第28話:ゼオの誘惑「ユナを救えるのは、君だけだ」
天界の夜は、冷たく澄んでいた。
静けさに包まれた学園の屋上。
風に揺れる羽音だけが、遠く遠く、空の奥へと消えていく。
その屋上の端に、ひとりの少年が立っていた。
ミルクティー色の髪をなびかせ、星空を見上げる——ナオ。
(……僕は、何を……思い出そうとしてるんだ)
胸の奥が疼く。
あの夢の記憶。焼けるような羽根の痛み。
泣いている“彼女”の声。
誰かを、
何かを、
自分自身すら、裏切ったような……そんな罪の感覚。
そのときだった。
「こんばんは。こんな時間に、星を見上げるとは……詩的だね」
柔らかな声と共に、夜の風にまぎれるように現れた影。
ゼオ=ヴァルトレイス。
仮面のような微笑をたたえたまま、ナオの隣に立つ。
ナオは一瞬、警戒したように目を細めた。
けれど、ゼオは敵意など一切見せず、ただ穏やかに続けた。
「君は、まだ苦しんでいる。夢に見ているのだろう?
——かつて、自分が“誰”だったのかを」
「……っ」
ナオの肩が、わずかに揺れる。
ゼオの言葉は、まるで心の奥をそのまま言い当てるようだった。
「君の魂は、深く記録されている。否定しても無駄だ。
君は……“ルシフェル”だよ」
ナオの表情が凍る。
「……」
「思い出しつつあるだろう?
——光の階梯の記憶。
神に仕え、神に抗い、そして“堕ちた”天使の名前を」
ナオは唇を噛みしめる。
頭の奥で、確かに何かがきしむように軋んでいた。
光。羽根。炎。そして——ユナの涙。
「……君が選んだあの子を守れるのは、もう“神”ではない」
ゼオの声が、静かに鋭くなる。
「神は、秩序を守ることが正義だと思っている。
だが、君はもう気づいているはずだ。
——ユナは、この天界の秩序の“外側”にいる。
ならば、彼女を守るには、秩序に従うわけにはいかない」
「……それでも……僕は……」
「違うんだ、ナオ。
君を、君自身を“救える”のは……君自身しかいない」
ゼオがそっと、手を差し出す。
その手には、黒く輝く印——“契約魔印”が刻まれていた。
「さあ、選ぶといい。
君の理想と、君の愛のために——
“堕ちる”という選択を」
ナオは、その手を見つめたまま、動けなかった。
それが“堕天”の始まりなのか、それとも“自由”の第一歩なのか。
その答えは、まだ闇の中だった。




