東雲快走録
「主文、被告人を禁固5年とする」
裁判とは、人を裁き判断すること。一見ただ裁判官が被告人を裁くことだけに見えるが、しかしこれは、被告人を弁護する弁護士、そして被告人を有罪にしようとする検察官、この対極する二つの側による討論によって1人の人間を裁くことを意味する。一方の人間が法律と証拠という武器として、もう一方の人間はそれを防御として1人の人間の処遇を決めることとなる。大前提として、登場するのは全て人間であり、その一人一人にそれぞれの人生がある。裁判とはそんな特殊な空間なのだ。
特殊な空間で働くことを職業とする弁護士。この中都の一角に東雲法律事務所を開設している、この東雲という男。至って普通のただの人間とは言い難い、少し変わった人生を絶賛謳歌中である。特殊な環境ゆえのこの人間ありきということなのかもしれない。
「はあ……」
疲労の息を漏らしながらも、手際よくマイナンバーカードを改札にタッチし、ホームに入る電車に乗り込む。時刻は帰宅ラッシュ真っ只中であり、スマホを片手に立つ社会人の群れで埋め尽くされていた。
「次は院参道、院参道、二谷線はお乗り換えです。」
満員電車に人口音声アナウンスが淡々と流れる。心なしか以前よりも聞き心地が良くないなと曖昧な感想を持つも、疲れきっている東雲にはそれ以上考える由も無い。ただ「ああ流れてるなあ」とだけ心に浮かべるのみである。
乗り換えはせず七駅目の本庄寺で下車する。これまたマイナンバーカードをタッチし改札を通る。十数年も前の中坊の時代から使っているこのシステムにはもう慣れたものだった。
いつもなら肉まんを一つ買う駅前のコンビニを通り過ぎ、少し歩いて2LDKの我が家に帰る。当然迎えてくれる家族なんてものはなく、寂しいとも思わずにベッドに倒れる。スーツは脱がされ、毛布はかけられ、俺は睡眠へと没入……
「まてよ……お前誰だよ!」
不可解な事実に疑問を抱き毛布をかけてくれた者に目をやる。今時珍しいセーラーにスカート、少し赤がかった艶のある茶髪を肩まで伸ばす女の子がそこにいた。
「誰って優よ、ゆう!」
「優?そんな奴知らねえし俺の家に上がるような女の子はいないはずだ!」
「いやいや、あなたがついてこいって行ったんじゃないの」
「えぇ?」
テーブルの上にある飲みかけエナジードリンクを口内に流し込み、寝ぼけた体を覚醒させて一度冷静になる。なぜ俺は女の子についてこいなんか言ったのか。それはそれでなぜついてきたのか。そもそもこの女の子は誰なのか。
何かの罠?回し者?私立探偵?NHC(日本放送委員会)?
様々な可能性が頭をよぎるが結論は出せなかった。しかしながら、彼女が身に着けていたものは明らかに制服。今時コスプレなんてものを街中で平然とやるとは考えにくい。となると彼女は本物の学生と考えるのが妥当か……結構マズい状況だな。いくら弁護士の俺でもハニトラを受ければ自分を弁護しきれない。
「まさかとは思うけど、わすれたとは言わせないわよ」
こうなってくると余計わからなくなる。普段からハニトラに気をつける俺が安易に女子学生に近づくはずがない。酒だって高いから飲まないし麻薬なんてもってのほか。
「幼馴染の女の子を忘れるだなんて、最低な男ね」
彼女は怒りを通り越して呆れたと言わんばかりの顔で肩を落とした。しかし少し俯く彼女の目を見るとハッとした。
おさななじみ……脳裏に薄っすらと学生の時の記憶が蘇る。勉強漬けで青春の色もないような俺にもそんな人がいたような気が……
