるなら、拾うのが筋でしょ?」
その“推し”という言葉には、以前よりも少しだけ、あたたかさが混じっていた。
「さ、ついてきな。あんたたちだけじゃ、この先の牢屋までは無理」
「牢……屋……?」
リリィは一瞬だけ、視線を伏せる。
「……あの子、閉じ込められてるのよ。自分の心ごと、ね」
そう言って、彼女は背を向けた。
ユナとアイリスは、その背中を追いかけるように、黙って歩き出した。
***
——魔界の地下は、静かだった。
瓦礫に埋もれた旧聖堂の奥。朽ちた礼拝堂の床下に隠された隠し通路を、リリィが先導する。
先を行く彼女の背は、どこか寂しげだった。
やがて、湿った空気と鉄錆の匂いが漂い始める。
通路の突き当たりに、古びた鉄格子の牢屋があった。
「ここよ。……あの子、ずっと黙ったまま」
リリィが囁くように言って、壁際に身を引く。
ユナは、ゆっくりと鉄格子の中を覗き込んだ。
——そこにいた。
ナオが、いた。
背を壁にもたれかけて、じっと天井を見つめている。
ミルクティー色の髪はぼさつき、光のない瞳は、まるで世界に興味を失ったように虚ろだった。
「……ナオ、くん……?」
呼びかけた声は、まるで霧に吸われたかのように、何の反応も返ってこない。
「ナオ……私、だよ。ユナだよ……!」
柵に手をかけて身を乗り出す。
そのとき——
彼が、ゆっくりと首だけを傾けた。
けれど、そこに“感情”はなかった。
無機質な視線。言葉もない。
ただ、「音に反応した」という程度の、反射的な動作。
「な……お……くん……?」
ユナの声が、かすれた。
涙がこぼれそうになるのをこらえて、手を伸ばす。
でも、届かない。届いていない。
——こんなの、ナオじゃない。
「彼、“感情”の一部を封印されてるのよ」
背後からリリィの声が落ちてくる。
ユナは振り返らなかった。ただ、ぎゅっと拳を握った。
「“感情”を……?」
「魔界の一部の術者が使うの。“心の鍵”って呼ばれてる術式。
その人にとって最も痛かった記憶の感情を、まるごと封じるのよ。……それが、救いになると思ってる」
「……そんなの……勝手すぎる……!」
「そうね。あたしも、そう思う」
リリィはそっとユナの隣に腰を下ろした。
霧のように柔らかな声で、続ける。
「見てて、辛いでしょ。大切な人が、大切じゃない顔してるのって」
その言葉に、ユナの涙腺が、ぷつんと切れた。
ポタリ、と。床に落ちた雫の音が、牢屋の中の沈黙を打ち破った。
「ごめんね、ナオくん……。
私……間に合わなかったのかな……」
そのつぶやきに、ナオがふたたび動いた。
ほんのわずか、眉がかすかに寄ったような——いや、きっと気のせいかもしれない。
でも、ユナにはそれが、世界でいちばん大きな希望に思えた。
リリィが、そっと肩を貸してくれる。
「……まだ、大丈夫。封印されたってことは、ちゃんと“そこ”に残ってるってことだもの。
あなたの声も、涙も——ぜんぶ、彼の中に届いてるはず」
ユナは目元をぬぐって、小さく頷いた。
「うん……ナオくんを、取り戻す。絶対に」
その言葉を、牢の中の彼が聞いていたのかはわからない。
けれど——
ほんの一瞬だけ。
ナオの目の奥に、かすかに光が揺れたように見えた。




