第二十四話 三度目の終わり
妙なタイミングというのは来るものだ。夏休みが明けてから二週間経ったその日は金曜で、俺はこれが最後の登校日になるのを知っていた。新学期になってからサモリが学校の軽音部に顔を出すようになっていたから、俺はその帰りを教室でスマホを見ながら待つことにしていた。教室にいるのは……あの不気味少女、烈都ニハヤだ。こいつはどうも苦手だ。どの世界でもちゃんとしたコミュニケーションが成立したためしがない。妙なタイミングというのはこれ。夕日差す放課後の教室でニハヤと二人っきり。いやあ、何というか、居心地が悪い。だってニハヤは俺の視界の中で微動だにせず前を向いて座ってるんだもの。薄暗い中で直に夕日の光を受けながら、そのストレートの長髪の作り出すシルエットはまるで人形のようだった。ふぅ、と俺はなにがあったわけでもないのにため息を吐く。この状況がなんとなく嫌だったからだろうか。静寂。その中でたたずむ俺とニハヤ。ろくに口もきいたことのない関係の男女がこんな風に一緒の教室に残ってるだなんて変じゃないか? 向こうは何の用があって……。
ふと、ニハヤがこちらを向いた。あいつは窓際に座っていて、俺は教室の真ん中の方だから、横にいるこちらを向いたことになる。九十度も首を曲げたのだから生理的反応とかではなく、間違いなく自分の意思で俺を見ているはずだ。スマホに目を落としているふりをして横目でチラチラ見ていたから簡単に気付いた。俺もニハヤの方を見る。何だ? 何だっていうんだ?
「あの、何か」
「ループの回数が無制限だとでも思っているの?」
その瞬間、全身が総毛立つのがわかった。ぞくっという感覚が腹から背中に通り抜けた。
「それは、どういう」
いや、どういう意味かは分かっている。訊くべき質問はそうじゃない。
「なぜ、私にそんなことがわかるのか」
そう、それだ。まるで俺の心を読んでいるかのような言いぐさだ。いや、本当に読んでいるのかもしれない。だってこいつはループという言葉を使ったぞ? 今の俺の置かれている状況を的確に表す言葉だ。何を……。
「何を、知っている?」
今度は適切な質問だったと思う。ニハヤは立ち上がって、俺の席に向かって歩み寄ってきながら。俺はつい身を引く。一歩一歩ごとにこの世の真実が向こうから迫ってくるようだった。知りたいと思った。知りたいと思ったさ。どうして自分は時間を戻されて世界もずらされて一人孤独な旅をしなければならないのか。そして、世界はなぜ滅びなければならないのか。
「頭がさ、追いつかねえんだけど」
「安心して。時間は無限にあるわ。いくらでも頭を冷やして頂戴」
どういう意味だ。世界はもうあと二日で終わるんだぞ? そしてその後俺はどうなるのか。また世界を巻き戻って他の奴と幼馴染関係になるんだろう? どうせ。
「そうはならないわ」
また! 俺の心を読みやがった! こいつは!
「う、うわあああ!」
そんなことをされたらついつい情けない声が上がって椅子から転げ落ちたりするというものだ。慌ててはいてもそんなふうに冷静に自分を見ている俺もいた。ニハヤは尻もちをついた俺の目の前に立つと超然と見下ろす。そしてこう言うのだ。次はない、と。
「次はない? どういう意味だ!」
「そのままの意味よ。あなたの旅はこれで終わり。よくやったわね。あとはあのサモリって子への思いに後始末をして終わり。大丈夫? 理解できる?」
歯がガチガチなる。ここまで恐怖したのは初めてだ。
「終わりってなんだよ」
「期待しているわよ、初音ヒィロ」
俺の意識はそこで途切れた。
目覚めたのは自室の布団の上だった。慌てて枕もとのスマホを見る。日付は、間違いない。世界の終わりの日曜日だ。ペンダントを握りしめ、急いで起き出す。着替えて一階に降りて、
「母さん! サモリは?」
もう朝食の時間はとっくに過ぎていた。こんな時間まで眠らせられるなんて殺生だ。時間がないというのに。
「え? 昨日言ってたでしょ? 今日はバンドの皆さんと練習があるんだって」
「じゃあどこへ行ったんだ!?」
母さんは驚いて、
「今出てったばかりだからすぐそこを歩いてると思うけど……」
「ええい、クソッ」
俺は玄関を出て走った。財布も持たずに。駅までの道を。やがて、
「サモリ!」
その姿を見つけることができた。俺の声に驚いて振り返った。顔を見るに、道端で大きな声出すなよぉ、なんて考えているに違いない。しかしそういう場合ではない。
「サモリ、よかった、追いついて」
「なあに? ヒィロ。そんなに慌てて。私何か忘れ物した? お出かけのチューとか。したくなっちゃった? チュー」
俺はサモリの肩を掴んで揺さぶった。ギターケースがガタガタ揺れた。
「そんなんじゃない! 『闇』だよ! 今日どこかへ行ったらもう一生会えなくなるぞ!」
ここまで言ってもまだサモリは事態を飲み込めないようだった。
「ヒィロ」
サモリは小さい子に諭すような視線で見上げてくる。サモリをある種できの悪い妹のように思っている俺は、これじゃあちぐはぐじゃないか、と思った。
「だからこそだよ。最後くらい、好きなことをして過ごしたいんだ。それはみんなも同じだと思うよ。試してみるね」
