4.
最終話。熱が再燃する。
4.
ぬいぐるみ人間になってから半年と少し、美春は1人の社会人として真っ当に生きていた。
実家で暮らしてはいるけれど、しっかりと自分でお金を稼ぎそれなりに親孝行もしている。
そろそろ一人暮らしも考えようか。
そんなことを考えながら美春は職場から歩いて帰っていた。
今日は朝から風が強い日で、時折倒れそうになりながら必死に足を進める。
その時、前方から大きな枝が飛んできた。美春は咄嗟にしゃがみ何とか避けようとしたけれど、枝は美春の二の腕を掠めていった。
「痛っ!」
美春は反射的にそう言ったが、実際に痛みを感じることはなかった。血は出ていないかと思って枝が当たった二の腕を見ると、血は出ていなかったが肌が切れていた。
その傷から、血の代わりに白い綿が飛び出している。
美春はサッと血の気が引いて咄嗟にそれを隠し、周りに人がいないことを確認して急いで家に帰った。
親にも傷を見られないように気を付けながら自分の部屋に入る。
扉を閉め、ベッドに腰を掛けてから深呼吸をしてもう一度二の腕を見る。
やはり綿が飛び出ていた。
考えてみれば当たり前だ。ぬいぐるみ人間となった美春の腕には血肉の代わりに手芸に使うような綿が詰まっている。今までは運よく傷がつくほどの怪我を負ってはこなかったけれど、傷がつけば中から綿が飛び出るのは当然だ。
綿が飛び出た自分の腕を見ていると、高校生の頃渉の部屋で見た作りかけのぬいぐるみを思い出す。人形の肩から飛び出した躍動感のある綿、小さな人形の中に詰め込まれていく綿。
それを思い出すと、美春の中にあの頃のような熱が生まれた。
もう自分には必要がなくなったはずの、少し前までの自分が依存していたあの熱と興奮が、二の腕から飛び出した綿を見れば見るほどこみ上げてくる。
美春は衝動を抑えられず、飛び出した綿を触ってみる。
ふわふわで重さを感じさせない感触が気持ちいい。綿を少し取って放り投げてみる。綿は時間をかけて落ちていき、美春の膝の上に落下した。
それを見ると美春の中からどんどんと熱がこみ上げ、いてもたってもいられなくなった。
自分の中から出てくる綿を眺め、手に取り、感触を味わう。美春は以前のように興奮に打ち震えてその行為を繰り返す。絶え間なく興奮し、ますます夢中になって、何度も絶頂に達した。
1時間ほどそれを続けていると、いつの間にか部屋の中は綿だらけになり、右腕に力が入らなくなっていた。
我に返った美春は散らばった綿をかき集め、二の腕の傷口から詰めようとする。
しかし、上手く詰めることができない。無理やりねじ込もうとしても全部の綿が入りきらず、腕の形が歪になってしまう。まるで使い古した抱き枕のように、綿が全く入っていない部分と綿が詰まっている部分に分かれてしまった。誰がどう見ても腕としては不自然な形だ。
美春は焦って、何度も綿を取り出しては入れ直した。しかし、綿を全て入れることができても普通の腕の形に戻ることは無い。
美春は自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに絶望した。
翌日、会社に電話をして怪我をしてしまったのでしばらく休ませて欲しいと伝えた。親には体調不良だと言って部屋に籠った。
こんな歪な腕で人前に出ることはできない。でも、自分で直すこともできない。手術を受けた病院に連絡をしたかったけれど、少し前に摘発され、今は閉鎖中となっていた。
どうすることもできない状況に呆然としていると、ある感情が湧いてくる。
綿が見たい。綿に触れたい。
今そんなことをしている場合ではないことは分かっているけれど、一度そう思うと体と心が言うことを聞かない。
美春は以前と同じように、綿中毒となっていた。
片腕でスマホを操作して綿毛や綿花の画像を見る。しかし、それだけでは満足できない。綿に触れたいと思い始め、歪な右腕に手を伸ばした。二の腕から綿を取り出し、握ってみる。軽くて心地よい感触だが、何か足りない。
二の腕の綿は既に使い古され、ふわふわではなくなっている。こんなものでは満足できない。
美春は躍動感のある飛び出す綿を見たいと思った。そして、一度そう思うとその欲が満たされるまで落ち着かず、欲によって体が動かされる。
