第二十三話 割れる、殻
自分にも、誰にも埋められない心の隙間を埋められずにもがいている。それがサモリだった。変なセールスマンに捕まらなきゃいいけど。無軌道にならずに友達の間でだけ自分の身を転がしてるのはまだ救いがある。ナイの家に泊まったと思ったら、最近はシズ姉の家に厄介になっているそうだ。よくあの親父さんがオーケーを出したな。俺たち家族は敢えてサモリの放浪にはタッチしなかった。ナイやシズ姉の家にいるのならまあ安心だから。だが俺は穏やかではない。時間がないのだ。何とかこの夏休み中にすべてを決さなければ、何も変わらないまま終わってしまう。シズ姉から連絡があった。曰く、サモリが出て行ったと。俺はなんとなく、ナイの家やウチに戻ってくる気配がないような気はしていたんだ。だとするなら、行き先は恐らく、音楽仲間のところだろう。サモリの携帯はおろか、SNSでも音沙汰がなくって、連絡は困難を極める。あのライブハウスだけが手がかりだった。俺はシズ姉から連絡があった日の夜、ダメもとで真っ先にそこへ行くことにしたんだ。
果たして、ドンピシャだった。その日はサモリの属しているバンドの演目のある日だった。サモリはこのライブに出るために消えたのだった。明日になってからじゃ遅いような気がしたから、何としても今日あいつを捕まえなきゃならない気構えだ。それにしてもライヴハウスの中というのはどうにも慣れない。シズ姉が落ち着かなくなるのもわかる。自分みたいな人間は果たして、「ここで楽しむ権利があるんだろうか? 場違いじゃないんだろうか? 誰かに急に肩を掴まれて、『お兄さんここはあんたなんかの来るところじゃないよ』とか言われないだろうか?」という気になるんだ。もちろん被害妄想なんだけど、とにかく気になるんだ。そういう気持ちをごまかすには見知った人間が必要で、それはこの場にはサモリしかいないのだった。
ステージの上に件の人物が現れる。サモリ。悲しそうな顔も、うれしそうな顔もしていない。演奏が始まる。抑え気味の、前とは全く違う曲目だった。それにしてもサモリの技量はすごい。なんだっけ。音楽には詳しくないが、動画サイトで見た昔のギタリストみたいだった。いつかの折に、去年だったと思うけど――ということは別の世界の出来事だ――、小さいころに父に教えてもらったんだとか言ってたな。まだギターにうまく手が届かない頃から、父の膝で、とか。そんなことを言っていた。今はもう自分からは語れそうもない優しい思い出。サモリの核の部分。俺はバンドの他のメンバーにも目を向ける。みんな大人だ。歳は俺たちの倍以上なんじゃないか? 男性も女性もいる。どういう経緯で知り合ったんだろう。そんなことを考えていると、あっという間に曲が終わってしまった。お辞儀して、幕の裏に消えていくサモリ達。俺は慌てて呼びかける。
「サモリ!」
声は間違いなく届いたようだ。ステージの上のサモリがこちらを見止めた。驚き顔を浮かべる。声もなく、「どうしてヒィロがここにいるの?」と考えているのが手に取るように分かった。俺は何とかステージの裏に回る方法を探った。他のお客さんの波に逆らって、サモリから目を離さずに。横手からステージに上がる。お客さんはもう誰もこっちは気にしていないみたいだったから、別に恥ずかしくはなかった。ドラムの前を通ってサモリに近づく。
「お前、黙っていなくなりやがって。今日ここで会わなかったらどうするつもりだったんだ?」
サモリは首から形見のギターを下げたまま、
「ヒィロの家に帰るつもりだった」
そうじゃないだろ。俺とお前の家だろ。
「えぇ!? サモリちゃん、何も言わずに出て来ちゃったのかい? どこか泊めてくれる人いないかとか言われたときはびっくりしたけど」
髭面の四十歳位の男性が声を上げた。演奏中ドラムをたたいていた人だ。他のバンドのメンバーの人も集まって来る。
「何々どうしたの」
キーボード担当の女性や、もう一本アコギを弾いていた背の高い男性など。
「どうしちゃったの、サッチャン。もしかして家出? じゃあこの子が例のヒィロ君?」
女性が言った。サモリは答えない。むすっとしている。女性は続けて、
「私の家に泊まってもいいよとは言ったけど、こういう事情ならもうダメだよ。家族の元に帰って、安心させてあげなさい」
と言った。やはり家に帰るつもりはなかったのか。
「サっちゃんのことはずっと前から見てるよね。でもこんなことは初めてだ」