何をするかと思えばサモリはスマホを取り出すとどこかへ連絡をするのだ。あ、もしもし? ナイ? なんて言ってるが、どういうつもり……。
「うん。うん。そっか。それじゃあね。さよならだね。……今のはナイだよ。今話したんだけど、妹さんに料理教えてるんだってさ。楽しそうだね。もう一人にも電話かけるね」
今度はシズ姉だろう。わかってる。また、電話に出る。
「もしもし、シズ姉? 今何してる? あっそう。それじゃ、お父さんと元気でね。さよなら」
違う。
「お父さんと二人でいるんだってさ、ヒィロ。みんな好きなように過ごしてるんだよ」
違うんだ。
「そりゃ最後だもんね。みんなわかってるよ。今日が最後の日曜だってこと」
あいつらは自分の好きな最期を迎えられるわけじゃないんだ、サモリ。俺にできるのはお前に望む最期をくれてやることだけで。
「だからさ」
サモリは微笑みながら言った。
「だから、あたしにも好きな最期を選ばせてよ。それともヒィロも行く? この前会ったでしょ。みんな楽しい人たちだよ」
そうか。サモリはもう救われているんだ。ギターに隠されていた父からのメッセージを見たとき、既に。じゃあもういいじゃないか。あとは好きなようにさせれば。俺はなにを焦っていたんだろう。そうだ。これでいいんだ。
「じゃ、行くんだね、一緒に」
ああ、と俺は言った。俺も最後を好きなように迎えたい。今抱いている答えは、サモリと過ごす、だった。俺は音楽はわからないけれど、頑張って練習するサモリを見ていたいと思ったんだ。
「駅に行こっか」
だがそれは敵わなかった。駅はもう……。
「あ……。『闇』、『闇のカーテン』だ」
俺たちがそちらから視線を外していたわずかな隙に『闇』に飲み込まれていた。
「サモリ! 逃げるぞ!」
俺は彼女の手を掴んで走り出す。しかし、その手は水入りドラム缶にでも繋がっているんじゃないかってくらいに重かった。どうしたっていうんだ。
「どうしたんだよサモリ! さっさと逃げなきゃ!」
その顔は絶望に染まっているわけではなかった。むしろ微笑んでいて、全てを受け入れているようであった。
「逃げるって、どこへ?」
「学校だよ! 少しでも高い場所へ行かないと!」
サモリは下を向いて足で地面をけっている。しきりに。まったく、ガキじゃないんだからもう少しちゃんとしてくれ。
「なんだか、足動かなくってさ。アイム・アンネイブル・トゥ・ラン」
「サモリ! もう、何としてでも連れてくぞ!? ほら、おぶされ!」
かつてそうしたように、俺はサモリの馬になる。後ろのことだから気づかないがきっとしぶしぶと言った様子で負ぶわれるはずだ。重みがくる。よし。
「じゃ、行くからな?」
そう言うと俺は学校へ向けて歩き出すのだった。
こいつは全く重くないが、体力のない少年である俺には厄介な道のりだった。校舎の入り口に着いた時には案の定、息が切れていた。
「ほら、降りろ。もういいだろ?」
「うん、ありがと。苦しゅうなかったぞ」
ぶっ飛ばしてやろうか、こいつ。だがまあいい。二人で階段を上がっていく。二階、三階、そして屋上へ。自然とそうすることができた。避難者で埋まった他の教室には目もくれずに。屋上もまた人で馬会っていた。俺たちは人をかき分け前にサモリが腰を下ろしていた場所まで行くと座り込んだ。もうここから動かないつもりだ。サモリがギターを取り出した。愛用の形見のギターの後継、俺の両親に買ってもらった新型。かき鳴らす。いい音色だ。最後がこれなら悪くない。そう、最後。ニハヤの言っていたことは本当なのだろうか。そう、これが最後という。しかし俺の思考はサモリの言葉に遮られた。
「あたし、絶望してたんだ。どうせ誰も救ってくれないって。でももう大丈夫。ヒィロがいたから」
俺は横に座っているサモリを振り向く。それは愛の告白だった。サモリの頭が俺の肩に寄りかかってきた。暖かい感触に俺の心は安らいだ。
「もう安心。繋がってるよ。君とも。みんなとも。あたしはもう死の世界の住人じゃないんだ。ヒィロのおかげだよ」
それはどういう意味だろう。そう、彼女はとらわれていたんだ。両親の死に。そして「この世に間借りしている」という感覚が生まれ、誰とも解りあえないまま、ずっと過ごしてきた。しかしもうそうじゃないんだ。こうなれたのが俺の御蔭と言いたいのなら随分買いかぶりだが。フェンスの向こうでは今回も町がどんどん『闇』に飲み込まれて行っているのが見えた。今回も終わるんだな。そう思った。そしてニハヤの言う通りなら、今回は特別な「終わり」のはずだ。もしかしたら、もう繰り返し(レペティション)はないかもしれない。これが本当の終わりかも。俺は頬に当たった金髪のベリーショートを想う。サモリ。愛しいやつ。ナイも、シズ姉も、同じくらい愛しいやつだ。同じくらい。そう。同じくらいだ。みんな大切なんだ。そう思った瞬間だった。頭の中に声が……。
「やっと、その境地に至ったのね」
誰だ!? 声は出なかった。もう世界は暗い中に包まれていて、肩に当たっていたサモリの頭の感触も消えていた。今のは誰の声だったんだ? いや、これは、今わかった。ニハヤなんだ。何度も見た夢の声の主も、ニハヤだったんだ。俺は上も下も地面もわからない暗闇に浮かんだ一個の人間として存在していた。