目的地
「二番線間もなく電車が到着いたします。ご注意ください」
いつもと変わらない、けだるげな駅の構内放送の音が、エフ氏の憂鬱な気分をさらに加速させた。エフ氏はどこにでもいるようなサラリーマンであったが、いわゆる普通の生活をすることができていたので、自分の現状に特別な不満はなかった。ただ一つ悩みがあるとすれば、それは毎日の通勤の満員電車であった。人混みが苦手なエフ氏が満員電車に気分を悪くして途中の駅で降りてしまったことは一度や二度ではなかった。
この日もいつも通りの満員を覚悟して、ドアの開いた電車に乗り込もうとしたその時、エフ氏の目の間に奇妙な光景が広がっていた。いつもの電車の中の光景、それに加えて他の乗客の頭の上に、この電車が止まる駅名が表示されていたのである。人によってその駅名は様々であったが、どれもこの電車の止まる予定の駅だった。
はて、一体これは何なのだろう。エフ氏の思考は一気に目の前の光景に奪われた。他の乗客の様子はいつもと同じようであり、それはこの現象がエフ氏にしか起こっていないことを示していた。そこでエフ氏は、自分が何かおかしな幻覚でも見てしまっているのかとも考えたが、いくら目を凝らしても、そこには無機質に次の次の駅の名前が表示されているだけだった。
戸惑って電車に乗れないでいるエフ氏へのイライラを隠そうともせずに、後ろに並んでいた客がエフ氏の背中をドンと押した。そこで我に返ったエフ氏はいそいそと乗車をした。
電車が発車しても状況は全く変わらなかった。しかし表示されている駅名の意味は、次の駅に到着し、何人かの乗客が電車から降りた時にわかった。降りた客の上に表示されていた駅名は全て、今停車した駅の名前だったのである。どうやら、表示されている駅名はその人がどこで降りるかを示しているらしかった。
なんでこんな珍妙な能力が自分に目覚めたのかは不明だが、この力を活かさない手はない。そう考えエフ氏が辺りを見回すと、お目当ての人間はすぐに見つかった。すみません、すみません、と繰り返しながらエフ氏は満員電車の中を移動し、なんとかその男が座っている座席の前までやってきた。
そして次の駅に到着すると、エフ氏の予想通りにその男は席を立ち電車を降りた。周囲から奇異の目線を気にすることなく、待ってましたとばかりにエフ氏はその席に着いた。
この不思議な力のおかげで、エフ氏の通勤によるストレスはほとんどなくなった。ほとんどというのは、いくら乗客の降りる駅がわかっても、座席に座っている人がすぐに降車するとは限らないし、そういう人がいても満員電車だとうまく移動できない時もあるからだ。しかしそうは言っても、それまでと比べればはるかに快適な通勤であった。
そんなある日、エフ氏は商談のための出張で飛行機に乗ることになった。飛行機での移動は久しぶりだったため搭乗手続きにやや戸惑ってしまったものの、なんとか定刻通りに機内に乗り込むことができた。
すると驚いたことに、そこには全ての乗客の頭の上にこの飛行機の行先が表示されていた。大勢の人間の頭上に同じ行先が表示されているのは少し不気味な光景だった。それを見たエフ氏は思わず、飛行機の中まではいらない能力だな、と頭の中でつぶやいた。
その後特に問題なく飛行機は目的地に到着し、現地に着いてからの商談相手との交渉も好感触だった。自分の仕事ぶりに満足したエフ氏は夕食に現地の名物料理を食べ、少し余裕を持って空港に向かった。
行きの時よりもスムーズに手続きを終えて無事に帰りの飛行機に乗り込んだ時、またもエフ氏は驚くこととなった。乗客の頭の上に何も表示されていなかったのだ。まさか、能力が失われてしまったのだろうか。いや、もしかしたら行きに、飛行機の中ではいらない能力だな、なんて考えたから飛行機では表示されないようになっただけではないだろうか。いくつかの可能性がエフ氏の頭をよぎった。いずれにせよ、電車に乗ってみるまで真実がわかるわけはなく、エフ氏はなんとなく落ち着かない気持ちになった。
すると突然、そんなエフ氏の不安に呼応するかのように、機体が大きくガタガタと揺れ始めた。随分大きく揺れるなと思ったエフ氏は窓の方を見てみた。そして窓の外の光景を見たエフ氏の頭には、すぐにもう一つの、最悪な可能性が浮かんだ。もしかしたら、誰も目的地に到着することができないから、誰の頭にも何も表示されていないのではないだろうか。
そんな考えを巡らせた矢先、ガシュッという聞きなれない音と共に、上部から酸素マスクが降って来た。窓の外ではエンジンがきれいなオレンジ色の炎を上げながら燃え盛っていた。