第九話 心を開く
「まだ、連絡とれないのか?」
「うん」
インドの都市が消えたというニュースから一日、ナイとミンはずっと俺の家にいる。ダイニングテーブルに二人して座って両親からの電話を心待ちにしているが、未だ来ず。ニュースがあってからゆうに二十四時間を過ぎていて、今日はもう夜の九時だ。母さんが心配そうに姉妹の顔を覗き込みながらミルクコーヒーをテーブルに二つ置く。ソファーに座って二人の様子を見ている俺にも一つ。父さんは続報を伝えるテレビに見入っているが、とても落ち着かなげだ。重く沈んだ静けさが場を支配していた。俺はスマホで何か新しい情報がないか見てみる。曰く、邦人の安否、不明。ナイに目を遣ると、テ―ブルの上のスマホを見ることすらなく、ただうつむいているだけだ。ソファーに深く座りなおして、フー、と息を大きく吐く。二人があんまりふさぎ込んでいるものだから、姿勢を変えるのにも気を遣ってしまう。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんとゲームしててもいい?」
耐えきれなくなったのか、ミンが口を開いた。ナイは感情のこもらない目で見やった後、黙っている。俺は、
「別にいいじゃないか。ずっと気を張っていても疲れるだけだろ。ほら、ナイもソファーで休めよ」
ナイがこっちを見た。ナイを考えているのかわからない表情だったが、そのうちふっと笑みを浮かべて、
「私は大丈夫。ミン。ヒィロのところ行ってきな」
それを聞くとミンは椅子から降りてタタタっと俺のところまで走り寄る。テレビをつけてなきゃいけないからテレビゲームはだめだぞ、という父さんの声にはーいと返事をして、携帯ゲーム機を手に俺の横に座った。
時間はそのまま流れた。ナイは結局ダイニングテーブルから動かなかったが、次第に眠気に負け、十一時には突っ伏していた。ミンはとっくにソファーに寝転がって寝息を立てている。俺は何度も何度も海外含めたニュースサイトをめぐったが、有力な情報はなかった。あの黒いカーテンが埃っぽい情景の中そびえ立っている写真ばかりで、すぐに見飽きた。父さんも母さんも明日もあるからと寝てしまったが、お前たちも早く寝ろ、とは言われなかった。俺はずっと起きていることにする。
時計の針が二本とも垂直になるかならぬかの頃、着信音が部屋に鳴り響いた。ナイのスマホだ。ナイは弾けたように目を覚ますと手を伸ばし、一瞬躊躇した。わかるぞ。「谷中ナイさんのお電話ですか?」なんてセリフが第一声として届けられたらどうしよう。そう考えているに違いない。俺の方を見るナイ。俺はただ頷いた。ナイが唇を噛んだ。起き上がった時とは打って変わった緩慢な、爆弾でも取り扱うような動きでスマホに手を伸ばす。
「はい、もしもし…………お父さん」
俺は胸いっぱいになっていた空気を吐き出した。よかった、生きてた。俺は迷ったが、やはりそうするべきだと思い、ミンを起こす。お父さんだよ、と言って。寝ぼけて目をしばたかせていたが、状況を把握するとソファーから跳ね起きて、ナイの方へと目をこすりながら走って行った。元のように二人並んで着席する。
「うん、うん、そっか。仕方ないね」
ナイの電話の内容はわからなかったが、察しはついた。大方……。
「わかってる。こっちは大丈夫だから。心配しないで。ありがとう。ホントに良かった。うん。うん。よかったよ、無事で。それだけでいいんだ。……それじゃ」
「待て! 切るな!」
俺は叫んでいた。ビクッとしたナイがこちらを見て、俺と目が合う。電話の向こうにまで聞こえただろうから、ナイの父さんはびっくりしているはずだ。
「な、何? ヒィロ? どうしたの急に? おかしいじゃんそんな声出すの」
「おじさんはなんだって?」
ナイはごくりとつばを飲み込んだ後、言った。
「困っている人が大勢いるからって。まだ帰れないって」
