第四話 観覧車
「この間のピクニックのことを言ったら父が是非お礼がしたいって言いだしちゃって……。遊園地のチケットを四人分くれたんです」
ある日の夜、四人だけのグループチャットでこう言ったシズ姉に、俺は「いいね」を返した。今度の日曜は遊園地。シズ姉のお父さんのお金で楽しんで来いとのことだ。ありがたいことだが、弁当の具材を用意したのはナイだし、なんだかこそばゆい。俺はちょっと恐縮してしまう。
次の日、チケットをもらったナイは大喜びだった。サモリは喜んでいるのかいないのか、黙って受け取るだけ。もうすこし感謝を示した方がいいと思うのだが。
また日曜日が来た。通学路とは反対の方向にナイと連れ立って歩き、駅でサモリと落ち合い、電車でシズ姉の家まで行く。そこに到着すると俺たちは感嘆の声を上げた。初めて訪れる場所ではないが、ここへ来るといつもこうだ。
「すご~い、おっきい! いつ見てもすごいよね、シズ姉の家は!」
「本当。彼女はブルジョワジーだね」
スマホで連絡をするとシズ姉が玄関から現れ、ギギと鉄門を開けてこちらに出てくる。
「ごきげんよう、みなさん」
その優雅な仕草も高級そうな恰好ももったいぶったセリフも、みんながみんな絵に描いたようなお嬢様で、俺は吹き出してしまった。他の二人もそうみたいで、サモリはニヤニヤ、ナイは口を押えてプルプルしている。シズ姉はそんなこと一切気にもせず、首をちょっと傾けて会釈をすると一緒に駅へ行きましょう、と言うのだった。四人で電車に乗っている間、漫才のような掛け合いを続けるナイとサモリを尻目に俺は今回はありがとう、とシズ姉に伝えた。どういたしまして、と返ってきた。
「父の計らいですから。お礼は私ではなく父に」
「シズ姉のお父さんは本当に素晴らしい人なんだね」
一瞬、間があった。その後、そうですね、と聞こえた。吊革につかまった左腕越しに、俺は彼女の横顔を見たが、その微笑みの内側までは見ることは出来なかった。
散々アトラクションを楽しみ、日が傾いた頃、俺たちは最後に定番の観覧車に乗ることにした。列に並びながら四人で一個に乗ろうと言うナイに対してサモリは、
「こういうのは空気を読んでカップル達だけ二人きりにしてあげるもんなんじゃないの?」
と言うのだ。俺とナイは少し赤くなりながら同時に、
「私たちそういうんじゃないから!」
と怒鳴った。こういう時の二人の声の揃い方は幼馴染ならではなのか。だがこれはサモリの術中だったらしく、ニヤニヤ笑いを引き出しただけだった。
「おやおぁ? 自分たちではカップルのつもりだったのかなぁ?」
「ふざけないで!」
ナイが叫ぶ。そんなに顔を真っ赤にされると俺もどんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
「サモリさん、人の恋路をからかっちゃいけませんよ」
「シズ姉まで!」
ナイはもう怒りと照れでトマトのようだ。そんなやり取りをする間にも列は進み、俺たちの順番が来る。ナイが突然こんなことを言い始めた。
「私たちはそういうんじゃないから! ほら! サモリ! 一緒に二人で乗るよ! それでいいでしょ!?」
「え? いいの? だってそしたら……」
「いいから!」
と言うと、サモリの腕をつかんでやってきた籠に先に乗ってしまう。俺とシズ姉は顔を見合わせると、もう閉まってしまったナイとサモリの籠に無理に乗ることはせず(まあやろうとしてもそうそうできないが)、あとの籠に乗るのだった。
天空へと上がっていく箱の中で、俺とシズ姉は向かい合って座っている。シズ姉の方が背が高いのに、座った時の目線の高さが同じなのは俺が短足なわけではなくてシズ姉のスタイルがずば抜けているんだろう。
「サモリさんたらああいうことを言うからせっかくのヒィロさんナイさんのチャンスを台無しにしちゃったんですね」
「まあ、うん」
と言っただけで、沈黙が続いた。向こうではどんなやり取りをしているんだろう。ナイがサモリに憤りをぶつけていることだけは確かのはずだ。静かに景色を眺めるだけもなかなかいいものだが、ナイの手前、他の女の子とそんな時間を送るのも悪い気がした。俺だって人の好意を無碍にしたくなる人間なわけではない。俺は口火を切った。聞いてもいいかな? と言って。
「なんでしょう?」
長い前髪を揺らしながら窓の外に向いていた微笑をこちらに向けてくれる。
「シズ姉はいつも優しいし、気が付くし、気を遣うし、すごいなと思って。どうしてそんなふうに振る舞えるのかなって」
どうしてって言われても、と、困り顔のシズ姉。しかし何も答えないと言うわけにもいかないと思ったのか、きっと本心であろうことをつらつらと述べてくれた。