と、背の高い男性。なんだ。みんな優しそうでまともそうな人たちじゃないか。俺はてっきりこの人たちが……。
「あの」
俺は三人の大人の人に向けて頭を下げた。
「サモリがお世話になりました。今日はこの後大丈夫ですよね? 勝手に連れて帰りますんで」
三人は顔を見合わせた。勿論構わないよ、と、リーダーらしき髭面の男性が言った。
ライブハウスを後にした俺たち二人は、駅までの暗い道のりを行く。俺の方はスニーカーで音がしなかったが、サモリの方はよくわからないごつい厚底だったから、音が響いた。しばらくの間黙っていたが、サモリが口を開いた。
「あの人たち、パパのお友達だったんだ。拾い集めてるんだよ、あたし。いろんな人から。パパの思い出を。化石収集家みたいに。この前パパがママと出会った馴れ初めなんか聞いちゃったよ」
「へぇ」
よかった。何も話してくれないかと思った。こいつの意に反して連れ帰ることになるんだしな。しかしおとなしくついてきてくれるのはただ単にあの状況ではもう大人の家に泊まれないからという理由に過ぎない。そんなことを考えていると、隣を歩く彼女から声をかけられた。
「ヒィロ。君はあたしに何ができるっての? 何がしたいの?」
俺は一瞬そっちに目をやるとまた前に目を戻して、
「どこからどう見ても寂しがってる人間に手を貸さない理由があるか? 見てられないんだよ。自分で自分の周りの世界をシャットアウトする時があるよな。前の世界……あー、えー、今みたいな状況でない時も、もしかしたらそうなんじゃないかって今は思える。気にしてないふりして強がってさ。でも心の中じゃ泣いてたんだ。今の方がましだ。ずっとずっとましだ。自分の気持ちに素直に振る舞えてるんだから。でもいくら何でも拙いよ。ガキそのものっていうか。そんなお前を何とか俺の力でもう少しいい人生を送らせてやりたい。それじゃダメなのか?」
「おせっかいだね。何でそうしようと思うの?」
「お前と、俺は、家族だからだよ」
「結婚してたっけ? あたしたち。祝言でもあげた? バージンロード歩いた? あたしが寝てる間に役所に届け出でも出したの?」
「お前が寝てる時間はだいたい役所閉まってるだろ」
「わからない。昼間、寝坊したときに行ったのかも」
「お前の押印が必要だろ」
「印鑑持ってないよ、残念だけど」
「じゃあ役所にそんな届け出出してないってわかってくれるな?」
「うん」
ふう。どうにも疲れる会話だ。サモリは追い詰められるとこうなんだ。自分一人にしか通じないような言葉を使って人を煙に巻く。人とのコミュニケーションを拒否する上手い手と思ってるようで、気に食わない。ただはねつける様な拒否が効かなくなってきたからこういう手に出ているようだった。まずその虚飾をはがさなきゃどうしようもない。こいつの魂胆はわかってるんだ。
「サモリ」
俺は立ち止まる。相手もそうする。
「もうすこしちゃんと話をしてくれ。どうしてそんなに他の人のことを拒絶するんだ。何か怖いことあったか?」
サモリは黙っている。俺は畳みかけるように、
「もうすこしちゃんとコミュニケーションに応じてくれ。何もかも拒否して消えちゃうような真似も、変なこと言ってごまかすような真似も、もううんざりだよ。御願いだから……」
「だってできないもん」
サモリはじっとこちらの目を見ているのだった。小さな背だから、見上げるようで。だが声は大きかった。
「どうせあたしは出来ないもん!」
子供が駄々をこねるような調子だった。あたりを歩いている人はいなかったから注目を浴びるようなことはなかったが、観られていたら何だと思われただろう。サモリが俺から視線を切ると、駆け出す。歩道橋をタンタンと音を立てて上がる。それを追う俺。サモリのギターケースがガタガタと揺れているのに追い縋って、その手を掴む。
「放してよ! ヒィロ!」
「またどこかへ消えるつもりか!?」
「あたしなんかもうどうなったっていいんだ!」
本気で振り解こうとしている。階段の一番上だってのに危ないことこの上ない。
「パパもいない! ママもいない! 同じくらい大切な人なんかいない! 見つかりっこない! 他の人はどうせわかってくれない! 距離を詰めてくれてもあたし自身が拒否しちゃう! いろんな方法で! だのにもう人と関わりたくなんかないよ! あたしは一人でいいんだ! だから! もう放してよ!」
その時だった。変に体を上に引っ張ったサモリがバランスを崩したのは。彼女の体は咄嗟に出した俺の手をすり抜けた。そして、何メートルも下の、地面の方へ。ガダダッと音を立てて落ちて行った。
