第24話:禁書に潜む宰相の影
天界中央審問会の場が静まり返ったのは、ほんの十秒前のことだった。
ユナ、いや──“ユリエル・アマミヤ”の処遇を巡る審問は、事実上の棚上げという形で終了した。
審問官たちのうち数名は渋面を保ったまま、しかし天使四煌、ナオ、アリエルによる公然の擁護と、ミカエル補佐官自身の発言により、無理な断罪は不可能と判断された。
「審問の場で、彼女の魂を“異常”と認定できる証拠は、何ひとつとして挙がらなかった」
それが、冷静な決着だった。
──にもかかわらず。
ミカエル・システムの胸中には、どうしても払拭できない“ひっかかり”が残っていた。
彼女の存在が、そもそも“天界記録に不自然な仕方で組み込まれている”。
それが、彼の中でまだ“判決を下されていない真実”だった。
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天界中央記録庁・機密層。
「記録が絶対である」という前提のもとに存在するこの空間では、
一行の誤植さえ、認定された修正印がなければ修正できない。
……本来は。
ミカエルは、重厚な封印式を一つ一つ解除しながら、
“智天使・ユリエル”の入学記録と昇格手続きを確認していた。
——あの少女には、正式な記録が存在しない。
にもかかわらず、彼女は“制度上、合法的に”存在していた。
「整合性は……取れている。だが……何かが……妙だ」
帳簿の流れは綺麗すぎるほど滑らかで、間に一切のほつれがなかった。
だが、ミカエルは“構文の呼吸”を読む天界随一の書記官。
数万を超える文書を読んできた彼の感覚が、小さな違和感を告げていた。
「……この文書、主語が……変質している?」
明文化された記録は一貫して“昇格理由:神託に基づく”と記されている。
だが、初期の記録と末尾の文調が、わずかに“主語の所在”にズレを生じさせていた。
——まるで、“後から追加された”かのように。
「訂正痕跡も……魔術干渉も……ない。なのに、書き換わっている」
それは、原理的にあり得ないことだった。
機密文書への修正は、三重認証式の結界下でのみ可能。
“訂正魔法”のような低級術式では、構文構造そのものに干渉すらできない。
(ならば、これは……修正ではない。“再構成”だ)
ミカエルの額に、汗がにじんだ。
「……これは……“記録の再編成”だ。だが、誰が……?」
そのとき、ふと脳裏に浮かんだ名があった。
──ゼオ=ヴァルトレイス。
天界の官僚機構の影で、静かに動き続ける存在。
論理の達人。帳尻合わせの天才。そして……
「……もし仮に、ゼオが“訂正魔法”で機密文書を書き換えたとすれば?」
いや、理論的には不可能だ。
だが、そう仮定しないと、この現象は説明できない。
“痕跡を残さず訂正する魔法”——
それは、あってはならない。
だが、それを使える者がひとりだけいるとしたら?
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天界評議会・執務室
ミカエルは、静かにその扉を開けた。
ゼオは相変わらず、窓際で書類をめくっていた。
「ああ、補佐官。どうぞ。先ほどの審問、お疲れ様でした」
「一つ、問う。……“訂正魔法”で、魂の昇格記録を書き換えることは可能か?」
ゼオは、ふっと笑った。
「それは……技術的には不可能、というのが通説ですね」
「だが、実際には“書き換わっている”。痕跡も、干渉も、魔術反応もない。……それでいて、構文が一致しない」
ゼオの手が、ふと止まった。
静かな沈黙。
ミカエルの声が、低く、確信を孕んで続いた。
「あれは“補完”ではない。“帳尻の魔法”だ。
もしそれを君が使えると仮定するなら──すべてがつながる」
ゼオは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、何の動揺もなかった。
ただ、静かに、答えた。
「……仮定、というものは、自由で美しいですね。
どんな矛盾も、“前提”さえ捻じ曲げれば成立する」
「私は、正しい形を保っただけです。……記録とは、秩序の表現ですから」
「ならば聞く。君は“記録”を守っているのか、“創っている”のか」
ゼオは答えなかった。
ただ、微笑を浮かべて、ミカエルの問いを風に流した。
⸻
夜の図書館・ユナの独白
審問は一旦終了とされ、表向きは“証拠不足”として処理された。
それをユナは知らないまま、いつもの机で本を読んでいた。
(……私の記録って、どこから始まってるんだろう)
そっとページを閉じる。
ふと感じた、見えない誰かの気配。
「……わたし、ちゃんとここに……いるよね?」
その呟きが、静かな天界の夜に、ゆらりと溶けていった。




