第23話:ミカエルの“感情”の兆し
その日、講堂の空気は張り詰めていた。
審問の延長戦。それは、もはやただの“出自調査”ではなく——天界という秩序そのものの、価値観を問う場になっていた。
壇上に立つ私の前で、評議会の声が交錯する。
「異例だ」「記録にない」「秩序の歪みだ」
耳に届くそのすべての言葉が、まるで小さな刃のように胸を切り裂いていく。
私の魂には、記録がない。
だから、私は——“存在していない”ことになっている。
(それでも、私は……ここに、いるのに)
誰かが、ため息をついた。
そして、壇の奥。静かに立ち上がった銀髪の天使がいた。
ミカエル・システム。
天界執行補佐官。
すべての記録と秩序の代行者。
本来なら、この審問の場に感情を持ち込むはずのない存在だった。
しかし彼は、初めてその沈黙を破った。
「……“記録に存在しない魂”であることは、確かに異常です」
ざわめきが広がる。けれど彼は続けた。
「だが、“異常”とは常に排除されるべきものなのか。
異常は、進化の兆しでもある」
会場が静まり返る。
あの冷酷な記録官が、ユナを——擁護している?
「この魂は、人間界で、常人の十倍の苦痛を生き延びた。
なおかつ、いかなる汚染も受けず、魂の波動は純粋なままだ」
「その異常性は、もはや——ひとつの可能性だ」
壇の上、ゼオがゆっくりと席を立つ。
仮面の奥から、冷静な声音が放たれる。
「では、問おう。ミカエル。君はその異常を“希望”と見るのか? それとも——“バグ”と見るのか」
ミカエルは、わずかに視線を下げた。
そして、はっきりと告げる。
「……議論の価値はある」
その言葉は、まるで雷のようだった。
ゼオは薄く笑みを浮かべ、黙って席に戻る。
天界の二つの極——理性と記録の番人ミカエルと、運命の支配者ゼオ。
その対立が、いま、確かに始まったのだ。
──審問が一時中断されたあと、私は講堂の裏でひとり佇んでいた。
声をかけられたのは、そのときだった。
「……ユナ」
振り返ると、そこにいたのはミカエルだった。
いつもの無表情のまま、けれど——どこか、目の奥が揺れているように見えた。
「……なぜ、私を……庇ってくれたんですか?」
問いかけに、彼はしばし黙って、そして小さく呟いた。
「私は記録に従う存在だ。だが、君の魂は、記録では測れない……“ゆらぎ”を持っている」
彼は少しだけ黙ったまま私を見つめて、それから、ゆっくりと口を開いた。
「……君の魂には、確かに“記録”が存在しない。だが、私はそれを“無”とは見ていない」
「君が歩んできた人生、選んできた言葉、誰かのために差し出した行動——
そのひとつひとつが、まぎれもなく“存在”の証だ」
「記録とは、“意味づけ”に過ぎない。魂は、誰にも測りきれないものだ。
そして、君の魂は……他者の痛みに最も近い場所にいる。だからこそ、誰よりも誰かを癒せる」
その言葉に、胸が詰まりそうになった。
ミカエルは、少しだけ言葉を探すように目を伏せ、そしてこう続けた。
「君は、自分の価値を信じていないかもしれない。
だが、誰かの中に残る“優しさ”という形で、君は確かに生きてきた」
「……君がいてくれて、よかったと。私は、心からそう思っている」
その一言が、まるで光だった。
心の奥で凍っていたものが、ふっと溶けていく。
私は、声が出せなかった。ただ、頷くのが精一杯だった。
ミカエルが、思っていたよりもずっと——あたたかい人だったから。
そして、きっと彼自身も気づいていない“人間らしさ”を、どこかで宿しているのだと感じたから。
そのとき、ミカエルはほんの少しだけ、手を差し出した。
触れはしなかった。けれど、その仕草はまるで、氷の天使が“共鳴”という感情を初めて持ったようで。
私は、胸の奥で小さく誓った。
(……ありがとう。私も、変わっていきたい)
その日、誰よりも遠い存在だと思っていた天使が——
ほんの少し、私の隣にいた。