「サモリ!」
サモリは一番下まで落ちてしまった。ギターケースが開き、彼女のギターがバラバラになっているのが見えた。慌てて下まで降りる。頭なんか打ってないだろうな。
「サモリ! サモリ!」
彼女のところまで降りて行った俺は必死に呼びかける。こういう時、揺するのは不味いというのは知っている。クソ、だったらどうすりゃいいんだ。抱き起そうと試みるが、先にサモリの方が起きた。
「大丈夫なのか」
「すごく、痛い」
地面の上で上半身を起こして体のあちこちをさするサモリ。俺も遠慮なくそうする。どこも折れていないようだし、頭も打っていないようだった。奇跡的だ、おそらく……。
「パパのギター!」
サモリの背で滅茶苦茶になっているギターが壊れることで衝撃を逃がしたらしいのだった。
「あ、あ」
「サモリ……」
こんなことはあり得ない、あっていいはずがない。そんな表情で残骸になってしまったギターを見つめるサモリ。身体も痛いだろうに、構わず破片を拾い集めようとしている。
「ずっと、一緒に、いたかったのに」
ギターがなければ危なかったかもしれない。盾になってくれたというわけだ。元はギターだった木片を拾い上げ見つめながら呆然としているサモリだった。俺は破片を拾い集め始める。いつまでもこうしてもいられないだろう。元気を出せ、なんて言えない。というかこれはもみ合ってしまった俺のせいでもある。半分くらいは。とにかく体が無事なようでよかった。とだけ思った。それだけ、無言で片づけを続ける。心ここにあらずの様子だったサモリも、俺の行動を見てのそのそ動き始める。ただ悲しみに打ちひしがれているだけよりかは楽なはずだ。
拾い集めているうち、俺はある大きめの破片に目を止めた。なんだろう。それはボディの表板のようだった。その裏、壊れることで露わになった裏側に何か書いてある。これは……。
「なあ、サモリ」
返事はない。
「これ、お前のお父さんが作ったんだよな? 確か」
今度は返事があった。
「そうだよ。ギターづくりが仕事だったからね。でも、もう、ダメだ。もうお父さんが作ったギターはもうない。どこにもないんだ」
泣きそうではない。絶望そのものと言った空虚な声だった。だが俺はそんなことお構いなしにこう言う。
「なあ、これ見てみろよ」
そうして俺は今しがた見つけた破片を彼女に差し出すのだった。
「なに? コレ」
「いいからよく見てみろ!」
サモリは何のことやらわからない様子でそれを受け取ったが、目を落とした数舜後、それをこの世で一番大事な宝物のように胸に抱えるのだった。そうだ。それはきっと一番大事なもののはずだった。
「なんて書いてあったか、わかったか」
コクコクと頷くサモリ。目からは大粒の涙がこぼれていた。
「これ、本当に?」
「本当じゃなかったら何だっていうんだよ。確かにこれはあのギターの破片だよ」
サモリは恐る恐ると言った風でもう一度破片を目の高さに掲げる。そこにはペンでこう記されていたんだ。「サモリがほかのみんなと幸せになれますように」。その文字を穴が開くほど見つめているのがわかった。俺はサモリの方に顔を寄せて、
「お前の父さん、見つかったな」
と言った。サモリは震えながら声にならない声を上げている。思わず、抱きしめた。サモリは子供のように泣き始めた。それは、多分、体が痛いからじゃなかった。
その日は夜遅くなることもなく、俺の、俺たちの家へ帰りついた。母は、おかえりなさい、と言った。サモリは、ただいま、と言った。
「一時はどうなることかと思ったが、世界の終わりの前になんとか間に合ってよかったな」
夏休みは何事もなく終わった。サモリは俺の父さんと母さんに買ってもらった新しいギターを携えて学校へ一緒に来てくれた。シズ姉とナイがそれを温かく迎えた。
「心配かけてごめん」
なんだかサモリらしくない言葉だった。俺たちは苦笑しつつそれを受け取る。サモリは他人とまっとうに関わるという道を選び取ることができたようだった。もう心配ない。俺は強くそう思った。それにしても余裕ができてから周りを見てみれば、日本が『闇』に封鎖されたりしても誰一人冷静さを失わない。むしろ非日常を楽しんでいさえする。普通に学校に通ってくるし。そういうものだ。なんだか俺は救われたような気持になっていた。これで今回の世界でもやるべきことは終わった。さあ、お次は何だ? 俺はそんな勇ましい気持ちでいた。