美春は自身の左腕にハサミを突き立て、中身を取り出した。そこから美春は理性をほとんど失い、体から綿を取り出し続けた。
腕の綿を出し、腕が動かなくなる前に腹から、そして足から、自身の体から吐き出された綿を弄り、興奮し続けた。
気づいた時には、ほとんどの綿が身体から抜けて、美春は上手く歩くことさえもできなくなっていた。
正気を取り戻した美春は、なけなしの力で綿を掴み体に入れる。しかし、綺麗に収まることはなく、腕や腹、足が不自然で歪な形になってしまう。
使い古したクッションのような自分の体を見て、美春はもう後戻りできないことを悟った。
その日から美春は以前と同じように部屋から出なくなった。
会社からはいつ復帰できるのかという連絡が毎日のように来る。親にも部屋から出てくるように何度も言われるけれど、こんな姿見せられるはずがない。
美春はこのままではいけないと思いながらも、解決策が分からないまま月日は流れていった。
毎日のように自身の体から綿を取り出し、入れ直し、元には戻らない自分の体に絶望していたある日、ふとあることを思いついた。
そうだ、渉なら私を直せるかもしれない。
そう思った美春は急いでスマホを手に取り、渉の連絡先を探す。しかし、渉は高校の時に使用していたSNSアカウントを消していて連絡をすることが出来なかった。
美春は諦めず数少ない連絡先を知っている高校時代の同級生に渉の連絡先を知っているかという連絡を入れた。
それと同時に、渉の名前をネットで検索する。
どうやら渉は高校を卒業後専門学校へと進学し、今では有名なぬいぐるみ作家となっているようだ。ホームページにメールアドレスやSNSのアカウントが載っているが、仕事用の連絡先のようだ。ここに連絡しても渉本人には届かないだろう。
万策尽きたと思っていると、高校の同級生から1件のメッセージが届いた。
そこには『連絡先知ってるよー』というメッセージとともに『熊野』と書かれたアカウントの情報が送られている。
美春は急いでそのアカウントを追加し、連絡を入れた。
約1時間後、渉からの返信があった。
そこには、『詳しい話は直接聞く、ここ来て』というメッセージ共に都内にあるマンションの住所が添付されている。
美春は急いで身支度を整え、親に黙って家を出た。
なるべく自分の体の形が分からないように、全身を覆うようなコートを着て電車に乗る。
季節外れで怪しい恰好をしているからか、周りの人から訝しむような目線を向けられたがそんなものを気にしている余裕はなかった。
美春は渉から送られてきた住所へと急ぐ。
電車とタクシーを使い、汗だくになりながら渉の住むマンションにたどり着き、インターホンを鳴らす。
数秒後扉が開き、渉が現れた。
数年ぶりに会った渉は高校生の頃とそこまで顔立ちは変わらなかったが、少しだけ髭が生え、髪はボサボサだ。半年以上は散髪していないと思われる。
「あ、その、久しぶり」
美春が作り笑いを浮かべて挨拶をすると、渉は美春の頭の先から足の先まで視線を這わせて観察した後、目を合わせた。
「とりあえず入っていいよ」
美春はリビングに通され、ソファーに腰をかけた。
渉はキッチンでお茶を淹れてくれている。渉の部屋のリビングにはテレビやテーブルといった家具の他に、大きな作業机や壁一面の設置された棚があり、その棚の中には裁縫に使うであろう様々な材料が詰め込まれていた。
高校時代に訪れた渉の部屋をそのまま大きくしたような、そんな印象だ。
美春が部屋を見回して高校時代を思い出していると、温かいお茶を持った渉が近づいてきた。
「はい」
温かい緑茶の入ったコップが差し出される。心が落ち着いて安心できるような温度と香りだ。
お茶を飲みながら、少しの間無言の時間が流れる。3分程経ったところで渉が口を開いた。
「で、どうしたの?」
聞かれることが当然のその質問に美春は口をつぐむ。
渉に頼みたいことは明確なのに、どこから話せばいいのか、どう説明すれば理解して受け入れてもらえるのかが分からない。
渉の質問に答えられないまま、数秒が経過する。
「直してほしいぬいぐるみがあるって言ってたけど、どれ?」
美春は渉と連絡を取った時、『どうしても直してほしいぬいぐるみがある』『他の誰にも話せない事情があって、誰にも見られない場所で直してほしい』とだけ伝えていた。
