「つながりのなかで」
「つながりのなかで」
野村隆介が一人暮らしのマンションで妻の遺影に向き合う時間は、いつも朝の影膳の味噌汁を作るときだった。
「お前がいたら、この家ももう少し賑やかだったろうな」
声に出すことはないが、心の中でそう語りかける日課は、妻が亡くなってから十五年、途切れることはなかった。
妻の余命宣告から数日後、野村はキッチンに立っていた。エプロン姿の妻、三津子がまるで教師のように腕を組みながら指示を出している。
「まずは昆布と鰹節でだしを取るのよ。インスタントなんかじゃだめよ、いい?これが基本なんだから」
野村は真剣な顔つきで頷き、慣れない手つきで鍋をかき混ぜる。
「ちょっと火が強すぎるわ。それじゃ、だしが濁っちゃうよ」
「そうか、すまん」
「いいのよ、失敗して覚えれば、次はもっと上手くなるわ」
そのやり取りの中に、悲壮感はなかった。むしろ、お互いが笑顔を交わし合い、穏やかに流れる時間がそこにあった。
三津子が余命宣告を受けてからの日々は、何気ない日常が愛おしい時間となった。三津子は細やかに家事を教えながらも、いつも明るい表情を浮かべていた。
「だしを取る時はね、焦らないこと。丁寧にやれば、必ず美味しい味になるの」
その言葉に含まれるのは、料理だけでなく人生への教訓のようでもあった。
「あなた、私がいなくなったら、誰かと付き合ってね」
「誰か?」
「そうよ。私がいなくても、あなたの人生がそこで終わるわけじゃないから」
「だが、もう他の誰かを好きになるなんて…想像もできん」
「そんなこと、わからないわよ」
三津子は、少しだけ寂しげに笑いながら言った。
「でも、どんな形でもいい、人と繋がることは大事だから」
この会話は野村の胸に深く刻まれ、三津子を失った後も彼を支え続けることになる。
夜になると、三津子は野村の隣に座り、静かに言った。
「あなたはね、私がいなくなっても、ちゃんと自分で生活できる人にならないとだめよ」
「それは…わかっている。でも…」
「でも、じゃないのよ。ちゃんと一人で生きていけるようにしておけば、きっと私も安心していけるから」
野村は、彼女の強さに圧倒されながらも、その言葉を胸に刻み込むように頷いた。
妻の三津子とは十六歳のときに知り合った。お互いが初恋で、そのまま結婚まで進んだ。彼にとって、恋愛とは三津子の全てだった。
三津子は地方の交通系の会社の役員の⾧女として育ち、穏やかな品格と控えめな自信を自然に身にまとっていた。
出会いは、突然だった。
「あいつが急に来れなくなってさ。悪いけど野村、お前が代わりに来てくれ」
電話越しに川口の声が弾んでいた。これが、どんな意味を持つかを野村はすぐに察した。いわゆる“人数合わせ”だ。気は進まなかったが、断る理由はない。
その夜、野村は川口に連れられ、街の小さな喫茶店に足を踏み入れた。薄暗い店内には、ジャズが静かに流れている。
「ここ、ここ!」
川口が手を振る席に、すでに女性二人が座っていた。一人は川口の恋人らしき華やかな女性。そして、もう一人は…控えめな微笑みを浮かべている彼女だった。
「野村、こっちは大場三津子さん。三津子さん、こっちは俺の友達の野村」
川口が軽い調子で紹介すると、三津子はすっと椅子から立ち上がり、会釈をした。
「はじめまして。よろしくお願いします」
その声は驚くほど澄んでいて、まるで水面をそっと揺らす風のようだった。
野村は少し戸惑った。女性と話すことには慣れていなかったし、そもそも今日は付き合いで来ただけだ。
だが、三津子が何気なく口にした一言で、彼の緊張は少しずつほぐれていった。
「野村さん、こちらのコーヒー、美味しいですよ。ここの店、初めてですか?」
「ええ、あまりこういうところには来ないもので」
「そうなんですか。私はお友達に教えてもらって…でも、静かでいいお店ですよね」
控えめな話しぶりながら、気配りのある会話に野村は少しずつ心を開き始めた。
彼女の仕草や話す言葉の一つひとつに、どこか心地よい温かさを感じたのだ。
帰り際に、三津子が軽く頭を下げ、柔らかい笑顔でこう言った。
「今日はありがとうございました。野村さんまたどこかで会えたらいいね」
その言葉が胸に残った。おそらく、ただの社交辞令だったのだろう。だが、野村にとっては、それが何か特別な意味を持つように感じられた。
数日後、川口からまた電話があった。
「この前の喫茶店でまた付き合ってくれないか、大場さんも誘うから」
人数合わせの依頼だった。野村は、気が進まなかった
「わかった、今すぐ返事ができないから、明日返事する」と電話を切った。電話を切った後、三津子に電話をするか迷った。
野村には四つ上の姉がいた。三津子の家人が電話口に出ることが怖かった。
「ねえ道子この番号に電話してくれないか」と頼んだ。
「突然電話してごめん、川口からまた、デートの人数合わせの電話があったけど、三津子さんに連絡はありました?」
