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(後編)竜は空に昇る

 夢を見た。夢の中で、僕はまだ小学生らしい。晴れ渡った空に目が眩む。こんなに青い空はいつ以来だろうか。周りを見渡すと懐かしい景色が広がっている。そこは祖父の家の裏庭だった。蝉の声が騒がしい中、懐かしくてなんだか泣きそうになってしまう。

 あれからずっと祖父の家には行っていない。二十年という時間は、多くのものを変化させ忘れさせていく。その中で、祖父の家の思い出は僕にとって特別なものだ。仕事で疲れていると、祖父の家で過ごした穏やかな時間を思い出すことがあった。色彩に溢れた時間。もう手に入らない時間。夢の中でくらいは浸っていてもよいだろう。

 夢の中の僕はスケッチブックを抱えている。しばらく手にとっていなかったはずだ。現実にはマンションの部屋の棚の奥にでもしまっていただろうか。好きだった絵は社会人になってやめてしまっていた。水彩画が好きで、古い民家や田舎の風景を好んで描いていたのだが、最近は描きたいと思うことも無くなっていた。唯一の楽しみでずっと続けていくものだと思っていたのに、仕事と子育てに時間を費やすようになり、意外にあっさりとやめてしまっている。時間に余裕がなければそうなってしまうのも仕方がない。共働きの妻と、まだ小さな娘と、毎日ばたばたと生活している。疲れていないとは言わないが充実しているし幸せだ。それなのに、ときどき何か忘れ物をしたような感情が頭をもたげてくるのが不思議だった。夢の中で、僕の一部はずっと祖父の家に残ったままなのかもしれないと感じる。


 傍には祖父が立っていた。優しい顔で僕の頭をくしゃくしゃと撫でると、手を繋いで歩き出す。しわしわの大きい手に安心感を覚える。向かった先には苔むした井戸があった。ああ、あの井戸だ。中には何がいたのだったか。祖父は井戸を指差し、僕の顔を見て微笑んだ。声を出さないが、井戸のことを頼むと言いたいのだと思った。

 僕は祖父と一緒に井戸を覗き込む。井戸は怖い。そんな気持ちはそもそも祖父から植え付けられたもので、今でも井戸を見ると身がすくむのだが同時に懐かしさも感じる。もっとも、現代の都会で井戸を見ることなどほとんどない。たまに仕事で古い家屋の調査をするときに見ることがあるくらいか。

 もし僕の少年時代の一部がまだ祖父の家に取り残されているとするならば、それは、この井戸の中に残されているのかもしれない。僕はあのとき井戸に引き込まれそうになって祖父に助けてもらったが、でも本当にそうか。僕の一部は井戸の底に落ちてしまったのではないだろうか。目を凝らしてみる。井戸の底は暗く、日差しは届いていない。祖父が指差す先をじっと見ると、井戸の底には何か大きな固まりがある。大きな石だろうか。その下には白い長いものがうごめいていた。蛇かと思ってどきっとする。しかし、蛇じゃない。だってあれは人の顔だ。恨めしそうな顔で見上げるのは、それは、それは僕の顔と、そして…


 眼が覚めると、井戸の中に何が見えたのかどうしても思い出せなかった。目の前には、先ほどまでの光景とは全く違う無機質な白い壁。病院で椅子に腰掛けて眠ってしまったようだ。祖父の家には小学生の頃からずっと行っていない。夢で見た景色は懐かしくて、もどかしい思いが胸を締めつけた。

 その日、祖父が亡くなった。病院で家族に看取られて眠ったままに息を引き取った。祖父は最後に夢でお別れに来たのかもしれないとそんな風に感じた。

 葬儀のあと、祖父の家をどうするかで父が兄妹と少しばかり揉めた。大手不動産から、祖父の屋敷と裏山を含めた土地を買いたいとの話が舞い込んで来たのだ。町と旅行会社が企画する里山体験のためだった。しかし、どうやらこの話は祖父が反対して進んでいなかったのだという。父は祖父の意思を尊重したいと言って反対していたのだが、僕は口には出さないものの売ってしまったほうがよいと思っていた。家族の誰かが住んで管理するわけでもないし、井戸のことをいつまでも引きずりたくなかった。夢の中で感じたように、祖父が僕に後を任せるつもりだったとしても、管理しろということではなくあとのことは好きにしろという意味ではないだろうか。結局、山も家も売ることになったが、井戸は残されることになった。家は改装され研修施設となり、周辺は木が伐採されて日当たりのいい明るい雰囲気になる予定だ。井戸には屋根がかけられて水汲み体験ができるようになるのだという。


