遭遇
あれ、あの人って。
「三上己一さん?」
人気俳優の三上己一だ。ランニング途中なのか黒いジャージに身を包んでいる。こんな雨夜でもフードを被ってまで体づくりとは……凄いなあ、憧れちゃう。私なんて寝ることしか考えてなかった。高校からバイトに行って、愚痴を言いながら帰っていたのが恥ずかしい。
「ああ、こんばんは」
返事してくれた!嬉しさで舞い上がる。漫画にしたらきっと私の眼は渦を巻いていることだろう。落ち着いて私。冷静に。
「私、ファンです。次回作楽しみにしてます!」
「ありがとう。嬉しいな……名前、教えてもらえる?」
「え、はい!」
名前を教える。
「ありがとう」
名乗っただけで感謝されるとか、今日ってもしかしていい日?喜色満面で帰路に着く。いつもそのままにしてしまう傘の始末も、嬉しいことがあった後では苦にならない。鼻歌を歌いながら最近していなかった部屋の掃除までしてしまう。私は幸福だったのだ。
危なかった。あの様子だと彼女は気付いてない。なんでこういう時に限ってファンに遭遇するかな……家に入ると扉を背に床へずり落ちた。ずぶ濡れのバーカーからナイフを取り出す。廊下にそれを投げ、扉に全体重を預けた。人殺しの演技なら幾度もやったのに本当に殺すとなると震えが止まらない。殺したのは同業者だ。先程の彼女が言っていた次回作の主演。僕はあの男の肥やしになんかならない。あの男は生きていてはいけない。交際している女性に暴力を振るうような男、死んで当然だ!女性は僕の姉。姉さんは逃げ出そうともしない。『私は殴られて当然の存在』……姉さんの口からそんなこと聞きたくなかった。これで姉さんは助かる。僕が捕まっても姉さんが暴力を受けることはない。
「里美弥生さんか……」
僕のファンなんて可哀想だ。次はもっと素敵な推しと出会えますように。