第八話 急変
「避難指示!?」
そうだ、とナイの御爺さんは言った。なにせここはあの海水浴場が望める場所なのだ。無論、沖合の『闇』は指さして見える。行政からの指示が飛んできても無理はなかった。今日はここには泊まれない。ナイは目に見えて気落ちするのだった。
「そんなに落ち込むなよ。また一緒に遊べるさ」
と俺が慰めても、うん、と、生返事を帰すばかりだ。
駅で一時間に一本の電車を待っていると、シズ姉の親父さんが車で迎えに来てくれた。テレビで一報を聞いて、いてもたってもいられなくなったらしい。サモリもそれに乗っていくという。残りの俺たちもそうした方がいいと言われたが、ナイはできるだけ長くおじいちゃんと一緒にいると言い張った。俺も付き合おう。だがミンだけは俺の家へ連れて行ってもらって、預かる。スマホで親にそう連絡を入れると、二人でシズ姉のお父さんの車を見送り、夕日色に染まった田舎道を歩いてナイの祖父の家を目指す。二人で、日が沈むまで。これからどうなるんだろう。俺は海の方へ目を向ける。あのクソッタレな黒カーテンめ……! お前が来なければ楽しい時間は続いていたものを。夕日の紅の中に四角く切り取られた黒い揺らめく幕。それに俺は心の中で呪詛の言葉を投げかけた。ナイと俺は田んぼのあぜ道を並んで歩いた。八月の緑豊かな水田に夕日の赤い光が降り注いで、稲が金色に輝いていた。長い影を踏みながら、これから避難し後にするはずのナイの祖父の家に向けて歩く。無言。ペタペタというビーチサンダルの音が水田に染み入った。
「あのね」
心地よい沈黙に一石が投じられた。
「ここね、ぶっちゃけると、私にとっては唯一の避難場所みたいだったんだ。追い立てられるような日々から逃れられる唯一の場所。それがこんな風になくなっちゃうなんてね。悲しいね」
いつもとは違う、押さえた声で独り言のように語るナイ。そっぽを向いて。その顔に浮かんでいるであろう表情を想像する。答えはすぐに示された。こちらを振り返るその顔に張り付いていたのは今まで見たことがないくらい不安そうな幼馴染の顔だった。
「なんだか、世界が狭くなってる気がする。居場所、こうしてなくなっていっちゃうのかな? そしたら私、溢れちゃうよ。色々なものが。耐えられなくなっちゃう。あのね、最近ミンにこぼしちゃうの。ついつい些細なことでどなっちゃったり。ダメだよね。ダメなお姉ちゃんだよね」
最後は涙声になっていた。言葉を区切ると、両手で祈るように顔を覆って、しゃがみ込んでしまった。ワンピースの裾が地面に擦りそうなくらい垂れ下がって。ああ、こういう時どうしてあげればいいんだろう。初音ヒィロ。俺の正念場だ。
「あのさ」
俺はナイに触れられない。しゃがんだ姿勢の彼女の後ろでうろうろ歩き回りながら言葉を紡いだ。紫の方が勝ってきた空の色を見つめながら。
「お前、本当によくやってるよ。うん、よくやってる」
慎重に言葉を選ぶ。俺らしくないとさえいえる。
「普通に考えて、年端もいかない女の子が、家事をそこまで担ってるなんていうのは一般的じゃないから。あー、だから、つまり、お前がやってるのは人から見てすごく褒められるようなことなんだよ。ただ、自分の気持ちを整理することにつまづいた、ただそれだけのことだよ。誰からも非難されることじゃない、そんなのは俺が反論してやるぞ。ナイ、お前自身がお前を批判するのからもお前を守ってやるよ。だから自分を悪く言うのはやめろ」
小さな後ろ姿に俺は何度も問いかける。しゃがんだ背中に俺の影が何度も触れた。
「ありがと、ヒィロ」
しきりに目のあたりをぬぐい、鼻音を立てる。
