第二十一話 解きほぐせない心
六月になると、サモリは俺たちを避けるようになった。これには参った。時間が俺たちの仲を取り持ってくれるだろうと思ったのに、頑なになられると手の施しようがない。前の世界では少なくとも最低限と言えるレベルでもっと社交的だったのに。わけがわからない。他の世界ではこうはならなかったんじゃないか? 俺か? 俺のせいなのか?
(まったく世話の焼けるというか)
俺は出来の悪い妹か何かのようにあいつのことを想うようになっていた。ナイに感じた守ってやらなきゃという気持ちも、シズ姉に感じたドキドキも、あいつには感じなかった。一体どうして世界は今度俺をサモリの幼馴染として選んだのか、わけがわからない。今日もサモリはチャイムが鳴ると一目散に教室から出て行ってしまった。もちろん行先は俺たちの向かう中庭じゃない。屋上だ。屋上で食べたり食べなかったりらしい。ほとんどギター弾くのに時間を費やしてるんじゃないか。俺はそんな後姿を見送った後シズ姉の席にナイと一緒に集う。
「ずっとああやって俺たちから逃げる気なのかな。もしかしたら夏休みまで一度も昼を一緒に食べないつもりなんじゃないのか。屋上にはあいつが捨てたハンバーガーのハンバーグがうず高く積み上がってたりして」
「ヒィロさん」
強い調子の声に俺はハッとなってシズ姉の方を見る。その眼差しは怒りを表現してはいなかったが、俺の軽口を諫めるのには十分だった。
「ごめん、シズ姉」
「そういう言葉はサモリさんのために取っておくべきですよ」
「そうだよ! ヒィロ。最近君のお母さんがサモリのためにお弁当作っても無駄になるの、誰のせいだと思ってるの!」
参った。二人から咎めるような視線を受けて、俺はバツの悪さに頭を掻くしかない。鞄の中の、サモリの分のお弁当を見る。俺が代わりに食べて処理するそれを。中庭に向かう。芝の上に腰を下ろして三人で弁当を広げた。しばらく誰も何も言わなかったが、シズ姉がまるで全く関係のないようなことを言う風に言い始めた。
「とても素直な人なんですよ」
え? と、一瞬俺は誰のことを言ってるのかわからなくなる。遅れて、ああ、サモリの話だよな、と気づく。
「そうかな? 全然素直じゃないと思うけど」
俺の言葉にナイから反論が届いてくる。
「わかってないなあヒィロは」
わかってない、わかってない、わかってない。これだ。こればっかりじゃないか。わからないものをどうしてわかれる筈があるんだ。むしろみんなどうやってあのサモリのことをわかってあげられてるんだ? 女同士の不思議なテレパシーか?
「多分、本当に頼る人がいなかったらサモリさんはもっと頑なだったと思うんです」
というとどういうことだ? ナイの方に目を向ける。首を傾げられてしまった。お前、自分でもわかりもしないくせに俺のことを「わからない人だ」なんて言っていたのか。その不満はぐっと飲みこむ。
「ごめん、シズ姉。もっと詳しく教えてよ」
いいですよ、とほほ笑むとシズ姉は優しく教えてくれた。
「きっと、ご両親がいないことでは同じくらい苦しんだと思うんですが、それを隠したと思うんです。心はボロボロなのに、きっと私たちの誰にも気づかれないようにそっと仕舞ってしまって」
ドキッとした。それはまるで……。
「多分、私は気にしないよ、とか、そういうセリフを言って、強がったんじゃないでしょうか」
他の世界のサモリのことじゃないか。さすが、シズ姉の洞察力だ。そうか、そういうことだったのか。俺のせいだったんだ。俺に甘えていたんだ。今も俺が許してくれると踏んでつんけんした態度をとってる。俺という頼る存在があるからこそ堂々と自分の心を守る行動をとれている。だとすれば他の、幼馴染の俺という存在がいない世界のサモリは……。