 工事の間、特に変事はなかった。井戸の底を浚うと、きれいなもので、意外だったが人形も何も出てこなかったという。夏祭りの人形は毎回、井戸から回収されていたのかもしれない。

 そしてこの夏、里山体験施設は完成した。開校式では、関係者の子供たちが無料で一連の里山体験に参加できることになっており、僕の家族も呼ばれた。妻と娘といっしょに祖父の家に行くのは初めてのことになる。祖父が来るなというので、ずっと連れてくることができなかったから。僕は妻にも娘にも、僕の好きだったこの景色をずっと見せたかったのだ。


 開校式の日、僕は妻と娘を連れて、車で祖父の家にやってきた。本当に久しぶりだ。なにしろ二十年も訪れていなかったのだから。先日に夢で見たのと同様、真っ青な晴天に恵まれた。もう少し雲がかかって日差しを弱めてほしいぐらいだ。

 祖父の家は、昔の趣を残しながらも、寂れた様子や汚れたところがない明るい施設になっていて驚いた。井戸は、桶を滑車で引き上げるつるべ式になっており、新しく体験のために作ったのだろう。普段は竹を組んだ蓋で塞がれていて安心感があった。子供は竹の蓋の隙間からしか中を覗けないようになっていて、落ちることもない。

 子供のときに井戸に感じていた禍々しい雰囲気は微塵も感じられなかた。やはり井戸への恐れは気のせいで、ただ、祖父が変な話をするものだから怖がっていただけなのだろう。


 開校式のあと、スタッフから簡単な説明を受け、野菜の収穫体験が行われる。招待されたのは五家族で子供は八人参加だった。娘をこういう場所に連れてきたのは初めてだったが、楽しそうにしており何よりだ。

 昼食前には子供達が交代で井戸の水汲み体験をはじめる。移動中、僕と同じ年頃の男性スタッフが声をかけてくる。


「よっ、久しぶり。俺わがるか」


 ん、と一瞬考える。このなまりはこの土地の人間だろうか。ひょうきんな猿顔はもしかすると。


「ケンちゃんか」


「んだ。小学校以来だなあ。おれはすぐわかったぞ」


「え、ここで働いてるの?」


「おう。農家が本業で、こっちは半分ボランティアみたいなもんだけどな」


 懐かしい。夏休みに数年訪れていただけの僕をよく覚えていたものだ。


「また後で話すべ。今は井戸汲みの準備せねば。きれいなもんだべ。子供のころは怖かったのにな」


 井戸の水汲みが始まった。最初の男の子がロープを引っ張ってみると、想像よりも重かったのだろう、驚いている。体重をかけてみているが全く動かない。


「一人じゃ重いかな。何人かで引っ張ってみようか」


 スタッフに促され年上の子がいっしょにロープを引っ張る。すいすいとロープを引いていたが、途中でその手が止まる。

 ロープの先の桶が大きすぎて、滑車を使っているとはいえ、子供には重すぎるのかもしれない。


「呼んでる」


 その子が呟く。と、他の子供達がざわつき始める。


「聞こえた」


「うん、呼んでる」


「引かないと」


 子供たちが、わらわらと桶を引っ張るロープに集まっていく。うちの娘もそのひとりだった。ぞわりとした。僕には何も聞こえない。



「どうしたんだ」


「待ちなさい」


 親たちの静止をよそに、子供たちはみんなでロープを引っ張りはじめた。

 だが、つるべは上がってこない。何か尋常でないことが起こっていると感じるが、その正体がわからない。

 子供たちは、ロープを引く。いや、むしろ引っ張られていく。


「さ。引けや引けや人の子や。引かねば落ちるぞ。落ちれば食うぞ」


 声が響いた。井戸の中から。いや、頭の中に響いたのか。この声には聞き覚えがある。子供の頃の体験が、いっきに頭に浮上してきた。呼んでいるのは、井戸の中の竜。

 今度は、大人たちにも聞こえたようだ。


「なんだ」「聞こえたか」


 今度は大人たちがざわつく。


「ロープを離せ」


 僕は娘からロープを取り上げようとする。


「手が離れないの。それに引かないと」


 娘は泣きそうな表情で訴える。

 なにを言ってるのかと怪訝に見ていた親たちも、子供らがロープを離さず、井戸に向かってじりじりと引っ張られはじめると、血相を変えた。

    


