第26話:ゼオ、ナオに接近「君の魂が、覚えている」
天界の午後は、光が静かに傾いていく。
それはまるで、どこかに見えない影を伸ばすように——気づかぬうちに、心の奥まで染み込んでいく。
学院の書庫裏、小さな中庭に面した静かな回廊。
その場所で、ナオはひとり、思索にふけっていた。
(……あの夢は、なんだったんだろう)
黒髪の少女。
雨の歩道橋。
言葉にならない想い。
そして——ユナ。
彼女を見ると、なぜか胸が痛む。
「……君の魂が、覚えている」
背後からふいにかけられたその声に、ナオははっと振り向いた。
そこにいたのは、いつの間にか現れた評議会の高官、ゼオ=ヴァルトレイス。
白銀の仮面をつけたその男は、静かに微笑んでいた。
「驚かせたかな。こんなところで、ひとり佇んでいるのを見て、つい」
「……何の用ですか」
ナオは表情を崩さず答える。だが、その指先には、わずかな緊張が走っていた。
ゼオは歩み寄り、ナオと距離を詰めながら、さらりと言った。
「君は、自分の正体を——もうすぐ思い出すことになる」
「……正体?」
「そう。今はナオ・アストラリアという名でこの天界にいるけれど——
その魂は、もともと“ルシフェル”という存在だったはずだ」
ナオの目が、見開かれた。
「……なぜ、その名を」
胸が、ぎゅっと軋むように痛んだ。
その名前には、言いようのない既視感があった。
光のような、でもその奥に潜む影のような。
(ルシフェル……)
まるで、ずっと忘れていた言葉を、急に耳元で囁かれたような感覚。
過去の断片が、音もなく脳裏に流れ込んでくる。
ゼオはその変化を見逃さず、さらに一歩、踏み込んだ。
「覚えているかい? 君はかつて——天界を去った存在だった」
「……やめてください」
ナオの声が震える。
何かを突きつけられるようなその言葉の数々に、心がざわめく。
自分の中にある“何か”が、抗おうとするのを感じた。
だがゼオは、穏やかに微笑んだまま続けた。
「思い出さなくていい。無理に、とは言わない。
ただ、知っておいてほしかっただけだよ。君が、特別な存在だったことを」
仮面越しに交わされる視線。
その奥にある真意が、ナオには読みきれなかった。
ゼオは背を向けて、ゆっくりと立ち去ろうとする。
そのとき——ふと、振り返って最後にこう言った。
「君が“何者”だったとしても、私は歓迎するよ。
この世界を、動かす鍵になるのは——いつだって、そういう魂だ」
風が吹いた。
ゼオの外套がはためき、光の中へと消えていく。
残されたナオは、胸に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
(……僕は、いったい……)
その瞳の奥に、初めて“迷い”とは違う何か——
“覚醒”の兆しが、灯り始めていた。