「ヒィロさんがいなかったらサモリさんはつぶれていたのかもしれないですね。そう考えると少し怖いですが」
「なるほど~! さっすがシズ姉だね!」
ナイのそんな物言いも俺の耳には半分以上届かなかった。そういうことだったんだ。俺は立ち上がった。食事を途中で中断して。二人は驚いてこちらを見た。
「どうしたの? ヒィロ」
とナイ。シズ姉の方はなんとなく察してくれたようで、頷いてくれるのだった。俺は二人を中庭に置いて走り出す。目的地はもちろん、屋上だ。
ドアを開けると六月の強い風が吹き込んできた。屋上は本来立ち入り禁止。昼飯時に浮ついていてもわざわざ罰を食らいにくる人間はそうそういない。見回りの先生はいないが、これでも結構モラルの高い学校なんだよ。そんなウチの問題児がサモリというわけだ。あいつはお構いなしに屋上に来る。それでもおとがめはない。何故なら、その音楽の能力が一目置かれ、境遇が同情されているから。ジャラジャラとアクセサリーを付けても授業を聞いていなくても成績が悪くても何も言われないのはそのせいなのだ。だがそれがあいつを孤立に追いやっていた。残酷な配慮。悲しく引かれた隔離のライン。俺たちだけがそのボーダーに半歩踏み込んだ。あいつは屋上のへりを覆うフェンスに身をくっつけるようにして、ギターを抱えてあぐらをかいていた。俺が隣に来てもあいつは反応しない。青空と街を背景に昔の曲を垂れ流すその姿をしばらく見下ろした後、俺も傍に腰を下ろした。昼休みが終わるまでじっと聞き入っていた。昼休みが終わっても、そうしていた。チャイムに邪魔されて曲が途切れる。そうなって初めてサモリはこちらに気付いたように、
「何? ヒィロ? 自殺でもしに来たの?」
と訊いた。
「自殺なら心配される方じゃなくてする方かな。このままお前が消えちまうんじゃないかとな」
涼しい風と暖かい日差しの中、また、ギターの音色が響いた。空気の溶け込むように。きっとこいつの言う風との会話という奴は成功しているんだろう。俺は俺とではなく風と話し続けるサモリを無視して続ける。
「前の世界のお前、じゃない、俺がいなかったらお前はしなくていい我慢をたくさんしなきゃいけなかったんだよ。お前は変に強がる所があるから。それを今は素直になれてる。俺たちまだ子供だから、やり方が子供じみていたって素直なくらいがちょうどいいんだ。わかったんだよ、俺。ごめんな、今まで分かってやれなくて」
じゃららん、じゃららん。他人事のように会話と関係なくかき鳴らされるギター。こちらを向くサモリの顔。それまで空か町か、少なくとも遠くのものを見つめていた瞳が不意に俺に焦点を合わせた。
「そうだよ。でももうどうしようもないんだ」
「どういうことだよ」
「心を誰かに開くってことがどういうことなのか全然わからないんだ。もうほっといてよ。あたしはきっとパパとママと一緒に自分の心の歯車までなくしちゃった大間抜けなんだよ」
俺はため息をついた。
「そんなもん誰だってなくすさ。でも俺たちと一緒にいれば見つかる。そうだろ?」
サモリはそれを聞くと弾けるように立ち上がる。ギターがその声を止め、ネックがフェンスに当たってガシャンと音を立てた。
「見つからないよ! パパとママしか持ってないんだ!」
「あっ、サモリ!」
駆け出す彼女。俺は立ち上がって追おうとする。だがなんて間抜けだろう。転んでしたたかに顎を床面に打ち付けてしまった。日光を吸収した床はいやに温かかった。幸いどこも切れていなかったので血の味が広がるようなことはなかったが、揺れる視界と痛みの中、妙に素早いあいつの後ろ姿を見送ることしかできなかった。
それっきり、サモリは今度は学校からすらいなくなってしまった。前の世界の俺のように、部屋から出てこなくなったのだ。これは後退じゃないのか? 俺のせいなんだろうか。