第18話:ゼオの誘い「真実を知りたくないか?」
夜の学院は、いつもより静かだった。
光の粒子が薄く漂い、天界の星々が頭上で音もなく瞬いている。
私は、呼ばれるように歩いていた。
どこからか届いた“あなたに見せたいものがある”という手紙の指示どおりに、学院の裏手にある古い階段を降りていく。
その先にあったのは、白銀の扉——《禁書庫》と刻まれた、魔力封印の施された空間だった。
「ようこそ、“記録の墓場”へ」
その扉の前に立っていたのは、ゼオ=ヴァルトレイス。
昼間とはまったく違う表情で、彼は微笑んでいた。
「……私を、こんなところに呼び出して、何のつもりですか?」
警戒を隠さずに問うと、彼は肩をすくめて答える。
「君の魂が、あまりにも“予定外”で面白すぎるからさ。……興味を持つなという方が、酷だろう?」
そう言って彼は、指先で魔術印を描くと、禁書庫の封印を静かに解除した。
重厚な扉が、低くうなるような音を立てて開く。
私は、一瞬だけ足を止めたけれど——なぜか、その先に“知るべき何か”がある気がして、歩みを進めた。
禁書庫の中は、想像よりも暗くて、寒かった。
けれど、ゼオの声はいつもどおり穏やかだった。
「この場所には、“記録されなかった魂たち”の痕跡が封じられている」
「……記録されなかった?」
「そう。神の記録に載らなかった者たち。存在しなかったことにされた者たち。……あるいは、“間違って生まれてしまった”魂たちのことだ」
その言葉が、胸に引っかかる。
まるで、私自身のことを言われているようで。
「君の魂は、もともとこの世界には存在しないはずだった。なのに、君は“合法な天使”として登録され、智天使にまでなっている」
ゼオは、どこか楽しげに続けた。
「これは、“誰かが記録を改ざんした”か、“記録そのものが欺かれている”か、どちらかだ」
(……やっぱり、ミカエルさんが……?)
私は、ぐっと唇を噛んだ。
「私をここに連れてきて、何がしたいんですか?」
そう問いかけると、ゼオは立ち止まり、こちらに振り返る。
目の奥には、微かに冷たい光が宿っていた。
「君に、“選んで”ほしかった」
「え……?」
「世界の運命を、だよ」
その言葉が、重く落ちてくる。
「記録というものは、選択肢を削り取って、整えられた“秩序”だ。だが君は、記録されていない。つまり、選択肢を持っている存在だ」
「君がこの世界に本来いないなら、君の選択は、世界にとって“異物”であり“例外”となる」
「その異物が、何かを選び取ることで——秩序は変わる。運命も、記録も、全部、書き換えられる可能性がある」
ゼオは静かに手を伸ばし、一冊の黒い書を手に取った。
「君がこの書に触れれば、君の魂は“選ぶ者”として記録される。世界の命運を、変える権利を持つ存在として」
私は、無言でその書を見つめた。
漆黒の表紙。触れるだけで、何かが戻らなくなりそうな予感がした。
「……わたしは」
小さく、でもはっきりと声が出た。
「誰かの運命を、勝手に選ぶなんてできない」
それは、揺るがない気持ちだった。
「たとえ、世界のどこかが間違っていたとしても。……私ひとりの意志で、それを“正しい”に塗り替える権利なんてないと思うんです」
「それはきっと、神様でさえ……決めちゃいけないことだと思う」
ゼオは、しばらく黙っていた。
やがて、目を細めて微笑む。
「……だから、君は“綺麗”なんだ」
「え?」
「でも、それが一番危うい。……世の中には、自分の綺麗さに気づかないまま、破滅を招く者もいるからね」
「——君がそうならないことを、願っているよ」
その笑顔は、まるで優しい兄のようで。
けれど、どこかに“冷たい刃”の気配が潜んでいた。
私は、ただ小さく頭を下げて——禁書庫を後にした。
その背後で、ゼオはひとりごとのように呟く。
「記録されない者が、記録を揺らす……か。やはり、“あの方”の直感は正しかったらしい」
「さて、どこまでが“観測”で、どこまでが“意志”になるのか……楽しみだよ、ユリエル・アマミヤ」
静寂の中で、本のページがひとりでに捲れた。
その頁には、まだ何も書かれていなかった。
——選ばれるのではなく、“選ぶ”ための余白だけが、そこにはあった。




