第七話 動き
六月は休みがないから長く感じる。ナイが弱音を吐いたあの夜から俺の心はずっと同じところでモヤモヤしている気分だった。それに反して、なんだか教室の連中はニュースに忙しいらしい。アメリカや中国の町が真っ黒い闇に消えたとか、海の向こうの、俺たちに関係ない話で持ちきりだ。どうしてそんなものに夢中になれるのか、俺には不思議だ。どこか遠い場所のニュースやいつも顔を合わせているはずの人間のつぶやきを拾う生活のどこに面白みがあるんだろうか。別にそういうのを嫌ったり憎んだりしているわけではないが、友人までそんなことを言い始めるとうっとうしくもなる。
「あ、ヒィロ! ニュース見た? すごいよね! 何万もの人が中に閉じ込められてるかもしれないって! いきなり現れるんだから怖いよね!」
ミーハーなところのあるナイはすっかり世の中のムーブメントに染まっている。さみしいとか言っていたのが嘘のようで、こちらの方がやっぱり落ち着くのだが、うっとうしいのは止められない。
「興味ないんだ。すまんね」
えーっ! という声をナイが上げ、席に座っていたシズ姉が苦笑し、サモリが寄ってきた。いつものメンバー、いつもの日常。卒業まで続く連続の一つ。そのはずなんだ。
唐突に外のクラスの人がナイを呼ぶ声がした。部活の先生がお呼び出しのようだ。はーい! と声を上げて出て行くナイ。うるさいのがいなくなった後、残された人間がその人物について話をするのはよくあることだ。別に陰口悪口とかではなく。
「ナイさんって」
最初に口を開くのはシズ姉。この三人だと大体それがパターンだ。
「確か、その、ご両親が……」
サモリの方をチラチラ見ながら思っていることを口にする。サモリは微笑んで、
「ナイのパパとママは世界中飛び回ってるんだよね。あたしのパパとママがそうだったみたく」
「そ、そうなんですよね」
シズ姉は恐縮しながら答えた。俺は「サモリが気にしてないんだからそんなに恐縮することないのに」と言った。取りあえずシズ姉の話の続きを聞く。
「きっと、心配なんですよ、ナイさんは。明るく振る舞ってますけど。ほら、あの変な現象、予測がつかないっていうじゃないですか。だからナイさんのご両親がその中にとらわれてしまうっていう危惧はもっともだと思うんです。どんどん増えて、減ることがないって言いますし、私も世界が消えちゃうんじゃないかって、不安です」
「うーん、そうなのかなあ」
などと言っていると、サモリに脇腹を小突かれた。見ると、非難するような視線を向けて、「ヒィロはもっとナイのこと心配する素振りみせなよ」と言った。
「なんだか心配なんだよ。ほら、あたしもパパとママがあんなことになったでしょ? ナイの親もそうなっちゃうんじゃ、ってのは非科学的だけど、あんまりいい気持もしないんだよなー。まあどうしようもないけど。自然に任せるしかないっつーことかな。牛乳が発酵してチーズになるみたいに」
それもそうだ、と思った。サモリが続ける。
「まったく、もっとケアしてあげなよな。恋人なんだから」
「ちげえよ! ただの幼馴染だって」
シズ姉は俺を見ながらクスクス笑った。そんなに人の焦る様子を見て面白がるのか。気遣い屋のシズ姉にしては失礼だな。
「で? 二人の関係はどうなの? ヒィロ君」
サモリがにやにやしながら肘で俺のことをつんつんしてくる。まったく。
「あいつとは何でもないって。そりゃ俺なりに心配はするし、一緒に勉強したり、泊まらせたりするけど……」
「泊まらせる!?」
サモリが素っ頓狂な声を上げた。シズ姉を見ると、口に手を当てて驚いた表情をしている。
「おやおやおやそれはそれは」
「まあまあまあそれはそれは」
「な、なんだよ」
顔を見合わせておやおやとか、まあまあとか、変なことを言っている二人に俺は困惑の視線を浴びせる。
「まったくもう、ヒィロ達ケッコー進んでたんだねえ」
「ホントですよ、はしたないです」
サモリは嫌らしい笑みをしているし、シズ姉は顔を手で覆って指の隙間からこっちを覗いている。本当に何だっていうんだ。
「言っておくけどその時はミンも一緒で……」
「仲がいいねえ、ホント」
もういい。相手にするもんか。俺は自分の席に帰ると、昼休みまであの妄想力たくましい女どもとは話さなかった。