 しかし、大人たちが駆け寄っても、子供らの手をロープから外せないのだ。指をはがそうにもロープに固定されたかのようで、このままじゃ、滑車に手が巻き込まれると容易に想像できた。さらにその先は、井戸の中だ。

 子供の手を離させることは諦めて、スタッフや一部の親は、ロープを引き始めるが、井戸に引き込む力の方が強い。


「さ。引けや引けや人の子や。引かねば落ちるぞ。落ちれば食うぞ」


 また、声が響く。


「竜の子」


 自然に僕の口から出てきた言葉。子供の頃の体験が頭に浮かんでくる。そうか、呼んでいるのは竜の子か。


「竜の子って、あれか、夏祭りの」


 僕の呟きを聞いていたケンちゃんが驚いた様子で井戸をみている。

 そうだ、間違いない。竜の子が、子供たちを引っ張っているのだ。どうすればいいんだ。あのとき、僕はどうやって助かったんだったか。思い出してみよう。

 あのとき祖父は、身代わりの人形を投げてくれたが、ここにはそんなものはない。僕もロープを引っ張ったが全然かなわない。手の皮がむけて血が滲んでいる。


 聞けやあ聞けやあ竜の子や。井戸の底から出たければ、さあさあわしの手を掴め。二十人力のわしならば、お主を天に引き上げよう。


 祖父の歌が頭に浮かんだ。二十人力に意味はあるのか。今ここには親やスタッフを含めた二十人以上の人間がいるはずだ。二十人力なら勝てるのではないか。竜を井戸に閉じ込めたのは二十人力の豪傑だったはずだ。まだロープを引っ張っていない大人がいる。子供の手を外そうとしている親やスタッフたち。妻も娘にかかりきりだった。それにおろおろして様子を見ているだけの大人もいる。


「みんなロープを引っ張ってください!」


 声をかけると何人かは子供から離れてロープに手をかけてくれたが、まだ足りない。


「聞けやあ聞けやあ竜の子や。井戸の底から出たければ、さあさあわしの手を掴め。二十人力のわしならば、お主を天に引き上げよう」


 僕は声を振り絞り、先頭に立ってロープを引いた。もし、僕が先頭で引き込まれたら、娘や後ろの子たちは助けてくれるように竜の子にお願いしてみよう。あのとき、違え損ねた子供だって言って。人形で代わりになるなら、別に人間だっていいわけだろう。

 と、僕の横でがっしりとロープを掴む力強い手。ケンちゃんだ。


「二十人力ってあれか。昔話の力持ち。竜を退治したっていう」


「そう。爺ちゃんが歌ってたんだ」


「そっか。俺だけで三人力くらいはあるかね。みんな引くの手伝えよ!ロープの方だよ!」


 ケンちゃんが、大声で呼びかけてくれる。ケンちゃんが必死でロープを引くのを見て、子供らの手を外そうとしたり身体を引っ張っていた親やスタッフもロープの方に回ってくれる。ガキ大将だったケンちゃんは昔から声の大きさとリーダーシップが持ち味だった。


 大人たちが並んでロープを引く姿は、はたから見れば、まるで井戸との綱引きだろう。


「あ」


 突然だ。全員がロープを引くのに力を合わせたと感じた途端に、がらがらと滑車は回りロープを引くことができるようになる。何人かがバランスを崩して転んでいた。

 井戸から、水が滲み出てきた。ごろんと出てきたのは大きな石で、表面には文字が刻まれている。続けて大きな何かが引きずり出されてくる。それは竜だった。それは間違いなく竜と言えた。ロープの先の桶を大きな口でくわえている。

 いや、違う。竜は骨だった。人の骨だ。骨になった遺体がいくつも折り重なって連なり絡み合って竜の姿を形作っていたのだ。どの遺体も小さく子供のものと思えた。

 先頭で桶を両手で掴んだ遺体が僕を見た。あの少年だ。川で会い、井戸に呼んだ少年。愉快そうに笑っている。そして、天を指差す。骨の竜は、井戸からぐんぐんと真っ直ぐに天に昇っていき、そして消えた。