「東雲君、少し……」
「なんでしょうか、矢島教授」
矢島教授に呼ばれ体の正面を向けると、自分の身長の半分もない女の子が教授の後ろからこちらを覗いた。
「この子は私の孫なんだがな、君に勉強を教えてもらいたいのだよ」
白髭眼鏡の教授の着古したスーツを子供ながらに強く掴んでこちらを見つめる少女。こちらを警戒するかのように見る一方で、真っ直ぐな眼が特徴的な小さな女の子。それが俺にとっての幼馴染との出会いというやつなのだろう。
あれから何年経ったろうか。18で中都法科大に入学し、19で教授に目をつけられてから今年で8年。今自分の目の前に立っている自称幼馴染は当時の面影を持ち合わせながらも、劇的に変化を遂げた大人の女性そのものであった。だがそれでも変わらない真っ直ぐな眼は、彼女が彼女であることを証明するものだった。
「優……」
「やっと思い出したようね。あなたが大切な人を忘れるような男じゃなくて良かったわ、本当に」
「優の壊滅的な理解力を教師が忘れるわけn」
「あら、私だってあなたの天才的な傲慢さは忘れたわけじゃないわよ」
すかさず優は俺の腕をつねりながら皮肉を皮肉で返してくる。いつの間に俺に近づいてこう言ってくるなんてあの時と変わってないな……
「理解力だけでなく品性も壊滅的なのは今も変わらないな」
「あなたの女の子に対する不器用さもちっとも変わってないようね。そんな調子なのだから、今までこの部屋に女性が足を踏み入れてないというのも残当ね」
「お、お前には関係ないだろ!第一そんな不器用な男にノソノソとついていく優こそどうなんだ!」
「あなたを分かってあげられるのは私しかいないと思っていたのだけれど、私の見当外れ…だったかしら」
スーツを脱がして布団までかけてくれた優に何も言い返せず、無言になってしまう。それはそうと…あのときのような皮肉合戦を懐かしく感じつつ、あのときのように優に勝てないことを悔しく思った。だが優の方はというと、言いまかしてやったという達成感ではなく、心なしか少し笑みを浮かべているような気がしなくもない。
「優はどうして俺についてきたんだ?」
「どうしてって…さっきも言ったように私が聞いたら、あなたが了承したからに決まっているじゃない」
「質問を変えよう、なぜ俺について行きたかったんだ?」
核心を突かれたのか、彼女は紅く艶のある唇を震わせながら結んだままだ。数秒ほど経ってから彼女はようやくその紐を解いた。
「父さんが……死んでしまったの……」
「亡くなったって…?楠木検事が?」
「えぇ、私も知ったばかりで……」
神妙な面持ちで優が淡々と話す。泣きだすとまではいかずとも悲しい表情を浮かべる彼女の姿は、あの頃の凛とした彼女からは想像もできないほどに暗く感じた。
楠木検事…もちろん幼馴染の父親という繋がりでもあるのだが、検事とは仕事をする上で何度か関わっており、また業界でもかなりの腕利きの検事と知られる。そんな検事が亡くなってしまったなんてことが優の口から発せられたのは予想外だった。まだ若かっただろうに……そう、若すぎる。
「俺も何度か仕事の付き合いで楠木検事と会っているし、そんな体調が悪いなんて話聞いてないけど…」
「交通事故よ…私にはそれ以外は何も……」
「……」
交通事故?確かに完全自動運転技術は理論こそ提唱されど確立はされていない。だが半自動運転が主流となった今そうそう交通事故なんて起きないものだと思っていた。それにそれ以外は何もというのは…?