渉はこの説明で普通の事情ではないということを察してくれているのだろう。なんとなく、言葉を選んで慎重に話しているような印象を受ける。
返答を待つ渉の目を見ながら、美春は意を決してコートを脱いだ。全体的にデコボコしていて、ところどころ綿が飛び出している自身の体を露わにする。
それを見て、渉が表情には出さないけれど息を呑んだのが分かった。
「直してほしいぬいぐるみっていうのは、私のことなんだ」
動揺を隠しているのか、それとも本当に落ち着いているのか、それは分からないけれど渉は真顔で真っ直ぐと美春の体を見ている。
「私の体には肉の代わりに綿が詰まってて、それが上手く戻らなくなっちゃったの。だから直してほしい」
「どうしてそんな体になったの?」
渉は冷静な口調で尋ねてくる。
「ちょっと長くなるけど、いい?」
「いいよ」
渉の返答を聞いて、美春は1時間以上かけて自分のことを説明していった。
中学生の頃に綿毛を見て、そこから綿中毒になったこと、高校生の頃渉から貰ったぬいぐるみで自身の欲を満たしていたこと、そして、綿への依存が抑えられず自らの体をぬいぐるみにしたこと。
美春が今までの自分の人生をほとんど説明していくのを渉は黙って聞いていた。
「そういう感じで、今はこんな体になっちゃった」
美春が説明を終えると、渉は一度大きく息を吐いて立ち上がった。
「とりあえず、ちょっと体を見ていい?」
そう言って美春の下へと近づいてくる。美春は小さく頷き、渉に身を任せた。
渉は美春の腕を持ち上げ、感触を確かめている。
「これ、痛かったりはしないの?」
「うん、綿の部分はほとんど感覚が無い」
同じように腹や足を触り、綿が飛び出ている傷口を念入りに観察し始める。
「実はさ」
観察を続けながら、渉は話し始める。
「美春がなんか変だなっていうのは高校生の頃に気づいてたんだ」
美春はドキッとして一瞬体が強張ったが、動揺がバレないように脱力することに徹した。
「……なんで気づいたの?」
「高校生の頃、美春は何度も僕の部屋に来て、ぬいぐるみを貰ってくれたでしょ」
渉は歪な腹を少し押したり引っ張ったりしながら話し続ける。
「最初はぬいぐるみが好きだから貰ってくれてるんだと思ってたけど、いくつも貰っていく割にはぬいぐるみ自体には興味が無さそうだなって思ったんだ」
「……そっか」
「それに、僕がぬいぐるみを作ってるところを食い入るように見てて、目が怖かった。今思えば、あれはぬいぐるみ作りを見ていたんじゃなくて綿の様子を見ていたんだね」
「そうかも」
「僕としてはぬいぐるみを引き取ってくれたり自分の趣味の話を聞いてくれて都合が良かったけど、この人はどこか普通の人とは違うなっていうのは感じてたよ」
「そっか」
渉は話し終えると同時に観察をやめた。
「今見た感じ、綿を綺麗に詰め直すだけならなんとかできそうだよ」
「ほんと? よかった……」
渉の言葉を聞くと安心して、ドッと疲れが押し寄せてきた。今まで感じていた不安や溜まっていた疲労が一気にのしかかってきた感じだ。久しぶりに体が重いと感じる。
「でも、時間がかかりそう。今日はもう遅いから明日やろう。今日は泊まっていきなよ」
「えっ、いいの?」
「うん、それにそんな体じゃ家に帰るのも一苦労でしょ」
渉はコップを片付け、クローゼットから一式の布団を取り出し始める。
美春も手伝おうとしたけれど、腕に上手く力が入らず役に立つことはできなかった。
「この布団好きに使っていいよ。寝る前にお風呂入って。お風呂入る時は傷口をマスキングテープで止めた方がいい」
渉はそう言いながら棚からマスキングテープを取り出して美春の傷口に巻いてくれた。高校生の頃からイマイチ何を考えているのか分からないけれど、こういうところに優しさがにじみ出ている。
美春は久しぶりに思う存分体を洗い、ふわふわの布団で眠りについた。
翌日、朝ごはんを食べるとすぐに美春への綿詰め作業が開始された。
渉は初めての作業で緊張しているのが伝わってくる。美春も失敗への不安と同世代の男に自分の体を弄られることへの多少の羞恥心で緊張する。
2人ともほとんど無言のまま作業が続けられ、3時間ほどが経過した。
「一通り終わったよ」