俺はキレた。どんどんとフローリングに踵を叩きつけるようにしてテーブルまで行くと、ナイの手からスマホをひったくって、
「あんたらおかしくないか!? 自分の娘が寂しがってんだぞ!?」
とあらん限りの声で言ってのけた。誰だ? ヒィロ君か? とか向こうでは言っている。
「今までどれだけナイが、ミンが、我慢してきたかわかってるのか!? ボランティアだか何だか知らないがそれは自分の娘より大事なものなのか!? 両親一緒になってどこを飛び回っているのか知らないが、自分たちの都合で子供にいろんなこと耐え忍ばせる親なんかクソだ! いいな! 今すぐ帰ってこい!」
それだけ言うと俺はハァハァと荒い息をつきながら返答を待った。少しの沈黙の後、それは返ってきた。曰く、その通りだ、と。なるべき早く帰る、と。俺は約束だぞ、と言った。
通話を切って(ナイに返す前に勝手に切ってしまったが、これでいいのかもしれない)、ナイの顔を見た。ミンは俺の剣幕に怯えたのか、ナイに必死でしがみついている。長い時間、俺たちは沈黙の内にいた。
「どうしてそんなことするの?」
ナイが言った。予想外の言葉だった。俺とナイは見つめ合う。
「助けてって言ったじゃないか。どうして今更」
「そうだけど」
それっきりナイは黙っている。俺はナイの向かいに座ってしゃべり始めるまで待つ。ミンが朦朧と言った様子でコクリコクリとし始めたので、俺は抱き上げてソファーに運び、毛布を掛けてやった。ダイニングテーブルに戻ると、ナイはすごく怖がっている様子だった。待つことたっぷり一分。ようやく話し始まった。
「怖いの。今まで耐えてきたことが無駄になるんじゃないかって」
「無駄なんて、ないさ。自分の感情を押し込めることの方が無駄さ」
「でも……」
「じゃあ、今まで何のために耐えて来たっていうんだ?」
答えはない。なら俺が答えてやろう。伊達に何年もこいつのことを見てきたわけじゃない。
「言ってやろうか。バレるのが怖かったんだろう? 自分が本当はいい子なんかじゃない、ごくごく普通の子だって」
見開かれた目がじっとテーブルに視線を落としている。瞬きまで忘れてしまったようだ。
「ずっとそうだったんだよな。自分には荷が勝ち過ぎる運命を背負わされて、背負っちゃって、今までは何とかなったけど、今、限界が来た。そう言ってたじゃないか。俺ならそれを助けられるよ。昨日の勇気をもう一度出せないというのなら、それでもいい。俺が代わりにやってやる。今みたいに」
涙がこぼれ始めた。声にならないしゃくりあげがナイの肩から聞こえて来た。俺は席から立って、ナイの肩に手を置いて、優しく語りかける。
「自分がいい子じゃないと知られれば、今まで演じてきた人格が、背負っていたものが、一気にほどけて、バラバラになってしまう。今までの努力が無駄になるっていうのはわかるよ。だから知られたくなかった。だがむしろ気付いてほしい感情もあった。二律背反、アンビバレントな感情ってやつだ。だからミンにわざと当たったりもした。それがサインだったんだ」
嗚咽が漏れ始めた。俺はテーブルを回って、ナイの座る椅子の後ろに行くと、ナイの体を背もたれごと抱きしめた。
「いいんだ、いいんだよ、ナイ。もう一人で背負うことなんてない。今まで一緒に背負ってやれなくて、ごめんな」
「うわあああ」
そこには子供のように泣きじゃくる、心を丸裸にしたナイがいた。ひとしきり泣かせた後、ミンとナイを布団を敷いた客間に落ち着かせると、俺は自分の部屋にあがって寝入るのだった。 結局、ナイの両親はほどなくして日本に帰って来た。それは一か月ぶりだったし、いつも風のように去ってしまうのを、夏休みの間中、ずっと家にいてくれるという話だ。それが終われば、また世界に飛んで行ってしまう。でもまるでそれを押しとどめるように、夏休みが終わる少し前、日本以外の全ての国が闇に飲まれた。