謎が多すぎる、考えたらきりがない。時計の短針は既に11を回る。もうこんな時間か、流石に今日はもう休みたい。明日は幸い、午後が空いている。話したいことがたくさんあるが、ひとまず今日のところは寝るとしよう。
「詳しい話はまた明日聞くよ、とりあえず今日は遅いし…流石に遅すぎるかな、近くまで送ってくよ…車はないけど……」
そう言ってその場に立ち上がったが優に腕を掴まれた。
「私、家を追い出されちゃったの。だから帰るところはないわ」
「はい???」
なんだそれ、そんな回答が返ってくるとは、今日の予想外度を軽々しく超えてきた。
「私良くわからないのだけど…差し押さえ……?受けたみたい」
「そんな、差し押さえなんてあり得ない。検事が借金をしていたとは思えないし、ましてやその……」
彼女の目を見たらその後の言葉なんて、頭の中でフェードアウトしていった。
「とにかく、私帰るとこないの。野宿するか誰かに泊めて貰うしかないのよ」
「俺が事実を確認する前に話を進めるな、司法がそんな理不尽を許すはずないja」
「許すはずも何も、許しているから私は追い出されているのでしょ、それくらい分かるわ。」
「…」
「それに着いてきていいってあなたが言ったのよ、今さらなかったことにするの?」
「そういうことじゃ…」
「あなたが泊めさせてくれないなら別に良いわ、私だって探そうと思えば今日の寝床くらい……」
深夜にちょうど入る頃の時間、気持ち高々に話す優の腕を俺は掴んでいた。
「そんなことさせるわけにはいかないだろ、いいから今日は家で泊まれ…汚いけど……」
勢いで言ってしまった。だが背に腹は代えられない。矢島教授の孫を、楠木検事の娘をどこの馬の骨かも知らない奴の家に泊めさせるわけにはいかないし、第一大事な幼馴染を追い出すような真似なんかできなかった。それが本心だ。
「…」
意表を突かれたのか、優は少し顔を赤くしてポカンとした様子。(そんな顔をするなら初めから素直になれば良いっーつうのに、こっちまで恥ずかしくなってくる)
「お、お言葉に甘えて…泊、泊めさせてもらうわ」
「おう」
とは言ったものの俺みたいな野郎の家に女性用寝間着なんてものはない、ましてや女性の寝室にありそうな化粧品なんて。この部屋は優が使うにはあまりにも不便、そう思った。
「じゃあこの服借りるわね」
考えはすぐに跳ね除けられた。そこにはご自慢のセーラー服を脱ぎだし、紛れもない俺の寝間着に腕を通す彼女の姿があった。
「あー!あー!」
「深夜に大声出さないでよ、近所迷惑だわ」
「いや、だって!」
「だって?」
「だって…俺の服なんてき、汚いし、それに…」
「…」
「…」
「これ…もしかして…洗濯…してないの?」
あー!だから言ったのに…俺は小さく頷いた。
途端に顔を赤らめる優、すぐに寝間着を脱ごうとするが今度は意識してしまったようでセーラー服に戻ろうとはしない。でも俺は悪くない。朝から晩まで、月曜から日曜まで常に仕事をして生きている俺に、そんな身の回りの家事に気を使える余裕なんてない。スーツのままベッドに横になるぐらいだぞ?
しかし反応を見るに汚いものを早く脱ぎ捨てたいというわけでは、どうにも違うように見えた。
こういうとき、俺はどうすれば良いんだ。マンガにも判例にもないこんな状況、俺は明後日の方向を向いていることしかできなかった。
「もう…」
「…」
「あなたには私がいなきゃ駄目ね」
「…!?」
「そうだったわね、あなたは不器用だものね」
「おいおい、そんなに言うことないだろう」
「いや、これは大事なことだからちゃんと言わないとダメ、でないとあなた駄目人間になってしまうでしょ?」
「…」
完全に言い返せない。考えれば考えるほど自分がどんどん駄目人間になっていく姿を容易に想像できた。
「あなたは私に寝床を貸す、私はその対価として洗濯…掃除……なんなら食事も作ってあげても構わ」
「対価?何言ってんだ、優は俺をそんなゲスだと思ってたのか?」
「そうじゃないわよ!あなたのことだから対価なしに何かをしてあげるってことは歯がゆいだろう、ってわざわざ気遣ってあげてるのよ」
「そんな言い方ないだろ……」
「で?どうするの?」
「…」
正直家事をしてくれるなんて願ったり叶ったりだ。だがそんなことで優は本当に納得するのか?第一俺は寝床の対価なんて要求してない。それでも優がそう言ってくれてるのは他でもない俺の対価教育の賜物なのだろうか。そうだとしたら俺はなんてことをしてしまったんだ。こんな優しい子にそういう風にいろいろ叩き込んでたとは、俺はただただ背徳感を抱いていた。
とはいえこうなっては選択肢は3つだ……いいや、1つしかない。
「別に家事なんてしてくれなくてもいい、出て行きたくなったらすぐに出て行っていいし、俺の所に来たくなったらいつでも来てくれていい。それに俺は対価のために人に優しくするわけじゃない。だから対価だのなんだの言うな」
少し恥ずかしかったからだろうか、気づけば俺は頭を掻いている。何もやましいことはないはずだが目の前の幼馴染から目を背けてしまっている。
対する優はというと、少し不意を突かれたのかハッとした顔で数秒固まっていたが、すぐに笑みをこぼして口を開いた。
「ありがとう、お世話になるわ」