渉に呼びかけられ、体を起こす。
なんとなく動きやすい感じがする。腕と肩、胸、腹、足、その全てが繋がっているような、当たり前だけれど久しぶりに感じる感覚だ。そして体が軽い。
「おかしなところがないか見てみて」
渉はそう言って姿見を運んでくる。
鏡に映った自分は改造手術を受けた直後のように普通の人間の形をしていた。
先ほどまで綿が飛び出し中身が偏っていた腕や足もしっかりと人間の形に戻っている。
「ありがとう、やっぱりすごいね」
「変じゃなかった?」
「うん、本当に人形みたいに綺麗。ありがとう」
美春の言葉を聞いてから、渉は裁縫道具を片付け始めた。美春もそれを見て手伝う。今度はしっかりと腕に力が入って手伝うことが出来た。
片づけを終え、改めて美春の体をチェックしてから昼食を食べることにした。昼食は渉の部屋にあったカップ焼きそばだ。
2人で向かい合って焼きそばを食べていると、不意に渉が口を開く。
「とりあえずは体直せたけどさ、いつまでも続かないと思うよ」
突然の言葉に美春は首を傾げる。
「どういうこと?」
「その体がいつまでも続かないってこと。ぬいぐるみが劣化するみたいに美春の中にある綿もどんどん劣化していくから定期的に取り換えないといけないと思う」
渉の言葉で、美春は崖から突き落とされたような気分になった。
これからは自分の形が崩れないように気を付けていれば普通の人間として生きていけると思っていたのに、そんな甘い話ではなかったようだ。
定期的に取り換えるって言ったって、美春にはそんなことをする技術も無い。手術をしてくれた病院は閉鎖しているし、医者も捕まってしまったかもしれない。
「で、提案なんだけど」
美春が絶望し頭を抱えていると渉が話し始めた。
「これから僕と一緒に住んでいつでも体を直せる状態にしておかない?」
予想外の提案だ。
美春が渉に頼み込むならまだしも、渉からそんな提案をしてくるなんて。
「それはありがたいけど、申し訳ないよ」
「タダってわけじゃないよ。僕ここで一人暮らししてるんだけど、ぬいぐるみ作り以外のやる気が起きないんだ。自炊も家事もなんもできない。だから、ここに住む代わりに家のこと全般をやって欲しい」
「家のこと全般って、私も家事が得意なわけじゃないよ」
「それは頑張って練習でもしてよ。どっちにしろ誰かが体を直さないと生きていけないんじゃない?」
渉は美春の目を見ながら問う。
美春にとって渉は、同じ種類の人間であり、唯一安心できる相手であり、生きるために欠かせない人間となってしまった。
美春は渉の目を見ながら、小さく頷く。
それから数日後、親に家を出ていく旨を伝え、職場には退職すると伝えて、最低限必要な荷物を持って家を出た。
電車に揺られ、タクシーに揺られ、渉の住むマンションに着く。
チャイムを鳴らし、綺麗な人間の姿で渉と対面する。
「今日からよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく、美春の部屋はもう用意してあるから」
案内された部屋にはベッドと小さな机と本棚が1つ用意されていた。美春は持ってきた荷物を置く。
「じゃあ、掃除とか洗濯とかは今日から任せるから。ご飯はなるべく栄養のある物がいいな」
「分かった」
「それと、綿中毒が抑えられないなら手芸綿を使ってもいいけど、どのくらい使ったかはちゃんと教えて。あと、ぬいぐるみの中の綿を出すのはやめてね」
「……分かった」
「自分の体から綿を出すのも禁止ね、直すのが面倒だから」
「はい」
「じゃあ、あとは好きに住んでいいから。これからよろしく」
渉はそう言ってぬいぐるみ作りに取り掛かった。依頼されている仕事があるみたいだ。
美春は溜まった洗い物と洗濯に取り掛かる。効率的な家事の進め方と洗濯の注意点はネットで調べたから大丈夫なはずだ。
その日から、美春と渉の平和な共同生活が始まった。
渉は仕事であるぬいぐるみ作りに明け暮れ、美春は家事の合間を縫って綿を弄り自分を喜ばせる。
そして、3か月に一度は美春の体を直す作業を行った。
綺麗な体で送る平和で安定して歪な共同生活は、ずっと続いていく。
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