 晴天はいつのまにかどんよりとした曇り空になっている。


「今の、なに?」


 誰かが呟く。皆呆然と空を見ていた。

 子供たちは全員無事だった。むしろ大人の方が、手の平がひどいことになっていた。

 午後に予定されていた山の散策も沢遊びも中止となった。


「竜ってほんとにいたんだなあ。おめえんとこのじさまが亡くなってから、去年も今年も夏祭りやってなかったんだけど、ああいうのも馬鹿にできねえな」


 ケンちゃんが神妙な顔つきで話しかけてくる。僕は、そうだな、と答えた。

 帰りの車を運転しながら考えた。ぽつぽつと雨が降ってきている。妻と娘は、すごかったねえ、と興奮気味だ。

 皆には荘厳な龍の姿が見えていたようだ。僕にだけ連なる骨が見えていたのだった。祖父が、竜の子の正体を教えてくれていたためだろうか。

 祖父は、竜なんてほんとはいないと言っていた。人柱が先なんだと。それよりも「もどす」ことが目的だったんじゃないかと言っていた。

 もどす。おそらく隠語だ。間引きのことではないだろうか。あの、竜を形作った骨は一つ一つが小さかったように思える。干ばつも水害もあり、不作の時は、口減らしのため、人柱と称して小さな子供を井戸に。そんなことがかつてはあったのだろう。

 だが、あんなにたくさんの骨があったなら、井戸の底を浚っても何も出てこなかったのはおかしい。いや、これはもう理屈で考えても仕方ないのか、この世の理の外にあるものだったと納得するしかないのかもしれない。


 もう一つ疑問がある。なんで、祖父は、早くこうしなかったんだろう。長年、夏祭りで人形を捧げてきたけどあ、竜を解放できる方法には気付いていたんじゃないだろうか。そうすれば、子供たちが井戸に呼ばれることもなかったんじゃないだろうか。

 雨が車のガラスを叩く。雨足がずいぶん強くなってきた。散策が中止になったのは、結果的には良かったかもしれない。


 祖父が竜を解放しなかった理由には、すぐに納得できた。といってもそれは僕の勝手な解釈で、真実かどうかはわからないのだけれど。村では局所的な大雨が三日三晩続き、洪水と大規模な土砂崩れが起こった。祖父の家も土砂に飲み込まれた。幸いにして全員が避難できたそうだが、村は無くなってしまった。

 そもそも竜の子は水害から村を守るために祀られていた。口減らしの目的はあったのかもしれないけれど、生贄にした子供たちを井戸に留めて守り神に仕立て上げていたのは事実なのだろう。祖父やご先祖は竜の子をずっと守ってきたわけだ。それを解放してしまったから、村は滅びた。そうとしか思えなかった。


 数年後、僕は一人で村を見に行ってみた。村の地形は変わり、湖になってしまった。あれからケンちゃんとは連絡を取りあっていたのだが、隣の集落に移って新しい生活を始めているらしい。なんでも湖を観光資源にしたプロジェクトを考えているとか。たくましいものだ。


 湖は、思ったよりもずっと広かった。何しろ村を一つ飲み込んでいるのだから。この下には、僕の好きだったあの景色が埋まっているのだ。楽しかった夏の思い出の景色。

 代わりに生まれた湖の景色は、初めは泥の水たまりだったはずなのに、今はもう澄んだ色となっている。湖の上流には、赤い鳥居が立っていた。ケンちゃんが発起人となり寄付を募って建てたもので、僕も一枚噛んでいた。後で行ってみようと思う。あの日、竜が空に昇っていった光景を見た家族らの証言がネットで取り上げられ、ちょっとしたパワースポットになっているらしい。

 僕はスケッチブックを広げる。棚の奥から引っ張り出した絵具を見て、娘からはお父さん絵なんて描くんだと目を丸くしていた。

 湖の水面を見つめていると、ばしゃんと音がする。広がる波紋の真ん中に、あの少年が顔を出していた。長い竜の尾を引いて優雅に泳いで、また水面の下に消えていく。

 あの子が本当に竜の子なのか、竜の子に見立てられた口減らしの始めの子供なのか、本当のところはわからないけれど、どちらにしても、やっと狭い井戸から解放されて、自由に泳げるようになったんだ。

 そして、いっしょに井戸にとらわれていた子供たちも空へと解放された。

 空を見上げる。湖の上には真っ青な空が広がる。よかったなあ、そう思った。

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