「うん、あったよ。でも行く気なしの気分です」
「同感、同感。俺ももういいって気分」
「じゃあ、二人で映画でも観に行かない?」
野村はなにか悪だくみをして、二人だけの秘密を持った気分で少し心が弾んだ。
それから、二人の付き合が始まった。その後人生の三分の二の四十有余年を共に過ごすことになった。
この春、野村は新しいプロジェクトのクライアント先で渚菜穂子と出会った。
彼女は、経理の仕事を淡々とこなす派遣社員だった。控えめながらも芯のある態度で、どんな質問にも的確に答える姿に、野村は少なからず感心した。
「野村さん、こちらの入力規則ですが…」
初めて彼女の声を耳にしたとき、心の中にどこか懐かしい響きを感じた。それが何か、彼自身にも分からなかった。
次第に二人の会話が増える中で、彼女の過去に触れる機会が訪れる。ある日、ふと彼女が言った。
「私は、あまりお勤めの経験がないんです。結婚後、すぐに実家の稼業を継いだんです。普通なら三女が継ぐことなんてないんですけどね」
その表情には、どこか遠い記憶を懐かしむような影が落ちていた。
彼女の実家は地元では有名な商家で菜穂子は何不自由なく育ってきた。そのため、少女時代から、お嬢様といったおっとりとした性格だった。
「ひな祭り」では豪華で「十五人飾り」で三層の館を備えた立派な段飾りで祝っていたほどであった。
彼女の話に耳を傾けながら、野村は自分の中に微かに生まれる変化を感じていた。それは心に小さな波紋が広がるようなものだった。
彼女はライブや野球チームの応援など活動的な趣味を多く持っていた。また習い事も積極的に参加していることを仕事の合間に話してくれた。
彼女が話してくれる、軽やかな日常の脱線、ライブやサッカーチームの応援に出かける姿は、彼女の無理をしない自分らしさがあるように思えて、野村はそれに惹かれ始めた。
「私の"推し箱"チームは今シーズンはとても調子よく、このままだときっと優勝しそうなんです」
「推し箱?」
「勿論、推しのプレーヤーはいるけど、一番は、とにかくチームの優勝を願って応援しているということなんです」
「へぇー、おもしろいね」
野村はスポーツや芸能については詳しくなかったので菜穂子が話すことが面白く前のめりで聞いていた。
また、菜穂子が趣味のことを話している様子は職場では見せない生き生きとした表情を見せていた。
野村は“きらきら”と輝いている菜穂子のその表情に彼女らしい優しさと純粋さが溢れているように感じていた。
そして何気ない仕草にさえ、心を奪われるようだった。
彼女の仕事への姿勢もまた、野村にとって新たな発見だった。
菜穂子はどんな小さなタスクもきっちりとこなし、その上で周囲に優しさを忘れない。
彼女が話すときの柔らかな言葉遣いや、笑顔が自然に周囲を和ませる姿に、野村は日々惹かれていった。
菜穂子は休日を趣味や娯楽で楽しんでいるがその背後にある彼女なりの孤独や深層的な思いが野村にはなんとなくだが感じられた。
彼女があえて楽しみにしている外の世界、それは彼女が大切にしているひとときになにか特別な意味があるように思えて、野村は彼女の内面にもっと触れてみたくなった。
その反面、菜穂子は、野村に対してどこか一歩引いた距離を保とうとしているようにも見えた。
彼女が野村とランチを共にするときも何も気にしていないように見えたとしても、その裏には彼女の心の中にある葛藤やなにかがあるかもしれないと野村は感じ取るようになっていた。
話が盛り上がるたびに、菜穂子の指先は左手の薬指に触れた。そこにある小さな輪が、彼女の微笑みをどこか遠いものにしていた。
この微妙な距離感が、菜穂子がふとした瞬間に見せる、心の奥底から湧き上がるような本音や素直な表情に、野村は心を動かされることが多くなった。
彼女の意外な一面に触れながら、野村は菜穂子との関係をどう進めていくべきか悩みながらも、一緒にいることの心地よさを感じその心地よさをそのまま素直に受け入れていた。
ある日、野村が偶然菜穂子の一面を見た。それは、ランチをした後、帰り道にふと立ち止まり遠くを見つめながらひとり言を呟いた。
「また逃げちゃったな…」菜穂子はその言葉を誰かに向けるわけでもなく、ただ静かに呟いていた。
「なんですか?」と野村は不意をつかれ反射的に尋ねた。
「現実逃避」なんです。と菜穂子は答えた。
「現実逃避?」
野村はその瞬間、彼女が抱える“現実”に何か特別な重みがあることを感じ取った。
「ごめんなさい。なんでもないんです」
その後、菜穂子が「現実逃避」と言っていた言葉の真意を知ることになった。菜穂子の過去には、ある大きな失敗があった。
それは、彼女がかつて真剣に取り組んでいた仕事のプロジェクトが、大きな問題を引き起こし、結果的に周囲の信頼を失うことになった経験だった。
それが原因で、彼女は心の中に“逃げたい”という気持ちを抱え続けていた。