そんなうっとうしくも楽しい日々は過ぎ、夏休みが来た。高校時代最後の楽しく遊びまわれる夏休みだぞー、お前ら楽しめー、なんて先生の言葉を聞きながら、俺たちは長い休みに突入していく。
「ねえ! 今年の夏休みは私のおじいちゃん家行かない!? 何日か泊まってさ! 海が近くだから、海水浴しようよ!」
終業式の帰り道、そう提案するナイに俺たちは当然大賛成だ。
「いいじゃないか。行こう行こう」
「海ぃ? はぁ、知らないの? ナイ。あたしは強い日ざしに当たると死ぬんだよ? ヴァンパイアなんだよ? ノスフェラトゥなんだよ」
「サモリさん、その割には十字のアクセサリーつけてますよね」
「あたしはサイキョーの吸血鬼だからこんなものは何でもないんだ」
「はいはい」
夏の日差しがまぶしい。この儚い時の輝きを全身で受け止めているようだ。
日差しがむき出しの肌を刺す。ジリジリという熱く気持ちのいい感覚が全身を包んでくれる。お世辞にもいい色ではない黒い砂浜を見つつ、伸びをすると、俺はパラソルの作る日陰の中に戻った。
「ヒィロぉ! 影に隠れてないで早くこっち来なよぉ!」
「お兄ちゃん、早く!」
ナイはじめ女連中四人は太陽の下に惜しげもなく白い肌を晒してビニルのボールを投げ合っている。いや、サモリだけは頑なに脱がないでTシャツ姿だが。勝手にやっていればいい。どうも俺はキャッキャウフフの輪に加わる資格がないように思えて、イマイチ一歩が踏み出せないタイプなんだ。そういう時は決まって小さいころから、
「何やってんの! せっかく海に来たのに傘の下でずっと体育座りなんだもん、おかしいよヒィロは!」
ナイが手を掴んで明るい方に引っ張り出してくれるんだった。そうして俺もボール投げに参加する。やってるうちに調子に乗ってきて、俺はつい運動不足で神経鈍り気味のシズ姉に、「それ!」と言って強めに投げつけてしまう。きゃっ、という悲鳴が上がる。ここで「やったな~」と言って投げ返してくるシズ姉ではない。反撃は残りの三人の仕事だ。
「あー! いけないんだ、ヒィロ!」
と言って俺より運動神経のよさそうなナイがボールを投げつける。サモリに至っては無言で砂を顔目がけてかけてくる。ミンまでその真似をするんだ。それを見て大いに笑うシズ姉だった。楽しい。俺は心底そう思う。昨日も楽しかったし、今日も楽しいし、きっと明日も楽しいんだろう。こんな日々が永遠に続けばいいのに。
「何あれ!?」
しかし、どうやら世界はそれをお望みじゃないらしい。他の海水浴客が悲鳴を上げ始めるのを聞いて俺たちは彼らの指さす方を見た。海の先のそのまた先、遥か沖合。そこには、そこだけが夜になったような、いや、夜よりも暗い何かがカーテンのベールのように空から水平線にかかっていた。本当に、真っ黒で、そこだけ世界の一部が切り取られて消失したような見た目はあまりにも非日常だった。空間に四角い穴が開いたようにも見えるが、その境界はゆらゆらと揺らめいていた。
「『闇のカーテン』だ……」
サモリがボールを持ったまま呟いた。国連正式名称の訳語、「暗幕型観測不能界面」ではなく、慣れ親しんだネットスラングを使ったんだ。俺たちには関係ないと思っていた。遠い世界の出来事だと思っていた。自分たちの世界にそれがやって来るなんて、思いもしなかった。少なくとも俺はそうなんだ。
「なにあれ」
「あれが、例の」
ナイとシズ姉も沖合の『闇』に目を釘づけにして不安そうにしている。ミンがナイに駆け寄って抱き着く。
「みなさん、落ち着いてください! 落ち着いて退避してください!」
海水浴場の人がメガホンで叫んでいた。慌てて陸の方に上がっていく人多数。俺たちも砂浜を上がっていく。急いでシートやパラソルを回収する。ビーチサンダルの中に砂が入り込んで足の裏がじゅくじゅくするのにも構わず。空はお天気なのに、急に振り出す雷雨から逃げるような感じがあった。
「はやくはやく!」
ナイがミンの手を引きながら叫ぶ。そんな急かさなくたっていいのに。シズ姉がかわいそうなくらい狼狽しながら荷物を片付けている。サモリは冷静にギターケースやらナップサックやらを背負う。戻るべき場所は一つだ。
「はやくおじいちゃん家に入ろう!」
ナイの言葉に同意する俺たちだった。