「ヒィロ」
それはまた違うトーンだった。
「なんで、そんなこと言ってくれるの?」
ギクリ、とした。そして自分が今何を言ったのかよく思い出してみる。顔に血が集まるのがわかった。
「私とヒィロはただの幼馴染、じゃないの?」
「いや、うん、その、はず、だ、よ?」
もはやしどろもどろだ。口が自由に動かない。何だろう。こんなのは初めてだ。鼻音を鳴らしながら、ナイがこちらを見る。すべてを投げ出したような笑みがあった。
「私にとってはそうじゃないんだ。幼馴染なんかじゃない」
それは、どういう意味? 口を開きかけるが、黙っていることにする。
「助けてくれたでしょ? あの日。ヒィロは私のヒーローなんだよ。あの日の出来事があったから」
「あの日の出来事?」
驚いたように口を開けた後、がっかりした表情になるナイ。
「もう、忘れちゃったの? アレだよアレ」
俺は手を顎に当てて考え込む。うん? 思い当たらないな。こいつとはほんの子供のころからずっと一緒だから、思い出が多すぎる。いったいどれのことだ? 溺れたのを助けた時か?
「やだなあ」
膝に手をついてよっこらせ、と言う感じで立ち上がるナイ。自分の体を背負うのも大変そうに見えた。
「忘れちゃったの? あの時のこと。私がお父さんお母さんがいなくなっちゃたと思って泣きわめいていた時、ずっとそばにいてくれたじゃん。あれ、すごく助かった。恥ずかしいけど、言っておくね。ありがとう」
ああ、あの時か。家にお父さんもお母さんもいない。そう言って家に転がり込んできたことがあったっけ。ナイの両親が家にいないことはしょっちゅうだったが、十歳のナイにはついに耐えられないことだったらしい。まあその時は、ミンを身籠っていたナイのお母さんを病院に連れて行っていたのだが。急な事だったからナイの小学校に連絡もなくって、ナイはびっくりしたんだったな。捨てられた、と思ったらしい。
「今も、あの時と同じ気持ちがしてる」
まっすぐ見つめ合う俺とナイは、稲の草むらを通り抜けてきた風に身をゆだねる。ナイの髪がほぐされて夏の夕方の空気になびいた。
「もう一度、ヒーローになってもらっても、いいですか?」
「それは助けを求めてるのかい?」
長い沈黙。かわいらしい顔がコクリ、と頷いた。俺は微笑む。
「よく言えたね。お前がそれを言うのは勇気が要っただろうに……。ほら、泣くな泣くな」
また泣き出すナイだった。顔をくしゃくしゃにして、俺の胸に頭をコツンと当てて。シャンプーのいい匂いがした。
「ナイ。好きだ」
「これだけたくさん遠回しに言わないとそう言ってくれないなんて、鈍いよ。ばかぁ」
思わず笑みがこぼれる。愛しい人。肩に手を回す。これでいい。さて、こいつの抱えてる問題を解決する術を見つけてやらないとな。
「どうしたい? ナイは」
腕の中から答えが返って来る。
「あのね、私、もっとちゃんとお父さんお母さんとお話ししたい。今のままじゃいやだ。だって何も話さないまま『いい子』を演じてるじゃん? それじゃいやだよ。壊れちゃう、溢れちゃう」
心の底の熱いものをそのまま汲みとってきたかのような言葉におれはただ「そっか」としか返せないのだった。
その時、電話が鳴った。俺のスマホだった。俺はナイから体を離すと、なんとなく不吉な響きのするその着信音を止め、電話を耳に当てた。相手は母だった
「あっ、ヒィロ!? 今ニュース見てる!? インドの街が丸ごと『闇』に包まれちゃったって! 谷中さんのご両親が今いるところでしょう!?」
絶句した。電話口の声はナイにも聞こえていたらしく、その顔が蒼白になる。俺たちは急いで駅に向かった。