ある日の昼下がり、野村と菜穂子は何度目かのランチを共にしていた。食事が終わり、店を出ると菜穂子はふと立ち止まり、またあの言葉を口にした。
「ああ、また現実逃避しちゃったな。」その言葉に野村が尋ねると、菜穂子は少し躊躇した後、静かに話し始めた。
「昔、すごく大きなプロジェクトを任されてでも途中で手を抜いてしまって、多大な損失を出してしまったんです。
それで大きな問題を引き起こしてしまったんです。
周りの期待に応えられなかったし、もう二度と失敗したくないって怖くなっちゃって…その後は、ずっとどこかで逃げるようにしていたんです」
菜穂子はその瞬間、無理に明るく振る舞うことなく、心からの声で語った。
野村は驚きながらも、菜穂子の気持ちを理解しようとした。
彼女の「現実逃避」は、単なる言葉の遊びではなく、彼女自身が過去の傷から逃れたくて仕方がなかったからこそ、自然と口に出てしまうものだった。
そして、その「逃避」こそが、彼女にとっての唯一の心の救いであり、自己防衛の手段だったことが野村には痛いほど伝わってきた。
菜穂子にとって野村とのランチは「非現実的な時間と空間」だった。
「でも逃げても問題は解決しないんだよね」野村は菜穂子を見つめながら静かに言った。
菜穂子は少し顔を背け微笑みながら答えた。
「うん、分かっています。でも、現実を見つめるのが怖い時があるの」彼女は、もう一度遠くを見つめるような目をした。
その瞳の奥には、過去の失敗が残した影が色濃く漂っていた。
その日以来、野村は菜穂子の「現実逃避」とは何かを深く考えるようになった。
菜穂子が時折見せる穏やかな笑顔の奥に彼女の弱さや過去への恐れが隠れていることを野村は感じ取るようになった。
そして、その心の奥に触れることで、菜穂子に対してますます惹かれていく自分を感じていた。
菜穂子が呟いた言葉に、野村は何か深いものを感じた。
彼女の心にひっかかっているものがあることを、野村は言葉にはできないが、何となく感じていた。
「逃げたくなる時ってあるよね菜穂子さん」
彼女は少し驚いた表情を浮かべ、そして小さく笑った。
「でも、そういう時に誰かに頼るのって、少し怖いんです」
野村はしばらく黙って歩いていた。菜穂子の過去や彼女の心の中の痛みに触れることが、野村にとっても試練であるような気がした。
しかし、野村はその試練を避けることなく、向き合いたいと思った。
「三津子を亡くしてからずっと一人だった。時々、誰かと話したくなるけど、心のどこかで"誰かを好きになったらどうしよう"って怖くなる。
だから⾧い間一人だったんだ」
菜穂子は少し戸惑ったように目を見開いた。
「でも、野村さんはもう十分に悲しんだんじゃないですか?」
「悲しんだし、泣いたし、後悔もした。でも三津子のことを忘れることはできない。
だけど、だからこそ、心の中に空いた場所を、他の誰かで埋めることはできないって思っていた」野村は少し笑いながら言った。
「でも最近、ちょっとだけ、違う気持ちになってきているんだ」
三津子の記憶は色褪せた写真のようで、その中の笑顔は時間に奪われてなお、静かに輝いていた。
一方で菜穂子は、まだ未完成の絵画のようで、どの色を塗るべきか迷う時間がわずかに残されていた。
菜穂子は黙って彼の言葉に耳を傾けていた。彼の言葉に込められた思いに気づいたように話し始めた。
「野村さん、私は…あなたがそんなに⾧い間一人だったことを知らなかった。
でも、今あなたと話していると少しだけ勇気が出る気がします」菜穂子は少し顔を赤らめ、はにかんだように笑った。
「もしよければ、これからも時々、お付き合いをしてもらえますか?」
その言葉が野村の胸に温かい波紋を広げた。彼の心に少しずつ芽生え始めていた感情は、菜穂子の一言で、さらに強く確かなものになった。
「もちろん、こちらこそ、ゆっくりと無理せずに時々、一緒に時間を過ごせたら幸せと思っています」
菜穂子は再び少し微笑んで、今度はどこか安心したように見えた。
「じゃあ、これからも宜しくお願いします」
二人の間にあるのは、急ぎすぎることなく、静かで穏やかな時間の流れだった。
それは、時間をかけて、ようやく心の中に芽生えた感情だった。
二人はそれを急ぐことなく、少しずつお互いの距離を保ちつつ時間を過ごしていくことに決めたのだった。
人生の後半に差し掛かる時期にこそ、無理なく繋がる絆があることを二人は知り、それを大切にしていこうと心に誓った。
野村は、菜穂子との交流を通して、少しずつ孤独から解放されていく自分を感じていた。
菜穂子もまた、心の奥にしまい込んでいた過去の痛みを彼に話しながら、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
紅葉で有名な南禅寺の境内は、赤や黄色、橙色の鮮やかな葉で彩られ、陽光に照らされて輝いていた。