第10話:最初の分岐点——ユナの選択
昼下がりの教室。
魔力制御の実技中、静かな空気が一変した。
「──きゃあっ!!」
教壇の前で、ひとりの女子生徒が悲鳴を上げる。
彼女の周囲で、制御しきれなかった魔力が暴走し、霧のように教室を満たしていた。
魔力の粒子が尖り、爆ぜ、空間のバランスが歪む。
「まずい、暴走反応……!」
「誰か、封印魔法をっ──!」
けれど、教師も周囲の生徒たちも、動けなかった。
誰もが一瞬、恐れで足を止めたそのとき。
私は、思わず走り出していた。
「だめっ、下がって──!」
私が彼女の前に飛び込んだ、その瞬間。
暴発した魔力が、私の肩に直撃した。
「──っ!」
焼けるような痛み。視界がぶれて、足元が揺らぐ。
崩れるように床に倒れた私を、誰かの腕が支えてくれた。
「おい……おい、大丈夫か!?」
「保健室に……! 急いで!」
「ユリエルが……彼女が、かばったのか……?」
ざわめきが広がる中で、私はただ、倒れた少女の安堵した顔を見ていた。
(よかった、無事……)
ほんのそれだけで、少しだけ安心して、目を閉じた。
──数時間後。
ベッドの上で、私はぼんやりと天井を見上げていた。
魔力の焼痕は治癒魔法である程度回復したけれど、身体の芯にはまだ痛みが残っていた。
教室に戻ると、空気が変わっていた。
私を見つめる生徒たちの目。
それはもう、「異物」ではなかった。
「……ねぇ、やっぱり、あの子すごいよ」
「怖くても、助けに行ったんでしょ……?」
「私、あんなの絶対無理……」
教室の端で、そんな声が漏れるのが聞こえた。
でもその中には、別の色も混じっていた。
「特別扱いなんじゃないの? 智天使様だし」
「カッコつけてるだけっていうか……媚びてる感じ、しない?」
「神託だからって、正義ヅラするの、無理ない?」
やっぱり、こうなるんだ。
何をしても、誰かに“上”から見られる。
嫌われるか、崇められるか。
そのどっちかでしか、存在を許されない。
気づけば、手が震えていた。
「私は……ここで、嫌われるために来たんじゃない」
ふと、声が漏れた。
感情が、抑えられなかった。
「……私、特別なんかじゃない。
怖かった。ほんとは足もすごく震えてたし……。
でも、あの子が泣きそうな顔してたの、見てたら……放っておけなくて。
……誰かを守りたいって、ただ、それだけだったんです」
教室が、静まり返る。
でも、その沈黙の中で、ひとつだけ——確かに届いた視線があった。
「……君の在り方は、俺にとって、正しい」
低く、静かな声。
教室の扉の前に立っていたのは、レイ・エリクシオンだった。
いつもの無表情とは違う、わずかに揺れる金の瞳。
「……そういうのを、特別って言うんじゃないか?」
静かな声が返ってきた。
ゆっくりと歩み寄ってくるその歩幅は、どこか優しかった。
「みんな、誰かのために動くとき、“正しい理由”を探そうとするけど……
君は、理由なんてなくても、動いた。
それは——たぶん、俺が思う“正しさ”に、すごく近い気がする」
「……誰かを守ろうとすること。それは“神託”より、ずっと尊いと、俺は思う」
その言葉に、胸が詰まった。
誰かが、私の“行動”を見ていてくれた。
“役割”じゃなくて、“思い”を、正面から受け止めてくれた。
私は、小さく頭を下げることしかできなかった。
……不思議だった。
声を荒げたわけでもないのに、心がじんわりと揺れた。
誰かに「わかってもらえた」って感じたのは、いったい、いつぶりだっただろう。
誰にも必要とされなかった地上での27年。
頑張っても、報われなくて、
笑顔を作って、空気を読んで、
それでも「浮いてる」って言われ続けて——
……今、ここで。
何も飾らない“自分”を、そのまま肯定してくれた人がいた。
(この人……ちゃんと、見てくれてたんだ)
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
涙がまた、あふれそうになったけど。
今度は——うれしくて、だった。
「……ありがとう、ございます」
かすれそうな声で、そう伝えると。
レイは、ほんの少しだけ——口元を緩めた。
ほんの、わずかに。
(……あ。今の、笑った?)
この日、私は初めて、“自分のため”に涙をこぼした気がする。
そして、彼の視線だけは、今もあたたかく胸の奥に残っていた。
* * *
「……ユナ。すごかったよ」
すぐそばで見守っていたアリエルが、そっと声をかけてくる。
「わたし、泣きそうになっちゃった……」
そう言って、ふにゃっと笑うその横顔に、ユナも自然と笑みを返した。
「ありがと……アリエルがいてくれて、ほんとによかった」
教室の空気は、ほんの少しだけ、やわらかくなっていた。
「神託の魂、案外……悪くないかもね」
誰かが、ぽつりと呟く。
それに応えるように、もうひとりの生徒が言った。
「……でも、あんなふうに動ける人、なかなかいないよ。私、ちょっと見直したかも」
……変わり始めている。
まだ全部が変わったわけじゃない。
陰口も、噂も、たぶん明日にはまた別の形になって届く。
それでも今、この瞬間だけは、
ほんの少しだけ、光が差した気がした。
* * *
遠くの回廊の上、
レイ・エリクシオンはひとり佇んでいた。
空に向けて、ふと視線を上げる。
まるで何かを思い出すように——ひとつ、息を吐いた。
「……“君の在り方は、俺にとって正しい”。か」
ぽつりと自分の言葉を反芻して、苦笑をひとつ。
「……らしくないな、俺も」
けれどその声色には、どこか満足げな、
柔らかく、あたたかな響きが宿っていた。
——この世界で最も“遠い”と思っていた魂が、
いつの間にか、彼の心の近くに、そっと降りてきていた。