「多分、お父さんの教育がよかったんだと思います。厳しい人でしたから。礼儀作法、お行儀とか、立ち居振る舞いとか、どういう場面でどういうことを言うべきかだとか、とてもよく教えてくれて。ほら、私、早くに死別して母がおりませんでしょう?」
そうだった。仲間内では周知の事実だが、俺は今の今まで忘れていた。危うく踏まなくていい地雷を気づかず踏んでしまうかもしれないところだった。
「だからその分人より秀でてなくちゃいけないからって。今の私があるのは父のおかげです」
なるほどな。
「羨ましいなぁ」
俺は無邪気にそう言う。
「そうでしょうか?」
「だってそうだろ? うちの親なんかすんごい普通でさ。俺も色々教育してもらえばもっとシズ姉みたいに優秀になれただろうにってさ」
「優秀、ですか」
ふと、籠の中の時間が停止したように感じた。風を切るひゅーひゅーという音が嫌に大きく聞こえた。それを境に、シズ姉は当たり障りのない話題に切り替えたので、俺も深く追及はしなかった。
観覧車を降りたとき、サモリが俺のそばに寄ってきて、「ごめん」と言った。俺は一瞬何のことかわからなかったが、「いいよ」とだけ言うのだった。ナイがしょんぼりしているのが目に入った。帰り道、俺はなるべくナイの横に位置取るように歩き、慰めるよう努めた。まあ、慰め方なんてわからなかったから、いつものように半ばふざけた言葉を投げかけるだけだったのだが。最初は反応が鈍かったナイも、次第に明るくなって、サモリが腹減ったと言いながらみんなで入ったレストランではすっかり元気になっていた。
「そっちは観覧車の中で何話してたの?」
テーブルに着くと、ナイがこっちをじっと見ながらそう聞いてきた。
「シズ姉のお父さんについて」
おれは正直に答えた。別に構わないはずだ。隣のシズ姉を見ると澄ましているので俺はそう確信する。ナイは食いついたらしい。
「ねえ、ねえ、シズ姉のお父さんってどんな人?」
ナイが身を乗り出して訊ねる。その身体でドリンクを倒されそうになったサモリがおっとっととコップに手を遣った後、軽くナイを睨んだ。
「そうですねえ」
シズ姉は答えにくそうだ。ナイはふてくされたようにベタッとテーブルに胸から上を伏せって、
「いいなあ、私のお父さんお母さんはあんまりかまってくれないから。いっつも家にいないんだよ。仕事仕事でさ……。あっ、そっか、シズ姉はお母さん……」
唐突にバッと手をついて立ち上がると、
「あっ、ごめん、サモリも! こういう話」
サモリはジュースをずーずー言わせて吸いながら、じとっと再び嫌な圧力を伴った視線でナイの方を見た。
「だーかーらー」
ストローから口を離すと、心底うっとうしそうな声でそう言うのだ。
「いくらあたしにパパもママもいないからってそういう風にいちいち気を遣われるとホントやりにくいんだって。あたしだって普通にみんなのご両親の話聞きたいよ。シズ姉だってそうでしょ?」
「ええ、もちろん」
シズ姉はいつものように穏やかな表情で答えた。
「そっか、ごめん」
と、ナイ。俺も気を遣いすぎていた、ごめん、と言っておく。
「いいってことよ。わかればよろしい」
サモリは引き続き氷しかなくなったコップの中身をずーずー言わせて飲み干そうとするのだった。
サモリとシズ姉とは電車の中でお別れだ。俺とナイはいつものように駅で降りる。線路の上を渡す歩道橋を行きながら、二人で家の方に向かう。
「ホントにシズ姉と観覧車の中で話したのはそれだけなの?」
こいつはしつこい所がある。何度もそうだと言ってるじゃないか。そう突っ込むと、何も言えなくなるのか、黙る。
「正直に言えば実はキスしてました」
真顔でそんなことを言ってみる。ナイはこっちをキッと睨む。本当にかわいい奴め。
「まあまじめな話をするとさ」
声のトーンを変える。ナイも横目で俺の顔を見た。真剣に聞く準備が整った時のこいつの癖だ。
「シズ姉だって決して完璧じゃないんだ。お前と同じような悩みを抱えてる」
「私と同じって?」
キョトンとしたかわいらしい顔に俺は語りかける。暗い夜道はなんだか暖かくて、いつもより踏み込んだ話ができそうだった。
「シズ姉だって親との距離感がわからなくて困ってるんだ。反応から見た結果だから多分だけど。お前も気づかなかったか? 日常の些細な反応から」
まあそうかもね、と聞こえた。それっきり、ナイと俺は身のある会話もなく、いつも通りの別れの挨拶をしてお互いの家へと帰った。隣り合った二つの家。俺は両親の待つ家へ、ナイは妹だけが待つ家へ。